大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録13章1~12節

2020-10-05 18:36:28 | 使徒言行録

2020年10月4日大阪東教会主日礼拝説教「なぜ祈るのか」吉浦玲子

【聖書】

アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

【説教】

<多様な人々が心を合わせて>

 バルナバとサウロはエルサレムからアンティオキアの教会へ戻ってきました。アンティオキアの教会は、ヘブライ語を話すユダヤ人を中心としたエルサレムの教会に比べると、多様な人々が集まっていました。本日の聖書箇所の最初のところに、当時の教会のリーダーたちの名前があげられています。バルナバに続き、「ニゲルと呼ばれるシメオン」と記されていますが、ニゲルというのは黒いという意味です。このシメオンはアフリカ系の人であったと思われます。キレネ人のルキオもまた肌の黒いキレネの人ですが、シメオンがヘブライ系の名前であるのに対してルキオはラテン語系の名前で、この二人の文化的背景が異なっていることがわかります。一方マナエンは領主ヘロデと一緒に育ったとあります。領主ヘロデは12章で急死したヘロデ王のおじにあたるヘロデ・アンティバスです。このヘロデ・アンティパスの幼友達だったということですから、高貴な身分であったと思われます。最後にサウロの名前がありますが、最後に書かれているのは、リーダーたちの中では、サウロは一番年若かったからかもしれません。人種や育った環境の異なる人々がリーダーであり、おそらく、教会に集う人々も多様な人々であったと考えられます。

 主イエスはさまざまな人々へ宣教をされました。主イエスが選ばれた12弟子は人種的にはユダヤ人でしたが、その出自はさまざまでした。ローマの傀儡であった徴税人もいれば、ユダヤ国粋主義者の熱心党のメンバーもいました。実に多様な人々が主イエスの弟子だったのです。同様に、健全な教会形成のためには、本来、多様な人々が集まったほうが良いのです。しかし、今日でも現実的には、それぞれの教会には教会ごとに、一定の階層や雰囲気の人々が集まりがちです。しかし、同質化傾向が強まり過ぎると、教会に限らず、組織は内向きになり、発展性が乏しくなります。何より同質化していくというのは、人間的な安心感や運営のしやすさによって教会が結ばれているということになります。教会は本来は神によって召された多様な人々が神を見上げることによって結ばれるものです。そこに本来の生きた信仰が満ち、力を持つのです。

その点、このアンティオキアの教会は多様な人々が集められ、エネルギーに満ちていました。もともとはバルナバが指導者としてエルサレムから派遣されていたのですが、いまや複数のリーダーが立てられる程、教会は発展していました。そのアンティオキアの教会に新たな宣教ヴィジョンが神によって与えられました。「主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」とあります。共に礼拝し、断食してというのは心を一つにして祈りに集中していたということです。そこに聖霊によってあらたなヴィジョンが示されたのです。明確な示しが人々に与えられ、教会が一致したのです。ある説教者はここを、実際は皆で協議をして決めたことを敢えて聖霊が告げたと書いてあるのだと解釈していました。しかし、それはまったく違います。人間の思いを越えた力がたしかに働いたのです。それを「聖霊が告げた」と表現したのです。それは2000年前のアンティオキアの教会においてだけでなく、今日においてもそうです。神は必ず示してくださいます。その示されるあり方は、使徒言行録でも様々に描かれています。幻が見えたり、主の天使が現れたりします。そういったことはばかげた昔の人の非現実的な表現というわけではありません。神の現実は人間の現実を越えているのです。たしかに「聖霊が告げ」てくださるのです。聖霊が告げておられることを聞きとるためには祈りが必要です。祈り自体が聖霊によって与えられるものですが、祈りによってさらに聖霊の示すことがわかるのです。聖霊と祈りは相互に切り離せないものです。信仰者は、単に目的や利害がいっしょであるとか、人間的に心地が良いというところで一致するのではなく、共に神を見上げ、聖霊によって示されたところで一致するのです。

<送り出される>

 さて、アンティオキアの教会の人々は心を一つにして祈り、バルナバとサウロを「送り出す」ことによって新しい一歩を踏み出したのです。「送り出す」というのは派遣するという意味の言葉です。そしてこの言葉には「解き放つ」というニュアンスがあります。アンティオキアの教会の中心的指導者であるバルナバと若いけれど有能なサウロという強力なリーダーたちを敢えて教会から解き放ったのです。これはアンティオキアの教会内部を見れば大きな損失です。しかし、バルナバとサウロは、アンティオキアを遠く離れて宣教旅行に向かいしました。ちなみにこの宣教旅行は、サウロ、つまりパウロの生涯における三回の宣教旅行の第一回目にあたります。やがてヨーロッパへまでも及ぶ壮大な宣教の旅がアンティオキアの教会の祈りによって、今、始まりました。

 教会が自分たちだけの狭い発展を考えるのではなく、愛の業としての宣教を目指す時、アンティオキアの教会がバルナバとサウロを旅へ送り出したように、何かを解き放ちます。大阪東教会を創立したヘール宣教師もアメリカのカンバーランド長老教会から解き放たれ日本へと送り出されました。米国のカンバーランド長老教会は大阪東教会の独立を支援をし、自分たちに従属させることはしませんでした。ようやくキリシタンの禁令が解かれた日本の地にイエス・キリストを伝えるという宣教の業を、神から与えられた、まさに聖霊によって語られた使命としてまっとうしたのです。

 たとえば、教会から牧師を目指す献身者を立てる時もそうです。神学校にいく、あるいは任地へ赴任する、それはあくまでも神の召しによることですから、献身者が自分が育った教会で牧師になるとは限りません。いえ普通はまずそうはなりません。献身者を送り出すということは、教会としては一人の信徒を失うことになります。そうであっても、神の業が進むことを喜んで教会は献身者を物心両面で支え解き放つのです。その時教会には大きな祝福があります。それは個人の日々においてもそうです。自分の狭い枠を守って生きていくとき、損をすることは少ないかもしれません。しかし、神の示しに従って、何かを解き放つ時、神は豊かな祝福を与えてくださいます。

 逆に言いますと、私たちは聖霊によって、私たちは失うことを恐れなくなるのです。聖霊によって、私たちは深いところで解放されるのです。日々の生活、お金の苦労、そして自分自身のなかのこだわり、そういったものから自由にされます。解き放たれるのです。そしてそこにまことの愛が注がれです。聖霊によって、私たちは深いところで解放されるのです。日々の生活、お金の苦労、そして自分自身のなかのこだわり、そういったものから自由にされます。解き放たれるのです。そしてそこにまことの愛が注がれ祝福が満ちるのです。

<祈りに守られて>

 さて祈りによって送り出されたバルナバとサウロはアンティオキアから200キロ以上隔たったキプロス島へと向かいました。キプロスはバルナバの故郷でもありました。土地勘のあるところで伝道を開始しようとしたのかもしれません。彼らは東岸のサラミスから西岸のパフォスまで廻りました。パフォスはローマの行政所在地でした。つまり、彼らはキプロスの文化行政の中心地で宣教を行なったのです。しかし、うまくことが運んでいるようでしたが、妨害が入りました。アンティオキアの教会で祈られ、聖霊によって導かれて来たはずの土地で、偽預言者、そして魔術師でもある、バルイエス、またの名をエリマという男がバルナバとサウロに対抗してきたのです。

 こういうことは私たちの日々にもよくあります。祈りつつ、神の御心と思って進めて来たことがうまくいかない、問題が起こる、そういうことがあります。そのとき、さまざまな思いが起こってきます。祈って、御心だと思ってやってきたけど、これはそもそも御心ではなかったのだろうか?と不安になることもあります。いや御心なのだけど、サタンのようなものが妨害しているのだと考えたりもします。ある方が、信仰書を出版しようとしていたとき、やはり当初いろいろなトラブルが起こり頓挫しそうになったそうです。最初これはサタンの攻撃かと思ったそうですが、祈りつつ、当初の予定よりもかなり回り道をして出版することができたそうです。あとから、これはより良いものにするために神が導いてくださった結果だとその方は分かったそうです。もちろん妨害や問題のさ中には、一体これはどういうことかすぐには分からないこともあります。しかし、祈りから始まったこと、聖霊によって示されたことは、決して頓挫しません。人間の当初の思いとはずいぶん違った着地をすることもあるかもしれませんし、時間のかかることもあるかもしれません。目指すところは同じでも方法論的にはかなり当初とは異なったことを為すことになることもあるでしょう。しかし、忍耐強く祈りつつ歩む時、必ず神が導いてくださいます。そもそもむしろ忍耐なさっておられるのは神なのです。人間の罪や、さまざまな身勝手な思いの中で、神ご自身が辛抱強く導いてくださっているのです。祈りによって私たちは神が辛抱強く導いてくださっていることを示されます。祈りこそ、苦難の時の守りであり、道しるべです。

<すべてを用いられる神>

 さて、魔術師でもあり偽預言者でもある男が出てきますが、当時、キプロス島は、さまざまな地域の宗教がまじりあって、宗教混交が起こっており、このような怪しげな人間が結構いたようなのです。まことの神を知らない時、人間はさまざまな恐れや不安のゆえに怪しげなものに頼ります。科学技術が進んだ現代でもそうです。占いやある種のスピルチャルなものへの頼るというのは魔術師が跋扈していた2000年前のキプロス島と人間の心は変わっていないということです。

さてこの魔術師は、権力者に取り入って宮廷神学者とか家付き魔術師のような地位を得ていたと考えられます。現代でも大企業の社長が占い師に伺いを立てることもあるように魔術師はたくみに権力者にすり寄っていくのです。このエリマも総督の家で何らかの地位を得ており、その既得権を守るため、バルナバやサウロを総督から引き離したかったのかもしれません。

 しかしこのような福音ならざる者は、正統的な福音の前で無力なのです。この男も聖霊に満たされたパウロによって、その無力さを暴かれました。目が見えなくなるというのは無力さの象徴です。前の章でヘロデ王が急死したところでも申しましたが、聖書は悪い奴が成敗されたということだけを私たちに伝えているのではありません。

 そのエルマの存在によって、総督はバルナバとサウロを信じるようになったのです。それは単に奇跡的なことを見たからではなく、そこに主の働きを総督は見たからです。不思議な力で魔術師をやっつけたということで総督が信じたのではあればそれはあらたな魔術となんら変わりません。そうではなく総督は「主の教え」に驚いたのです。宗教混交のはなはだしいキプロスで、まことに信じるに足る、まことの神の業を総督は見たのです。そしてそれこそが神がなさったことでした。バルナバやサウロにとっては障害であり、神に背く悪徳の男をも神は用いられました。総督、ひいてはキプロスの多くの人々が神を信じ、救われるために用いられたのです。神はすべてのことを、救いへと、愛とへと用いられます。私たちをも用いてくださいます。そしてまたこの私たちのためにも神はすべてのことを用いてくださいます。



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