大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録7章49節~8章1a節

2020-08-02 14:50:57 | 使徒言行録

2020年8月2日大阪東教会聖霊降臨節第10主日礼拝説教「」吉浦玲子

【聖書】

『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

【説教】

<救いの歴史の中で>

 私たちはたしかに人生の中で神と出会い、救いを与えられます。闇から光へ、苦しみから平安へと移されます。そこには一人一人の救いの物語があります。劇的な救いを経験する人もいれば、穏やかにいつまにか神に導かれている人もいるでしょう。そして、それぞれの信仰体験のなかで聖書を味わっていくとき、それぞれの個別の救いの物語が大きな神の物語のなかに入れられていることを知ります。私自身の嘆きの物語がサムエル記のハンナの祈りと繋がります。自分の苦難の経験が出エジプトの民の荒れ野の旅と重なったりします。詩編の詩人たちの嘆きや賛美が私自身の嘆きや賛美そのものになります。

 聖書の神は私たちの神であり、私たちもまた神の民とされているからです。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、21世紀を生きる私たちの神でもあります。そして、数千年の時間を越えて、9000キロの距離を越えて、私たちの日々は聖書の時代の人々と結ばれています。

 さて、神と神殿と律法を冒涜しているとして訴えられたステファノは長い説教をしました。偽証人が立てられ、たいへん不利な状況でした。自分の命を大事に思うなら、このような説教はしない方が良かったでしょう。しかし、ステファノは堂々と語りました。アブラハムからモーセ、ダビデ、ソロモンにわたって神の救いの御業を語りました。それは、自分が神や神殿や律法を冒涜しているわけではないことを弁明するものでもありました。しかし、それ以上に、キリストを信じる信仰がアブラハムの時代からの壮大な神の救いの歴史のなかにあることを語りました。神の救いの歴史の中で、今現在、何が起こっているのか、自分と自分を訴える者たちがどういう位置づけなのかを語ったものです。これは現代においても重要なことです。さまざまな課題を、聖書に記されている救いの歴史の中から見る必要があります。ステファノは神の救いの歴史から、今現在自分が置かれている状況を語りました。

<神さまバイバイ>

 さて、今日の聖書箇所の少し前のところでステファノは語っています。「天はわたしの王座。地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれるというのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。(イザヤ66:1-2)」ここでは、神は人間の作ったものの中に縛られる存在ではないということが語られています。実際、アブラハムは旅をしながら、折々に祭壇を築き礼拝をしましたが、ひとつところに神がおられるわけではないことを知っていました。出エジプトの民も幕屋というテントで神を礼拝しました。荒れ野を歩む民と共に神がおられたのです。初めて神殿を建てたソロモンも、神が人間が造った神殿のなかにとどまられるお方ではないことを知っていました。幕屋や神殿は確かに神を礼拝する場ではありますが、神はそこにだけおられるのではありません。神に祈り神を礼拝する者と共に神はおられます。

 ところで、幼稚園が併設されている教会の牧師をしていた方からお聞きしたことです。幼稚園での活動が終わって子供たちが家に帰る時、子供の中には教会の会堂に向かって「神さまバイバイ」と手を振って帰る子がいたそうです。神様が教会の会堂に住んでおられるとその子供は思っていたのです。子供には悪気はもちろんないわけですが、神さまが会堂に住んでおられるというのは間違いです。しかし、それは、ことに日本人にはなじみやすい感覚です。ご本尊みたいなものがどこかにあって、そこに拝むべき方いるという感覚です。しかし、聖書に語られている、天地創造をなさった神は、神殿や教会の会堂にのみおられるのではありません。これは特にプロテスタントの教会で大事にしてきたことですが、神は、神を信じ求める者といつも共におられます。もちろんこの会堂にも、今、神はおられます。それはこの会堂が神の住みかということではなく、神は礼拝を捧げる私たちと共にいてくださるからです。会堂の建物それ自体が神聖なものではない、と言いますと、驚く方もおられるかもしれません。しかし、会堂は祈りと礼拝を捧げる人間がそこにあるとき、特別な場となるのです。それは旧約聖書の預言者たちも繰り返し言ってきたことです。旧約聖書の時代、神は神殿にのみいるという誤った考えを預言者たちは繰り返し警告しました。神殿で祭儀を行いさえすればよいと考え、普段の生活はまったく神から離れているあり方を預言者たちは批判したのです。神は神殿がご自分の憩う場所だなどとは思っておられないとイザヤも言ったのです。神殿や会堂を出るとき「神さまバイバイ」といった幼稚園児のように普段の生活では神様から離れてしまう人々を預言者は批判していました。

 ステファノを批判する権力者たちもまた神は神殿におられると思っていました。逆に言いますと、神殿の外では「神さまバイバイ」だったのです。神殿では厳粛にさまざまに祭儀を行い、日々の生活の中では形式的には律法を守っていましたが、そこにはまことの神への愛、神への従順はなかったのです。

<聖霊に逆らう>

 ステファノは「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」と語ります。聖霊は、キリストを指し示してくださる神です。キリストによって父なる神の愛と救いが人間にもたらされました。そのことを聖霊は示してくださるのです。つまり聖霊によらなければ人間は神の愛と救いは分かりません。聖書を読み、キリスト教の教理を学ぶことは大事なことです。しかし、そこに聖霊の働きがなければ、ただのお勉強になります。ただのお勉強からは神の愛と救いは分からないのです。冷たい信仰になるのです。会堂で荘厳な礼拝を捧げればよい、立派な朗々たる祈りを捧げたらよい、信仰者らしい振る舞いをすればよい、ということになります。本人はいたってまじめで熱心に信仰を実践しているつもりでも、そこには神の愛と救いへの本当の喜びがありません。ステファノを批判する神殿主義者のサドカイ派や、律法主義者のファリサイ派の信仰と変わらないのです。

 なぜ聖霊が働かないのでしょうか?ステファノは「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言いました。かたくなという言葉は、ギリシャ語の元の意味は「首が固い」ということです。英語でも「stiff-necked」と訳される言葉です。首が固い、首が凝った状態です。私もパソコンを長く使っていると同じ姿勢が続いて首が凝ってしまいます。血の巡りが悪くなり頭まで痛くなります。蒸した熱いタオルなどで血行を良くすると凝りが取れて楽になります。首が固く、ガチガチに固まっていると全身状態まで悪くなるのです。「心と耳に割礼を受けていない」というのも同じ意味です。割礼は旧約聖書の時代から、神に従うしるしとして男子の包皮を取り去る習慣ですが、心と耳が包皮に包まれているようにかたくなである状態だというのです。

 なぜかたくななのでしょうか?同じ姿勢をつづけると首が固くなるように、動きのない状態であることが原因の一つです。心がかたくなということは、心に動きがないのです。自分に固執しているのです。自分の考え、自分の思いに固まっていると心がかたくなって聖霊が働かなくなります。自分のやり方、慣習、流儀に固執して、本当の生き生きとしたあり方を失ってしまうのです。伝統ある教会がまことの信仰の命を失い、聖霊の働かない権威主義に陥ることが多々あります。それは、教会のあり方がかたくなとなり、心と耳に割礼を受けていない状態になるからです。そこには聖霊が働きません。むしろ自分では信仰熱心なつもりでも聖霊に逆らう者となってしまうのです。そして聖霊による言葉をかたくなに拒否するようになるのです。

 一方で、聖霊が働いた状態とは、しっかりとキリストとが示されている状態であり、それはとりもなおさず、キリストに支配していただいている状態です。支配というと自分の自由がなくなるような気がするかもしれません。しかし、本来、洗礼を受け、クリスチャンになるということは、自分をキリストの支配にゆだねることです。それまでは自分の主権は自分にありました。その主権をキリストにお返しするのが洗礼です。洗礼によって聖霊をいただき、キリストに支配していただいているにもかかわらず、ふたたびかたくなになり、聖霊に逆らう者に戻らぬよう、たえず祈りのうちに、信仰の心が生き生きと動きをもっていることが大事です。

<神の慰め>

 ところで、加藤常昭先生のある本に「慰め」という言葉の説明が書かれていました。お聞きになったことのある方もおられるかと思いますが、「慰め」という漢字は心にアイロンを当てることをあらわしています。ごわごわ、しわしわになった布にアイロンをあて、まっすぐにやわらかなものにするように、心にアイロンをあて、心をまっすぐにやわらかなものにするのが慰めだと説明されていました。

 聖霊に逆らう頑なな心はごわごわ、しわしわで慰めがないのです。自分の主権にこだわり、自分のやり方、自分の思いを押し通す時、すべてが自己責任となります。大人はたしかに自分の人生に責任を持ち生きていきます。しかし、人生のすべてのことに自分が責任を負うということは決してできないのです。この世界はそもそも人間を越えたものだからです。人間の限界を超えて人間の責任を追及するあり方はとてもしんどいものです。辛く慰めのない状態です。

そして自分の外側の世界のみならず、自分の内なる罪も自分には手に負えないものです。罪を自分で反省して自分でやり直して生きていけばよいということにはなりません。ひとたび反省をしても、人間は罪を繰り返します。私たちは自分で自分の罪をどうしようもないのです。ですから主イエスが来てくださり、十字架によって贖ってくださいました。その主イエスに自分の主権をお渡しする時、私たちはまことの自由を得ます。自分が自分の主権者であることをやめ、主イエスに主権をお返ししたとき、逆に私たちは自由になるというのは不思議なことです。主イエスは私たちの支配者でありますが、心を柔らかく、まっすぐにしてくださる慰め主であるからです。主イエスに主権をお返しするとき、私たちは本当に慰められ、喜びに満ちた日々を与えられるのです。

<永遠の命>

 しかし、頑ななままであれば、聖霊が働くことはできず、キリストのことも分からないのです。頑なな人々はステファノを殺しました。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲い」かかりました。そして石打ちによってむごたらしく殺したのです。聖霊が働き、キリストに慰められ、神と共に生きたステファノは結局、殉教をしました。キリストの教会における最初の殉教者となりました。聖霊が働いても結局、無駄だったのでしょうか?

 そうではありません。ステファノは、天におられる父なる神とキリストを見上げていました。キリストが神の右の座におられるのをはっきりと見たのです。神の右の座におられるということはキリストは神から全権を与えられたということです。この世界の全権を握っておられる方がたしかにステファノと共におられるのです。世界の全権を握っておられる方は、人間の命をも握っておられます。キリストご自身、十字架で死なれた後、復活をされました。肉体の命は滅びてもそれで終わりではないのです。復活の命、永遠の命を握っておられる方がおられるのです。ですからステファノは永遠の命に生かされる確信の内に安らかに眠りました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ったのです。この言葉は、主イエスが十字架上でおっしゃった言葉と同様なものです。これはステファノが素晴らしい人格者であり、信仰者であったということではありません。ステファノが完全に聖霊に満たされ、キリストのご支配の中にあったということです。聖霊に満たされ、キリストに支配されていたステファノは、内なるキリストによってこれらの言葉を叫びました。

 今日の聖書箇所の最後に、サウロと言う青年が出てきます。のちに大伝道者となるパウロです。彼はこの時、ステファノを殺そうとしている人々の荷物番をしていたのです。そしてサウロ自身、ステファノを殺害することに賛成していたとあります。この時サウロは、やがて自分自身がキリストを信じ、伝道する者となり、逆に迫害される側になるとは夢にも思っていなかったでしょう。最初の殉教者ステファノと大伝道者パウロの不思議な出会いの場面です。殺される側と殺す側というけっして交わることのないはずの二人が聖霊によって同じ目的に生きる者と変えられました。パウロにとってこの時、ステファノは憎々しい存在だったでしょう。やがて、キリスト者になった時、パウロは自分のことを<罪人の頭>と言いましt。ステファノを初め、多くのクリスチャンを自ら迫害したパウロののちの後悔は大きかったでしょう。しかしなお、この場に青年サウロを置かれた神のご計画は素晴らしいものであったと思います。ステファノの肉体は死にましたが、不思議なあり方で、その信仰と伝道の魂は荷物番をしていた青年に受け継がれていったのです。そういう意味でもステファノの死は無駄ではなかったのです。サウロはステファノの最後の叫びを聞いたでしょうか。それは分かりませんが、聞こえていたとしても、その時はステファノの叫びはサウロの心に響かなかったでしょう。しかしやがて、そのステファノの叫びの意味をサウロは深く理解し、自分自身が殉教宇する時、同じ叫びをしたことでしょう。

 今日、一人の姉妹に信仰の灯が受け継がれていきます。ここにいるクリスチャン皆が、誰かから信仰を受け継いできました。もちろん聖霊によって私たちはキリストを指し示されました。しかし、そのことを知らせてくれた誰かがそれぞれの人にあったのです。姉妹は東京にある教会で信仰の最初の導きを受けました。そして今、大阪東教会の先人たちからの信仰の灯を受けられます。ステファノからサウロにつながった信仰の命は、その後も不思議な形で2000年間受け継がれてきました。その不思議な神のなさりようを今日、私たちは見ています。その神の業に、私たちは今日新たに慰められます。



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