大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書11章1~16節

2018-12-06 17:58:26 | ヨハネによる福音書

2018年11月25日大阪東教会主日礼拝説教「彼を起こす」吉浦玲子

<遅れるイエス様>
 病人がいました。おそらくまだ若い人です。ラザロという名の男性でした。病状はひっ迫していました。その姉妹たちは、主イエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と使いの人をやりました。姉妹たちは、かなり主イエスと親しかったようです。病人であるラザロもまた、「あなたの愛しておられる者」と姉妹がラザロのことを指して主イエスに伝えているように、特別に主イエスと親しい関係であったようです。しかし、主イエスはすぐにラザロのもとに行こうとはなさいませんでした。マリアとマルタの姉妹、そしてラザロの住んでいた村は、ベタニアでした。エルサレムからさほど遠くない、ほんの数キロ程度のところにありました。
 ヨハネによる福音書のこれまでのところで、主イエスには危機が迫っていることが記されていました。エルサレムの権力者たちは主イエスへ殺意を抱いていました。直前の場面では主イエスは石打にあいそうになったのです。そのエルサレムの権力者たちのもとから主イエスは去って、ヨルダン川の向こう側にいって宣教をなさっておられました。その主イエスのもとに、エルサレムにほど近いベタニアからのラザロの病を知らせる便りが届いたのです。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」とありますように、主イエスがラザロのもとに向かわれたのは、使いの人が来て二日たってからでした。すぐにベタニアに行かれなかったのは、自分を石で打ち殺そうとした権力者たちがいる地域を恐れておられたからでしょうか。実際、今日の聖書箇所の最後のところでは、主イエスがベタニアに行こうとされるのに対して、ディディモと呼ばれるトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています。ベタニアのあるユダヤ地方に行くということは、このときの弟子たちにとって、死を覚悟するということでした。その覚悟をするために、いってみれば腹をくくるために、主イエスには二日間が必要だったのでしょうか。
 主イエスは4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」とおっしゃっています。つまり、自分の身に危険がある、そういうことは主イエスにとって重要な問題ではなかったのです。ただ、主イエスのお心にあったことは「神の栄光」であり、「神の子が栄光を受ける」ことだったのです。主イエスがことに愛しておられたマリアとマルタ、そしてラザロを通じて神の栄光が現れる、それを主イエスは考えておられたのです。死を覚悟なさったのではなく、<死では終わらない>素晴らしいことを考えておいででした。<神の栄光のため>の業がなされることを考えておいででした。その素晴らしいことのために二日間が必要だったのです。
 今日の聖書箇所につづく17節以降を読みますと、イエス様がベタニアにお着きになったとき、すでにラザロは死んで墓に葬られて四日たっていたことが分かります。そういう意味では二日早く出発していたとしても、主イエスがお着きになったとき、すでにラザロが亡くなっているということにおいては変わりはなかったのです。しかし、神の栄光のためには、二日間、主イエスはヨルダン川の向こうで滞在しておくことが必要だったのです。

<栄光の現される時>
 この世では、「善は急げ」といいます。「今日やれることを明日やるな」とも言います。しかし、神の出来事には急いでも仕方のないこと、さらに言えば、急げないことがあるのです。むしろ事をなさず、その場に留まっておくべき時もあるのです。もちろんそれは、ものごとをなんでも先送りしたらよいということではありません。神の栄光があらわされるには神の時があるということです。それは人間の時間感覚から言ったらあるときは遅いと感じられ、またある時は逆に早すぎると感じられるのです。ラザロが死んで四日後にお越しになった主イエスに対して、マリアとマルタの姉妹は、間接的な表現ながら、「遅かったではないですか」と非難をします。たしかに、人間から見たら、神のなさることは早いことよりも遅いことがどちらかというと多いかもしれません。なぜ私がこのように困っているのに、神はすぐに助けに来てくださらないのか、そう感じることが多いでしょう。詩編にも多くの詩人が苦難の中で神に対して「いつまで待てばあなたは救ってくださるのですか?」と嘆きの言葉をうたっています。「いつまで、主よ、隠れておられるのですか(89:47)」「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか(13:3)」「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。(13:2)」
 しかし、遅いからといって、それは神が人間を忘れておられるというわけでも、懲らしめておられるわけでもありません。神はどのようなときでも愛してくださっています。今日の聖書箇所にも「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書いてあります。愛しておられるゆえに、神の栄光をお見せになるのです。もっとも良い時に、ふさわしい時に神はその栄光を私たちに見せてくださるのです。私たち一人一人の人生に神の最も良い時に栄光を現してくださいます。そしてこの大阪東教会にも現してくださいます。少し前の聖書箇所でお読みしました、生まれつき目の見えなかった人の目を主イエスが開けられた物語で、主イエスはその人が生まれつき目が見えなかったのは、その人が罪を犯したわけでもその両親が罪を犯したわけでもない、神の栄光がこの人の上に現れるためだとおっしゃいました。理不尽なこと、不幸なこと、さまざまなことがあったからといって、それは神が愛することをおやめになったというしるしではないのです。神の栄光が現されるためなのです。人間の側からしたら、神も仏もないのかというような苦しみの中にあったとしても、そこにも神の愛は注がれています。すでに神の栄光の御手は働いているのです。

<主イエスに残された時間>
 さて、二日間とどまられたのち、主イエスはユダヤに向かうことを弟子たちに告げられます。当然、弟子たちは危険だと止めようとします。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」それに対して、主イエスは「昼間は12時間あるではないか。」とやや意味の取りにくいことをおっしゃっています。これはイエス様に残された時間が少ないということです。その残された時間ののち、やがて闇がやってくる、主イエスがこの地上での宣教活動をおやめになるときが来る、それまでの時間、主イエスはこの地上でできる限りのことをするのだとおっしゃっています。ヨハネによる福音書では、カナの婚礼の奇跡の出来事が最初のしるしとされています。婚礼の席で水をぶどう酒に変えられた、それが最初のしるしでした。いまや主イエスは七つ目のしるし、そして十字架のまえの最後のしるしへと向かおうとされています。7つのしるしの中で最大のしるしともいうべきラザロをよみがえらせるというしるしに向かっていかれます。そしてまたそれは最大限に主イエスご自身に危険が降りかかる出来事でもありました。弟子たちはまだこの場面で、主イエスが実際何をなさるのか分かっていませんでした。主イエスはラザロを起こしに行く、とおっしゃいました。しかし、ラザロはもう死んでいるともおっしゃっています。弟子たちには何が何だか分からなかったかもしれません。しかしなにかただならぬことのために、主イエスが危険なユダヤ地方に向かわれる、そう感じたことでしょう。最初にも引用しましたように、トマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と最後の場面で言っています。イエス様が愛されていたラザロが死んだ、いまさらそこへ向かったとてどうなるわけでもない、しかしなお、危険を冒してまで主イエスはそこへ向かおうとされている、そのただならぬ主イエスの行動に戸惑いながらも、トマスは、「一緒に死のうではないか」と言い、誠実に最後まで主イエスの弟子としてついていこうと決意をしています。このトマスはイエス様の十字架刑と復活ののち、復活を信じなかったことから一般に「疑い深いトマス」と言われている弟子です。しかし、この場面での発言を見るとき、このトマスの精いっぱいの誠実さが感じられます。
 生きるか死ぬか、その場面で、「私は主イエスについていきます」とトマスは言っているのです。これは人間としては立派なことだと思います。もちろん実際にはトマスは主イエスが捕まったとき逃げてしまいます。なんだ結局トマスも口だけではないか、そういって、私たちはトマスを責めることはできません。そもそも普通の人間は、なんだかんだと理由をつけて、ユダヤには行かないと思います。いやそれ以前に、もうこの時点で、多くの人々がイエスのもとから離れ去っていたのです。人間は、自分も命を落とすかもしれない、そんなリスクを負うことは通常はできません。もともと多くの人間は負け戦には加担しません。泥舟からは誰よりも早く脱出したいのです。ですからトマスをはじめ、このとき、主イエスに従っていた弟子たちは、人間としては最大限に誠実な人たちだったと考えられます。それぞれに宗教家として立派な態度を取ったと言えるのです。もちろん限界はあります。最終的に皆、逃げ去ったのです。
 一方、人間の歴史から言えば、この弟子たちよりももっと勇敢な人々は多くいたと思います。死を恐れず、最後まで勇敢に戦った人々は多くいたでしょう。死を恐れず、危険な仕事を使命感を持ってなされている方々もおられます。戦場や特殊な任務においてだけでなく、病で亡くなる時でも、最後まで立派な態度で死を迎えられる方は多くおられます。だれにでも訪れる死を勇気をもって迎える人々はたくさんおられます。

<命に向かっている>
 ところで、ここで弟子たちが知らなかったことがあります。それは主イエスが人間に命を与えに来られていたことです。主イエスはいくたびも<永遠の命>ということをおっしゃっていました。自分が<命のパン>であるともおっしゃっていました。イエス・キリストは人間に死ではなく命を与えに来られたのです。十字架と復活を除けば、最大のしるしであるラザロのよみがえりにおいて、主イエスは、死に打ち勝つ命ということを人々にお見せになることになります。トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。しかし、主イエスについていくとき、その先にあるのは「死」ではない、そのことを主イエスは知らせようとされたのです。トマスが未来に見ていたのは、悲劇的な、あるいは英雄的な死でした。しかし、主イエスは弟子たちに一緒に死んでほしいなどとはつゆほども思っておられませんでした。そうではない、あなたたちはわたしに従って生きていくとき、命に向かうのだとおっしゃっているのです。もちろん肉体の死はあります。しかし、私たちは死で終わりになるむなしい日々を送るのではないのです。いつの日か肉体は滅びます、しかし、それで終わりではない、わたしに従う者には永遠の命が続くのだと主イエスは7つ目のしるしで示そうとされています。
 自分自身を思うとき、おそらく自分が死を迎えるとき、私はそれほど立派な態度はとれないと感じています。牧師のくせにといわれるような死に方をするかもしれません。一方で、さきほども申し上げましたように、クリスチャンでなくても立派に死を恐れず最後まで生きて行かれる方、死を迎える方もおられます。でも自分にはそれは無理だろうと感じます。しかし、主イエスはそれでいいのだとおっしゃっています。「一緒に死のうではないか」そんな勇ましさは持たなくても良いのだとおっしゃっているのです。結局、イエス様を放り出して逃げ去った弟子たちに「それでいい」とおっしゃっているのです。ひとたびは剣を振り上げ抵抗を試みたペトロに対して「剣をおさめなさい」とおっしゃいます。危険に飛び込んでいく勇敢さや立派に戦う力は不要なのです。
 死を恐れず立派に戦うことができなくてもいい、<肉体が滅びることは怖い、肉体の死は恐ろしい>正直に素直に感じていいんだと、主イエスはおっしゃってくださるのです。いやむしろ、弱いままで自分についてきなさい、そう主イエスはおっしゃいます。あなたたちは弱い羊で良いのだとおっしゃっています。羊飼いである私があなたたちを守るとおっしゃっています。そもそも人間がとことん強くならねば生きていけない社会というのはゆがんだ社会です。何でもかんでも自己責任を問われ、失敗や間違いを許されない社会は病んだ社会です。勇気を奮い起さないと生きていけない日々は緊張の日々です。
しかしそのような社会、そのような日々に生きる人間のもとに主イエスは来てくださいました。人間がありのままの弱さのなかに、主イエスと共に生きる、そこにこそ本当の平安があるのです。ベタニアは危険な土地でした。私たちもまた、人生においてベタニアに行かねばならないときがあります。怖い、しんどい、いやだ、そんな思いでベタニアに向かわねばならないときもあります。しかし、その道には主イエスが共におられます。ですから私たちが勇気を奮い起して歩むのではありません。その道は主イエスと共に死へ向かう道ではありません。永遠の命に続いていく道です。ですから安心して歩んでいくのです。ありのままの弱さのままで主イエスと共に歩みます。イエスと共にあるとき、その道は必ず命に繋がっているからです。



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