大阪東教会礼拝説教ブログ

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2020年9月6日大阪東教会主日礼拝説教 使徒言行録10章1~23節

2020-09-06 14:57:59 | 使徒言行録

2020年9月6日大阪東教会聖霊降臨節第15主日礼拝説教「殻を破る」吉浦玲子
【聖書】
さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。
翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
【説教】
<ヤッファに居合わせたペトロ>
 強力な台風が日本に近づいてきています。おととし大阪を襲った台風や、昨年千葉で甚大な被害をもたらした台風よりも強いものだと聞いています。昨日は関西でも大気が不安定となり雷雨がありました。台風の被害が最小となりますように、ことに九州、西日本の人々が守られますようにと切に祈ります。
ところで、自然災害ということで思い出すのが、阪神淡路大震災の時、たまたま神戸で震災に遭遇した竹山広という長崎の歌人の短歌です。教会報にも紹介したことがありますがこのような短歌です。
 居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ
耳でお聞きになると分かりにくいかもしれませんが、震災などの場に居合わせること居合わせないこと、それは天の運であって、居合わせてしまう人の運命的なものを詠嘆している短歌です。阪神淡路大震災の時、竹山広はたまたま長崎から旅行で神戸に来て滞在していました。まさに大震災に居合わせてしまったのです。その竹山自身は20代のとき長崎で原爆に被爆しました。結核で入院していた病院で、ちょうど退院予定の日に被爆したのです。退院が一日早ければ、運命が変わっていたでしょう。居合わせることが幸いなのか、居合わせないことが幸いなのか、それはあらかじめ分からないことです。竹山広はカトリックの信徒でした。短歌の中では天運と書かれていますが、彼の中には神の摂理への強烈な思いがあったと思います。
 さて、今日の聖書箇所では、ペトロはヤッファにいました。ヤッファに<居合わせ>たのです。これは天運であり、神の摂理、導きでした。もともとはエルサレムの教会の要請で、リダのクリスチャンの集まりへと派遣されたのでした。そのリダにほど近いヤッファでタビタという女性が亡くなり、ヤッファに来てほしいとヤッファの人々がペトロを招いたことから、ペトロはヤッファに行くことになりました。そこで革なめし職人のシモンの家に滞在していたのでした。このエルサレム、リダ、ヤッファという流れは、けっして偶然ではなく、まさに神が寸分の無駄もなく備えてくださった導きでした。
 ヤッファは地中海沿岸の町で、カイサリアまで海沿いの平地を通って50キロほどです。そのカイサリアにコルネリウスがいました。このコルネリウスのために、さらには教会が公に異邦人伝道へと踏み出すために、神はカイサリアと行き来しやすいところへペトロを導かれました。神によってそこに居合わせたのです。
<求める者に応えてくださる神>
 ヤッファとカイサリアは行き来しやすい位置関係でしたが、文化的には大きな違いがありました。そもそもカイサリアというのはヘロデ王の時代に成長した港湾都市でした。ローマのカエサルをもじったカイサリアという名前から分かるように、ローマの直轄領であり、多くのローマから派遣された人々が駐屯している町でした。カイサリアはローマの色の濃い町で、ヤッファとは距離的には近かったのですが、文化的にはかなり隔たっていました。ヤッファとカイサリアの間には距離以上の遠さがあったと得います。そのローマの力、文化が色濃いカイサリアにいた異邦人の一人がコルネリウスでした。
 彼はイタリア隊の百人隊長というローマの地位ある人であったようです。そのコルネリウスは意外なことに「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」とあり、イスラエルの神を信じていたのです。神は、このコルネリウスに福音を知らせるために働かれました。コルネリウスは、祈りや施しに熱心であったところから、行いによって救われると考えていたのでしょう。自らの熱心さによって神を見いだすことができると考えていたのです。それは方法論としては正しいことではありませんでしたが、神を求める思いは強い人だったのです。その神を求めるコルネリウスに神は応えてくださいました。
 ところで、旧約聖書の時代から、イスラエルの民は特別に選ばれた民でした。イスラエルの民と、それ以外の異邦人の間には明確に区別があったのです。救いはまずイスラエルから起こると考えられていました。しかし、神はそもそも、天地創造をなさった神であり、すべての被造物の神でもあられました。ですから、旧約聖書の時代でも、イスラエルの民以外にも神が目を留められた人々はあったのです。旧約時代のイスラエルの偉大な王ダビデの曾祖母はルツという異邦人の女性でした。その異邦人ルツの物語は旧約聖書の中の一巻として納められています。神はすべての被造物の神であられ、ことに神から特別に創られた人間には、罪によって堕落したため完全ではないにしろ、神を思う心は与えられていたのです。ですから旧約の時代においても、さきほどのルツをはじめ、預言者エリシャに救われたナアマン将軍など、イスラエルの神を信じる異邦人はいました。異邦人を曾祖母に持つダビデの血筋から主イエスは誕生しましたから、主イエスの血筋には異邦人の血も入っていることになります。そういう意味で、神はけっして異邦人をその顧みから除外されていたわけではないのですが、ただ救いという範疇において、キリスト到来までは、イスラエルとそれ以外の民は厳密に区別されていました。
<内なる頑なさ>
 この区別は、清い・清くないということに由来します。神の前で厳密に区別があり、それは今日の聖書箇所でペトロが食べ物について言っている「清くないもの、汚れたもの」ということに関わります。レビ記には細かく食べ物についての規定が記されていますが、これは単に衛生上、良い悪いというものではありませんでした。神との交わりに関わることでした。清くない、汚れているということは神と交わることができないということなのです。ですからペトロは清くないものも入れられている入れ物を見て「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と叫んだのです。神との交わりに生きてきたユダヤ人にとって、神との交わりが断たれる清くない物、汚れた物に接することは絶対にありえないことでした。その感覚は、日本に住む私たちには到底理解できないことです。
 しかしながら、私たち自身にも頑なさやこだわりというものは、実際のところはかなりあると思います。もちろん、文化や慣習、個人的な環境によって培われたものと、神の律法によって規定されたものを同一に扱うことはできません。しかし、内なる頑なさという点では私たちにも身に覚えのあるところです。たとえば九州は男尊女卑と言われますが、たしかにその傾向は強いのです。男はこうあるべき、女はこうあるべきという固定概念は地域や年代やさまざまな環境によって差はありながら、厳然と存在します。性別に限らず、意識しないうちに差別的な考えを自分がもっていることもあります。自分にとって異質なものや、未知なものへの頑なさや拒否反応は、人間の防衛本能の裏返しでもあります。これまで経験したことのないこと、接したことのないものとを受け入れていくということは、自分自身にとっては、自我の危機を伴うことでもあります。ある牧師は、これを移行期の危機と呼んでおられました。卒業や就職や引っ越し、結婚、人との別れ、定年、そういう環境の変化は、これまで自分が経験していないものを体験する転換期といえます。そこに危機があります。うまく適応できないと、自分自身を統合することができなくなるのです。
<神が清められる>
 さて、神は清くないものは食べないというペトロに対して「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と幻の中で示されます。こういうことが三度あったということは、ペトロの考えの頑なさの表れであり、それに対して神が強く導こうとなさっていることの表れでもあります。
 <神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない>という言葉は、このとき、まさにペトロのもとに向かっていたコルネリウスの使者たちをペトロが迎えるための備えのためでもありました。食物のみならず、異邦人を汚れた者と考えるユダヤ人の考えに対して神がおっしゃったことです。
 これは単に、人を差別してはならない、というヒューマニズム的なことではありません。神との交わりに関わることなのです。キリスト到来以前は、たしかに神との交わりは基本的にユダヤ人に限定されていました。しかし、キリストによって、その限定の殻は破られました。使徒言行録と同じ著者によるルカによる福音書で、幼子イエスが神殿に奉献される時、祭司シメオンが預言した言葉があります。「「これは万人のために整えてくださった救いで、/異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
 日本に住む私たちにとって、人類は皆同じで平等という考えは一般的なものです。<万人のための救い>と聞いても、神の子であればそうだろうと感じます。しかし、聖書の歴史の中で、これは大きなことです。アブラハムから始まりイスラエルの歴史の中に限定されていた救いが、キリストによって万人のものとなったのです。異邦人にキリストによって神が知らされるのです。その異邦人の中に日本に住む私たちも含まれます。
 キリストが十字架によってすべての殻を破ってくださったのです。救いが万人に向かうことになったのです。そして今日の聖書箇所は、具体的に、教会の働きとして異邦人へと宣教が進んでいく、教会がこれまでの殻を破るという歴史的な場面が描かれています。もちろん、これまでもサマリア伝道、エチオピアの宦官への伝道等はありました。しかし、正式に教会が異邦人伝道へ舵を切っていく、そして、福音がパレスチナという地域から全世界へ殻を破って広がっていく、その大きな流れがここで生まれようとしているのです。
<愛のために>
 少し前に、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所で、ユダヤ人でありながら同胞をガス室に送り出すナチスの手先として働いていたゾンダーコマンドと言われた人たちを紹介する番組がありました。ナチス自身がユダヤ人の殺害に直接手を下さないためにゾンダーコマンドを利用したのです。たいへんに重い内容で、軽々しく語ることはできないことですが、少し触れます。ゾンダーコマンド自身、さまざまな理由で自分が生き残るために苦しみながらゾンダーコマンドとして働いたのです。ゾンダーコマンドは出身地が異なるユダヤ人を巧みにナチスは選んだようです。同じユダヤ人といっても、ヨーロッパ各地から来た出身地の異なる、言葉も文化も違う人々を一緒に働かせたようです。まったく違う人間同士というより、近い関係でありながら差異があるとき、むしろ人間は反発します。近親憎悪のような感情があります。ゾンダーコマンドたちは互いに意思疎通のできない、むしろ反発しあうような人々が共に働かせられました。それは彼らが結託して反乱などを起こさないためでした。実際、彼らの残したメモには、当初、ゾンダーコマンドたちは互いに批判的であったようです。しかし、やがて彼らはひそかに連絡をとるようになり、ガス室を破壊するという反乱を企てました。限界状況の中、自分が生き残るために裏切者として働いていた彼らが、自分の命を捨てて同胞を救い出す決意をして決起しようとしたのです。結局、戦局の悪化のためか、収容所内の状況が急変して作戦は実行されなったようです。そしてゾンダーコマンドたちの多くはナチスから口封じのために殺されたのです。たいへん重く暗い話ですが、言葉も文化も違い反発していた人々が、極限状態の中で同胞を助けるために協力しようとしたという記録に胸を打たれます。
 ある牧師は、神を伝える側の者に、より深く神への服従が求められるとおっしゃっていました。言い換えますと、愛の実践を行う者は神への服従を求められるということです。「神が清くしたものを清くないなどと、言ってはならない」と三度もペトロに示されたのは、ペトロが異邦人へ福音を伝えるためでした。ペトロがさらに神に従順なものとされるためでした。人間は愛を実践するために自分の殻を神によって破っていただかなければなりません。それは痛みを伴うものです。古い自分を捨てるものだからです。
 しかし、救いにおいて、愛において、<神にできないこと何一つない>のです。神は頑なな私たちの殻を破ってくださいます。神に従えない私たちを従う者としてくださいます。私たちを、その日その時、神の最善の場所へと導き居合わせさせてくださり、救いのため、愛のために用いてくださるのです。

 



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