大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第1章29~39節

2022-01-16 15:54:39 | マルコによる福音書

2022年1月16日大阪東教会主日礼拝説教「悪霊を追い出す」吉浦玲子 

<主イエスが家に来られた!> 

 言葉なる神、キリストの言葉、神の言葉は安息日の会堂において、礼拝において語られました。それは今日の礼拝でも同様です。神の言葉は日曜日の礼拝において語られます。そしてその言葉は単なる知識、お勉強のための言葉ではなく、現実に働く神の力そのものです。力の言葉です。伝道とは、神の言葉のもとへ人々を招くことです。神の言葉は礼拝の中で語られます。ですから伝道とは礼拝へと人々を招くことだといえます。 

 今日の聖書箇所では、会堂でお教えになった主イエスがシモンとアンデレの家に家に行ったと書かれています。もともとカファルナウムはシモン、つまりペトロたちの家があるところでした。マルコによる福音書の著者は、おそらくシモン・ペトロから聞いたことを中心に主イエスの出来事を記していると考えられます。ですから今日の聖書箇所は、ペトロ自身が自分の家に主イエスが来てくださった、その忘れられない出来事を繰り返し語った、そのことを元にしているのです。主イエスの弟子になった漁師であったペトロが、まず安息日の会堂に主イエスと共に行った、そこで汚れた霊を追い出す主イエスを見たのです。権威あるものとして語られる姿を見て、おそらくペトロたちはたいへん興奮したことでしょう。俺たちの先生はすごいぞと。そのすごい先生がなんと自分の家に来てくださった。そしてまた、先生は自分のしゅうとめの癒してくださったのだ、そうペトロは繰り返し語ったのでしょう。 

 会堂でみ言葉を語られた主イエスは、ある意味、今日の場面で牧会をなさっているとも考えられます。会堂でみ言葉を聞いた人々、また何らかの事情があって聞けなかった人々、それぞれの霊的な状態に配慮をしていく、それが牧会です。ことに何らかの事情で会堂に集えなかった人々への配慮として、会堂の外へと向かう牧会が今日の場面であるともいえます。現在はコロナのため、なかなかできないのですが、訪問やお見舞いということを教会はなしますが、それは単なるその人が大丈夫かと心配して行うということではなく、特に御言葉を求めながらも聞けなかった人に御言葉を伝え、聖餐に与れなかった人に聖餐に与っていただき、なにより共に祈ることを通して、その人の心に神の慰めを伝え、共同体の一員であることの喜びを分かち合うものです。そのような、会堂の外での牧会の原型がここにあります。 

 主イエスは、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていることを聞いて、手を取って起こされました。この癒しの業は、けっして派手なものではありません。この前の箇所であった汚れた霊を追い出すとか、これから先、主イエスがなさる多くの奇跡の癒しに比べたら、「熱が下がった」というだけですから、地味な話です。しゅうとめはすぐに癒され、そしてそのしゅうとめは、すぐに一同をもてなしたとあります。病み上がりでいきなり客のもてなしをさせるなんて、昔は女性の立場が弱かったのだ、ということではなく、完全にしゅうとめは癒され、体が癒されただけではなく、心もすっかりと元気になり、もてなす力が湧いて来たということでしょう。ところで、よく話をしていることなのでお聞きになった方がおられるかもしれません。私自身の体験で、イギリスに出張に行ったときのことです。当時、出荷直前の製品や工場の状況を確認する仕事をしていました。イギリスに出張してその仕事をしました。たいへんスケジュールがタイトで、飛行場と工場とホテルの間だけを往復して帰ってくるだけで、海外に行ったという感覚があまりない出張でした。またその当時、仕事が立て込んでいて、国内の出張が重なっていたあとでのイギリス出張で疲れが出たようで、イギリスについたその晩に39度の熱を出してしまいました。私は当時、喉を腫らして熱をよく出していたのですが、だいたい38度以上の熱を出すと数日寝込んで、熱が下がった後も数日は体調が本調子ではありませんでした。なので、その夜、ホテルの部屋で、これはもう明日からの仕事はできないなと暗澹とした気分で悶々としました。体はしんどいのに不安で眠れませんでした。高い旅費を使ってきながら仕事もできずに帰国したら社内でかなり批判を浴びるなあと思いました。なにより準備して待っておられた現地の工場の人々にも申し訳ないと思いました。悶々としてひとり病室で祈りました。そして「そうだこれは、牧師先生に祈ってもらおう」と日本の所属教会に電話をしました。日本はちょうど朝だったのですが、「分かりました祈ります」と先生が言ってくださり、それだけで「あ、祈ってもらえる」と安心して、それまではとても不安だったのですが、安心してスーッと眠れました。ところが、眠ったところで携帯電話が鳴って、慌てて出ると、牧師先生からで「今から祈祷会なので、皆で祈りますから聞いてください」と言われました。水曜日の午前の定例祈祷会だったのです。電話の向こうで皆の声が聞こえ牧師先生が祈ってくださりみんながアーメンと言ってくださいました。それがイギリス時間の深夜二時くらいだったのですが、そのあと眠って朝の六時に目が覚めた時、平熱に戻っていました。しかも、すこぶる体調が良くて、その日以降、帰国の日まで元気に仕事ができました。神の力が及ぶとき、そのようなことが起こります。このシモンとアンデレのしゅうとめが癒されたとたん、元気でもてなしたとしても何ら不思議ではないのです。病み上がりの体を鞭打って、ということではないのです。そして神の癒しの力は単に病を癒すというのではなく、その人が神に従って働くことができる力を与えられるのです。 

<主イエスの御跡を> 

 そもそもこの「もてなす」という言葉は「仕える」という意味で、特に女性が主イエスの御跡をついて行く、という場合に使われる言葉です。つまり、しゅうとめは主イエスの後に従う者とされたのです。元気いっぱいになってバリバリ働きましたという以上に、主イエスに従う者となったということです。主イエスの力が及ぶとき、その力を素直に受け入れる者は主イエスの御跡を歩む者に変えられるのです。これと対照的な姿が悪霊たちです。先週も汚れた霊が出てきましたが、彼らは人間を越えた霊的存在ですから、主イエスの正体を知っていたのです。主イエスは彼らを追い出されました。そして彼らにものをいうことをおゆるしになりませんでした。彼らをしゃべらせない理由はいくつかあります。まず神の業は隠されているということがあります。特に十字架の時まで、神の業は隠されている必要があったからです。人々は主イエスの奇跡を業を見てこの方は素晴らしい方だとは思いましが、実際のところ主イエスがどなたなのか、何のために来られたのかわかりませんでした。ペトロを始めとする弟子たちもそうでした。それは敢えて隠されていたという側面があります。また悪霊たちは、相手の正体を知っているということにおいて相手への支配権を主張するということがありました。「お前のことは俺は知っているぞ」と相手を脅し、今でいうマウントを取るようなところがあり、それを主イエスはおゆるしにならなったのです。 

 ですから、ここで分かりますことは、主イエスの正体を知る、ということと、主イエスに従うということは違うということです。私たちはもちろん聖書を学び、教理を学び、主イエスについて、神について正しく知ろうとします。もちろんそれは大事なことです。しかし、繰り返し話をすることですが、知的な理解と主イエスに従うことは違うのです。主イエスを知るということは、主イエスと交わるということです。そもそも旧約聖書においても「知る」ということは深い人格的交わりをすることでした。主イエスを本当に知るとは主イエスと深く交わるということです。知識として知ることではありません。そして主イエスと交わったものは、ペトロのしゅうとめのように主イエスに従う者、主イエスの御跡をついていくものとされるのです。しかし、主イエスの正体を知識として知っているだけの悪しき霊たちは、当然ながら、主イエスに従うことはありません。 

 その後、夕方、つまり安息日が終わったのを見計らって、この家には多くの人が押し寄せてきました。病気の人や悪霊に取りつかれている人々がやってきたのです。この人々はとにかく今ある苦しみを取り除いて欲しいと願っている人々です。しかし、この癒された人々、悪霊を追い出していただいた人々すべてが、主イエスに従う者になったかどうかはわかりません。福音書を読むと、ほとんどの人々は主イエスに従わなかったのです。ペトロの家に人々が押し寄せてきたように、教会にもいろいろな人々がやって来られます。その多くの方々は、安息日の会堂、今でいうところの日曜日の礼拝に御言葉を求めて来られるのではありません。別の思いをもって来られます。もちろん切実な悩みを抱えてこられる人も多くあります。悩みや求めが切実であったとしても、御言葉を求めて来られない方への対応というのは教会としてはなかなかたいへんなことです。しかし、主イエスが癒し、悪霊を追い出されたように、教会もまたさまざまな方々への対応をします。それはある意味、しんどいことでもあります。教会はあくまでも御言葉を伝えるところ、主イエスに従う者が起こされる場所です。そのことを根本に置きながら、なお、教会はさまざまにやって来る人々に対して門を開きます。ペトロは懐かしく喜ばしく、主イエスが自分の家に来られ、それから多くの人々が押し寄せてたいへんだったことを語っています。しかしそれはけっして楽なことではなかったのです。主イエスに従うというのはそういうことです。主イエスに従うと、この世的に見て素晴らしいことだけがあるわけではありません。むしろ、関わりたくないことに関わらないといけなくなったり、面倒なことにも巻き込まれるのです。ペトロたちが漁師としての舟を捨て、生活の基盤を手放したように、さらには憩いの場であった家に人々が夜になって押し寄せてくるようになったりしたように。 

<復活の命の中、さあ行こう> 

 さて、その翌朝、主イエスは人里離れた所に出て行き祈っておられました。これは祈ることの大切さを示す箇所としてよく引用されます。人々が押し寄せ、多忙を極めながらも、主イエスは父なる神との祈りの時間を大切になさいました。主イエスであろうとも、父なる神への祈りの時があったからこそ、宣教の業が進められたといえます。そして祈りはただ神の守りや必要を求めるためでなく、あらたな宣教の道をも示されるものでもあります。主イエスはおっしゃいます。「近くやほかの町や村へ行こう」。 

 弟子たちは「みんなが捜しています」と言いました。カファルナウムの人々が主イエスを捜したのは、この素晴らしい奇跡を行う人を自分の町に留めたかったのです。自分たちのためにずっと働いて欲しかったのです。しかし主イエスはもっといろんな場所で宣教をなさろうとされました。祈りのうちに父なる神の示しが与えられたのです。カファルナウムにとどまり、先生として敬われた方がある意味楽であったでしょう。しかし、主イエスは旅をして宣教される道を進まれました。そしてその道はお一人で行かれるのではありませんでした。「近くやほかの町や村へ行こう」と弟子たちへ語られ、弟子たちと共に行かれたのです。弟子たちもまだ主イエスのことはほんとうのところは分かっていなかったのです。でもそんな弟子たちに「一緒に行こう」そうおっしゃってくださったのです。 

 ところで、ペトロのしゅうとめを癒される時、主イエスはしゅうとめの手を取って起こされたとありました。この「起こされる」という言葉は、 ἐγείρω エゲイローというギリシャ語で、マルコによる福音書16章6節でも使われています。それは十字架ののち墓に葬られた主イエスの亡骸のところに婦人たちが向かいますが、墓には亡骸がなかったという場面です。亡骸がなくなって呆然としている婦人たちに対して天使が言うのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。ここで「復活なさって」に使われているのがエゲイローという言葉です。復活する、よみがえる、再び生きるという意味です。ペトロのしゅうとめは単に熱を下げていただいただけではないのです。主イエスの復活の命の先触れに触れさせていただいたのです。私たちもそうです。信仰を与えられ、主イエスと共に歩む時、すでに復活の命の栄光の中に入れられているのです。主イエスの御跡を追うことは、それまでとは違う困難や試練をも受け入れていくことになる申しました。しかしまたそれは同時に主イエスの栄光の内に私たちも入れられる歩みでもあります。そして今日も私たちは聞きます。主イエスの言葉を聞くのです。「近くやほかの町に行こう」。さあ主イエスと一緒に出かけましょう。 

 



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