大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録4章23~37節

2020-07-05 13:01:20 | 使徒言行録

2020年6月28日大阪東教会聖霊降臨節第六主日礼拝説教「祈りの生活」吉浦玲子
【聖書】
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。 
地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』 
事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 
そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。 
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

【説教】
<神のなさることを見つめる>
 4章ペンテコステの日に立ちあがった教会に最初の試練が訪れました。教会の中心的人物であったペトロとヨハネが逮捕されてしまいました。幸い、民衆の反応を恐れた権力者たちは、ペトロとヨハネを厳しく罰することはできず、脅しただけで釈放をしました。しかし、当然ながら、弟子たちは釈放されたからといって、胸をなでおろすわけにはいきません。かつて主イエスを十字架につけて殺してしまった権力者たちのことです。今後も、何かにつけてイエス・キリストを信じる者を迫害してくる可能性は高いと考えられます。
 その状況の中で、釈放されて帰ってきたペトロとヨハネを迎えた教会の様子は少し異様かもしれません。自分たちの身に危険が及ぶかもしれない状況で、彼らは自分たちが置かれた事態を悲観したり、身を守るための方策を一生懸命に練ったということは記されていません。
 「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」とあります。つまり、まず人々は祈ったのです。まあ教会だから祈るのは当たり前だろうと思われますでしょうか。たしかにそうです。私たちもまず祈ります。今日の聖書箇所における弟子たちもまず祈ったのです。
 しかし、彼らの祈りは、「自分たちを守ってください」とか「教会を支えてください」という祈りではありませんでした。彼らは詩編二編の言葉をもって神の御前に立ちました。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか/地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して,/主とそのメシアに逆らう。」これは新共同訳では「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか」と訳されている詩編です。そもそもこの詩編2編はメシア預言の詩編と言われます。引用されている箇所は、メシア、つまり救い主として神から油注がれたお方に、人々が逆らうということが記されています。それはまさにヘロデやポンテオピラトによって救い主であるキリストが十字架にかけられたことを預言しています。
 さらに詩編二編を読みますと、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲(あざけ)り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。/「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」」とあります。王とはキリストであり、神が王としてキリストを即位おさせになられました。「わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。」と続きます。救い主である主イエスは絶対的な王ですから、ひととき、人間はその王に逆らいえたとしても、それはむなしいことなのです。「お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」騒ぎ立ちむなしいことをしても、結局、まことの王によってくだかれるのです。
しかし、砕かれることが怖いから人間はこの救い主である王を畏れ敬うのではありません。「畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び踊れ。」この王はまことの正義を作りだしてくださる喜びの源であるお方です。喜びの源である方なので人間はこのお方を慕うのです。ひととき反逆する者は騒ぎ立ちむなしいことは起こっても、まことの王によって、まことの喜びが与えられます。「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」このまことの王を王としてあがめる人にはまことの幸いが与えられます。
初めての試練に遭った教会はこの詩編に力づけられました。今、自分たちが直面している試練が神のご計画の内にあり、自分たちが主を避けどころとしている限り幸いであることを確認したからです。神のなさることに信頼し、力を与えられたのです。教会の祈りは神を避けどころとするところに立つのです。そしてまた教会に連なるすべての者のそれぞれの祈りもまた、喜びの源であるお方に信頼する所に立つのです。
<礼拝共同体とは>
 さて、今、全世界の教会が危機に陥っています。春からコロナの禍のために全世界の礼拝や集会が開けなくなりました。しかも、キリスト教最大の祝祭である復活祭の時期に礼拝ができなくなりました。日本においては、多くの地域で、ここ数週間の間に少しずつ礼拝が公開され始めました。しかしその活動はまったく春以前の元通りに戻ったのではありません。地域差や教会ごとの差はありますが、まだ完全にはすべての集会が再開していない教会がほとんどです。2月以降の爪痕はどこの教会にも大きく残っています。その傷跡はたとえば財政面での落ち込みや、実施できなかったさまざまなことによる実務的な抜けだけではありません。教会における礼拝というものそのものが傷ついたということが大きなことでした。共に礼拝をする恵みを奪われたとき、信仰者はどうするのか?それぞれの場所でそれぞれに礼拝を捧げながらなお信仰共同体として教会は生き残っていくことができるのか?それは教会という共同体にとって本質にかかわるたいへん大きな試練でした。
 一方、この時期、多くの教会でネットを使って礼拝や説教を配信しました。それまでネット配信をしていなかった教会でも配信を開始しました。それはリアルタイムの配信であったり録画・録音であったりしました。さらにネット環境のないところへは郵送やファックス等で説教を送るということもなされました。しかし、技術や労力でどれだけ補完できたとしても、共に集って礼拝をする本質的なところを補うことはできません。それは単に、会堂で生で説教を聞いたり、オルガンの音を聞いて賛美をする、そういう臨場感や、顔と顔を合わせる一体感だけからくることではありません。そもそも神を中心にした礼拝共同体につながっているということの意味をどれほど大事に考えていたかということが問われたのです。ある意味、各教会の礼拝の底力が問われたのです。それぞれの教会の礼拝の底力がなければ、礼拝共同体としての意識がなければ、礼拝はそもそもネットだけで十分だということになります。リアルの礼拝はその意義を失っていくことになります。
 ある大教会では今回あえてネット配信はしませんでした。もともとインターネット対応は他教会に先駆け早い時期からしていた教会です。リアルタイムで礼拝を配信するスキルも体制も十分にありながら、あえて止めたのです。説教者として大変有名な牧師のおられる教会でしたから、ネット配信をしたら、教会員外からの相当数の再生も見込めました。しかしあえてそれをせず、ただ毎週の家庭礼拝の手引きを頼りに教会員が各自で家で礼拝を守ったのです。各自でそれぞれに自宅で礼拝を守りながら、なお、その礼拝が礼拝共同体につながる礼拝であることを皆が体験をしたのです。
<心を一つに>
 今日の聖書箇所24節で「これを聞いた人たちは心をひとつにし」とあります。心を一つにする、とは、共に神を向くということです。彼らは権力者たちへの反感で心を一つにしたのではありません。あるいは教会のリーダーたちへの信頼感によって一致したのでもありません。人間的な共感で心を一つにしてもそれは長続きしません。教会は神に向かって心を一つにするのです。そこにまことの祈りの共同体ができます。そこにまことの礼拝が立ち上がります。礼拝はただ聖書のお勉強をする場ではありません。心を一つにして神を向き、神からの愛と力と知恵の言葉をいただくところです。しかし、それは急にできることではありません。
 毎週毎週、礼拝共同体として心を一つにして神に向かう礼拝を捧げていくことを積み重ねていったとき、たとえば今回のような礼拝が公開できないないような事態が起こっても、ばらばらにされてもなお信仰共同体、礼拝共同体としての命を教会は持ち続けることができます。礼拝ができないというようなことだけでなく、さまざまな困難が教会にはあります。しかし、心を一つにして神に向かう礼拝を捧げる共同体は強いのです。皆が神の方を向いているのです。神を向いているのであって、皆が互いの思惑を気にしているのではないのです。あの人の声、この人の考えを聞いているのではありません。ただ神に向かっているとき、おのずと心は一つになるのです。そこにまことに強い共同体が生まれます。どのような試練のなかでも揺るぎない喜びの共同体が生まれます。喜びの共同体につながっていくとき、私たち一人一人の信仰生活もまた喜びが増し加えられます。まことに主にある親しい交わりと、まことの祈りの生活が与えられます。礼拝共同体が強くなる時、一人一人の信仰生活もまた豊かにされるのです。
<宣教へ向かう>
 さて、神に向かって心を一つとした共同体は、おのずと宣教へと向かいます。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」弟子たちは、<彼らの脅しに目を留め、その脅しをやめさせてください>とは祈りませんでした。<脅す者を懲らしめてください>とも<脅しからまもってください>とも言いませんでした。「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ったのです。これは一般的に言う、組織防衛とは真逆のあり方です。当局から目をつけられないように、しばらくは息をひそめるというのではありません。
これで思い出すのはこの大阪東教会の太平洋戦争時代の牧師である霜越牧師のことです。霜越牧師は、当時、無実の罪で当局に拘束されました。キリスト教が迫害されていた時期でした。当時の最大拘留期間である三ヶ月拘留され取り調べを受けました。しかし、罰すべき罪は出て来ず、釈放されました。霜越牧師は釈放される時、官憲から「貴様もこれからは心を入れ替えて、キリスト教の布教などはいっさいやめろ」と言われ、それに対して「これからますます伝道に励む所存です」と答えられたそうです。それに対して官憲が「馬鹿者!」と怒鳴ったという逸話があります。いかにも霜越牧師らしい逸話です。しかし、それは単に霜越牧師の信仰が強く、立派だったということではありません。霜越牧師もまた、使徒言行録の中の使徒たちと同様に「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」と祈られたのだと思います。
単なる空元気ややせ我慢ではなく、まことに私たちに力を示してくださる神への信頼があったのです。「どうか御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」そう彼らは祈りました。神は御手を伸ばしてくださるお方であることを知っていたのです。神は私たち一人一人に御手を伸ばし、まことに力を振るってくださるお方です。神を求めることはむなしいことではありません。神を求める時、現実的な力が与えられます。
「祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とあります。ここでは、ペンテコステの日のように、ふたたび聖霊に人々が満たされ、言葉が与えられたことが語られています。「マザー・テレサ」という映画の中で、マザー・テレサと共に働いていた女性が病気になってしまい、その治療のためにインドでの働きをやめて自分の国に帰らざるを得なくなりました。しばらくたって、マザーの行っていた事業にたいへんな逆風が起こりました。マザーはすでにインドでの働きを止めて病気療養していた女性に電話をします。「あなたの祈りで天国を揺らしてちょうだい」と。電話を受けた女性は、すでに直接には働きをやめていましたが、遠い国から祈りました。そして実際に天は動いたのです。マザーの事業は成功したのです。
私たちの祈りも天を揺らすことができます。一人一人の祈りは小さなものです。しかしなおそこに聖霊が働くとき、偉大な力が起こります。私たちの場所が揺れ動き、天も揺れます。天も地もお造りになったお方が揺らしてくださいます。現実を乗り越える力が私たち一人一人に、そしてまた信仰共同体に与えられます。



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