大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録6章1~15節

2020-07-26 15:46:34 | 使徒言行録

2020年7月26日大阪東教会聖霊降臨節第9主日礼拝説教「神を写す者」吉浦玲子

【聖書】

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

【説教】

<祈りと御言葉の実践>

 教会の中心には祈りと御言葉があります。祈りと御言葉によって、人を救い、恵みへと導く、それが教会の働きです。教会の中心に祈りと御言葉以外のものが入ってくると教会は教会ではなくなってしまいます。一方で教会には、種々雑多な実務的なことも発生します。人と人の間の問題も起きてきます。使徒言行録の時代の教会には、言語も育った背景も異なる多様な人々がいました。今日の聖書箇所では、ギリシャ語を話す人々から、ヘブライ語を話す人々への苦情が出た、とあります。食べ物の分配で不公平が生じたというのです。当時の教会は財産を共有し、必要なものを入手して人々に分配していました。その分配で不公平が生じたということは、祈りと御言葉を中心とした教会で、財産・お金の使い方の問題で揉めたということで、ひどく生々しい話です。

そこで、使徒たちは、教会内の実務的なところを治める人を立てることにしました。当時はまだ教会の中の職制が今日のようにはかっちりと定められておらず、今日と違うところもありますが、ここでは今日でいうところの執事にあたる人々が立てられたのです。これは、教会の本分である祈りと御言葉、つまり礼拝を司る牧師や司祭と、教会内のさまざまな実務を行う人々を分けて、教会内の分担を明確にしたということだけではありません。起業したばかりのベンチャー企業が、徐々に大きくなるにしたがって組織を細分化して、さまざまな部署や役職を整えていくということとは少し違います。

「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」と使徒たちは言っています。それは食事の世話をなにか下世話な仕事とみなして、そういうものは使徒でない者にやらせようと言っているわけではないのです。そもそも1節に「仲間のやもめたちが軽んじられていた」とあります。つまり神の家族である教会において身分や立場による差別が起こっていたのです。そしてまた背景に文化や慣習の違いがありました。ギリシャ語をしゃべる人々はもともと外国にいてエルサレムに戻ってきた人々といえます。それに対してヘブライ語を話す人々はもともとイスラエルの領内にいた人々です。両者には、文化や習慣の違いがかなりあったようです。おそらくどちらかというとヘブライ語を話す人々の方が、自分たちは純粋なイスラエル人だという自負があったと思います。彼らからギリシャ語を話す人々は低く見られていたかもしれません。そのギリシャ語を話す人々から不満が出たのです。

神の言葉によって、神の家族とされたはずの人々の間に、分裂が起こりました。それはお金の分配や物資の供給システムの問題ではなく、祈りと御言葉が、現実の教会の中に定着していないということです。礼拝で神の言葉を聞きながら、その言葉を現実のものとしていないということです。御言葉と現実が分離していたのです。神の愛の言葉を聞きながら、教会の現実の中で愛ではないことがなされているのです。そもそもやもめたちが軽んじられていた、ということは、やもめや寄留者といった弱い立場の人々を大事にするよう諭しているモーセの律法が実践されていないということです。さらに、「神を愛し、隣人を愛しなさい」とおっしゃった主イエスの教えも実行されていないということです。

そのような礼拝と現実の分離をつなぐ役割を担って実務的なことを治める人々が立てられました。「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」とあります。ここで、聖霊に満たされた、神の知恵を持った人を選びなさいと使徒たちは言っています。単に実務をするだけなら、実務能力の高い人を選べばよいのです。宗教団体だからちょっとそれらしく<“霊”と知恵に満ちた人>という徳の高い人を選びましょうと言ったわけではありません。神からの霊の力と知恵によって、教会の中を治めることのできる人々を立てようということなのです。

ある方はこの部分で7人という数字に着目されています。ギリシャ語を話す人々、ヘブライ語を話す人々の間で問題が起こっているなら、両者から同数の人を立てて調整したら良さそうなところを、あえて7という絶対に同数にならない人数を使徒たちが指定しています。つまり教会は、そもそもここで人間的な調整や実務を求めているわけではないということなのです。政治的な解決を求めてはいないということです。あくまでも神の霊と知恵によって問題を解決することを選んだということです。そしてその結果選ばれた人々は、名前から見ると、ギリシャ語を話す人々ばかりだったと考えられます。共同体を構成する二つのグループの内、片方からだけ人が選ばれたのです。これはこの世の常識からは考えられないことです。

教会の中の一つ一つの事象を、聖書と主イエスの教えに沿って判断していくリーダーとして新たに7人は立てられました。やもめを軽んじながら、すべての人を愛しておられる神のことを伝道はできません。言ってみれば新たに立てられた7人は、使徒たちの言葉を教会の内外で実現していくリーダーでもあったのです。神の愛といいながら弱い立場の人を軽んじたり、逆に、聖書を軽んじて人間的ななれ合いのなんでもありの無秩序に教会が陥らないように、聖書と信仰に基づいて治めていくための人々が立てられました。教会のすべての実務が聖書と信仰に基づいたものとなり、教会がまことの愛の共同体となるためのリーダーでした。

<殉教に選ばれる>

 その新たなリーダーたちの一人がステファノでした。ステファノという人は信仰と聖霊に満ちた人であると記されています。「恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」とあるように、ステファノは執事として奉仕をしながら伝道をしていました。そのステファノは、生まれたばかりの教会における最初の殉教者として有名です。信仰と聖霊に満ちた人がなぜ最初に殺されてしまったのでしょうか?これまで使徒たちが逮捕されたりはしました。牢に入れられたり鞭打ちにあったりはしましたが、その都度、助けがあり、解放されたのです。しかし、信仰と聖霊に満ちた人ステファノは命を失いました。

これは迫害する人々の質が異なっていたことが一つ影響をしています。これまでは祭司といった権力者たちが教会に敵対をしていましたが、民衆は教会の味方でした。ですから権力者たちも手荒なことはできなかったのです。今日の聖書箇所で記されている「解放された奴隷の会堂」に属する人々やキリキア州とアジア州出身の人々というのは、おそらくステファノと同様、外地から帰ってきたギリシャ語を話す人々であったようです。ステファノは自分の出自の近い人々に伝道をしようとしたのです。しかし、彼らはステファノの語る福音を信じることはできませんでした。しかし、議論ではステファノに打ち負かされ太刀打ちできませんでした。そこで「彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。」とあるように、ステファノをイスラエルの神の冒涜者に仕立て上げました。13節にも「聖なる場所と律法をけなした」と訴えたとあります。つまり神殿と律法を冒涜したというのです。さらに、民衆をも扇動したのです。こうなりますと、祭司たちも律法学者たちも黙っていません。神と律法と神殿を冒涜したという訴えが、今回は民衆側から出たのです。これはかつて使徒たちが最高法院の席に立たされた時とは異なる状況です。

しかし、ステファノが殺されたのはそのような外的要因だけに因しているいるのではないと考えられます。使徒言行録を読み進めますと、実際のところ、ステファノの殉教は、エルサレムの教会への大迫害の号令となりました。これを契機に弟子たちはエルサレムから散っていきました。それは一見、エルサレムの教会の分裂・崩壊の出来事のように見えます。しかし、8章を見ますと、散っていった弟子たちはそれぞれの場所で福音を告げ知らせたのです。つまりエルサレムで大きくなった教会は、さらに広い地域に広がっていくために、むしろ細胞分裂したような形で、あるいは植物の種が風に乗って遠くに広がっていくように、各地に広がっていったといえます。使徒言行録の1章で主イエスが、あなたがたは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃったことが、まさにステファノの殉教を契機に実現したと言えるのです。

つまり、ステファノは教会の成長のために特別に選ばれた器でした。殉教に選ばれたのです。殉教に選ばれたというと、なんだか違和感もあるかと思います。しかし、実際のところ、ステファノは神に選ばれて殉教をしたのです。そもそも、神に選ばれるということは十字架を担うということでもあります。クリスチャンはみなそれぞれに十字架を担うのです。私たちはおそらく殉教はしないでしょう。殉教ということには選ばれていないのです。しかし、やはり一人一人、十字架を負って歩みます。その十字架は、単に重荷を負って人生の坂を上るというようなものではなく、誰かを生かすための歩みを為すということです。そのように神が導かれるということです。ステファノの殉教によって教会は広がり、多くの人が福音を知らされ、永遠の命を与えられました。私たちもまた、一人一人、誰かを生かすために、神に選ばれて十字架を担って歩みます。それがキリストの弟子として生きるということです。キリストの弟子として生きるとき、私たちはそれぞれに十字架を負い、それぞれの歩みにキリストを写す者とされていきます。

<本当の平安>

さて、ステファノは自分の置かれた状況を十二分に分かっていました。使徒たちが逮捕された時とは異なり、自分は殺されるかもしれないという思いがあったでしょう。敵対する者たちは偽証人を立ててきて、抜かりはありません。絶体絶命の状況です。しかし、聖書は「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」と書きます。

これは殉教したステファノを美化するための表現ではありません。実際、天使のようなとしか言いようのない顔つきをステファノはしていたのだと思います。実際、ステファノへの怒りと憎しみに満ちたまなざしのなかにさらされながら、ステファノは天使のような顔をしていたのです。それは死を覚悟した悲壮な顔でもなく、理不尽な裁判への怒りや悲しみに満ちた顔でもなく、自分を陥れる者たちをさげずむような顔でもなく、平安に満ちた顔だったのだと思います。次週の説教箇所になりますが、7章の56節で「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とステファノは語っています。ステファノは聖霊によって、天と繋がれていました。肉体には死の危険が迫っていましたが、彼にはすでに天におられるキリストへの信頼があったのです。しかし、その信頼は、キリストが自分の肉体の危機を救ってくださるという信頼ではなく、死を越えた命に生きる祝福をすでにいただいているということへの信頼でした。

そしてまた、ステファノは平安を得て、どうぞ後は御心のままに、となすがままに運命に身をゆだねたのではありません。ステファノは最高法院で大胆に語ります。それは憎悪に満ちた反対者の中にあってステファノをさらに窮地に陥れる行為でした。ステファノの説教は次の7章にあるようにとても長いものでした。旧約の時代からの神の約束を語り、人々が神の聖霊に逆らっていることを訴えました。

十字架を担い、天に結ばれた者は最後まで大胆に戦います。神の御心を語ります。天使がかつてザカリアやマリアに神の恵みの出来事を伝えたように、ステファノもまた神の恵みの出来事を大胆に語りました。神を信じる者は、輝くような平安の中で、最後まで戦うのです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿