先日、ミュージカル「Love Of Seven Dolls・七つの人形の恋物語」を観てきての感想を日記に書きました「Love Of Seven Dolls・七つの人形の恋物語」。
ポール・ギャリコ作の この短編は、私がとても好きで、何度も読み返していたものです。
私が持っているのは、矢川澄子翻訳の角川文庫です。
翻訳ものというのは、どこかぎこちないところがあったり日本語が美しくなかったりと、ほとんどの場合不満なのですが、矢川さんの日本語はとても流ちょうで美しくて、文学の香り高いものでした。
とても満足していたのですが、舞台を観た機会にと思い、オリジナル版のペーパーバックを取り寄せてみました。
Love Of Seven Dolls/ポール・ギャリコ作
これがなんと、予想外に新鮮だったのです。
同時に、日本の奇才・矢川澄子訳をもってしてもなお、やはり完全には訳しきれない「翻訳」のもどかしさを感じさせられました。
もちろん 矢川澄子さんのは名訳だと思います。
文学的な格調高く、それでいて登場人物たちはチャーミングでセリフも生き生きとし、私は これほど素敵な翻訳はめったにないと思っています。
ときには、「英語の原文より、日本語のこの訳文の方がおしゃれですてきだなあ」と思う所などもあって、翻訳ということを忘れてしまうくらい、真に迫るものがあります。
また一方では、日本語という言語の持つ微妙なニュアンスや抽象性のせいか 意味があいまいになり、英語の端的なフレーズを読んで初めて、意味がわかるところもありました。誤訳だと思う部分もありました。当時の日本では知られていなかったであろう欧米の習慣などは、翻訳の仕様がなかったのだろうと思います。
このように、翻訳は 良いところも悪いところも併せて、楽しむものだと思います。
「ハリー・ポッターシリーズ」の日本語版に対する誤訳・演出過剰などの悪評は、みなさんも聞いたことがあると思います。
「ハリー」と矢川澄子さんでは格がまったく違いますが、大事なのは「翻訳本は決してオリジナルではない」ということなのです。
「伝言ゲーム」という遊びがありますね。
ある短いメッセージを、次々と隣の人に伝えていくと、最後にはぜんぜん違うものになってしまう・・・
みんなが無意識に、自分のイメージで言葉を置き換えたり、印象強かったところを強調してしまったりして、知らず知らずのうちにアレンジされていってしまうのです。
「翻訳もの」というのは、これに似ていると思います。
一つの言葉を選ぶたびに、翻訳者の価値観やセンスが投影されていきます。
最終的にできあがった本は、限りなく「翻訳者のオリジナル」に近くなっていると言っても過言ではありません。
今、あなたが読んでいる本は「日本人の翻訳者が演出したもの」であって、決してアメリカやイギリスの作者のものではないのだ、ということを、忘れないように。
転じて、原作のある物語を映画化や舞台化するのも、同じように「翻訳-トランスレーション-」といえるのではないでしょうか?
みんなが、「ハリー・ポッター」や「アリエッティ」の映画を観て、その世界を体験したと思っても、それは限られた - ワーナー・ブラザーズやジブリ - の人のイメージで、いろんな表現の中の一つのアレンジにすぎません。
例えば、「座頭市」という映画があります。
昔からいろんな人が映画を作っています。
一番有名だったのは、中村玉緒さんのご主人の勝新太郎さんが演じた映画でしたが、近年では ビートたけしさんの タップダンスを組み込んだ「座頭市」の印象が強くなりました。また、今年は香取慎吾さんによる、新解釈の「座頭市」映画も公開されました。
どれもそれぞれ、制作者の解釈と意図が反映されています。
大人は、ちゃんと割り切ってそれなりに楽しめるでしょうし、名作でも駄作でも「あれはあれ」と考えられるでしょう。
しかし、映画やテレビなどマス・メディアが与える影響は巨大です。
特に、やわらかな心を持っている子どもたちに、強烈な印象を刷り込んでしまうことには危惧を感じます。
本の世界というのは、各人各様、自分のイメージ世界を構築して そこに遊ぶものです。
原作本のイメージが、みんなテレビか映画発信のものに統一され、子どものみなさんの豊かなイマジネーションを画一化しかねない。
私はそれを恐れます。
ポール・ギャリコ作の この短編は、私がとても好きで、何度も読み返していたものです。
私が持っているのは、矢川澄子翻訳の角川文庫です。
翻訳ものというのは、どこかぎこちないところがあったり日本語が美しくなかったりと、ほとんどの場合不満なのですが、矢川さんの日本語はとても流ちょうで美しくて、文学の香り高いものでした。
とても満足していたのですが、舞台を観た機会にと思い、オリジナル版のペーパーバックを取り寄せてみました。
Love Of Seven Dolls/ポール・ギャリコ作
これがなんと、予想外に新鮮だったのです。
同時に、日本の奇才・矢川澄子訳をもってしてもなお、やはり完全には訳しきれない「翻訳」のもどかしさを感じさせられました。
もちろん 矢川澄子さんのは名訳だと思います。
文学的な格調高く、それでいて登場人物たちはチャーミングでセリフも生き生きとし、私は これほど素敵な翻訳はめったにないと思っています。
ときには、「英語の原文より、日本語のこの訳文の方がおしゃれですてきだなあ」と思う所などもあって、翻訳ということを忘れてしまうくらい、真に迫るものがあります。
また一方では、日本語という言語の持つ微妙なニュアンスや抽象性のせいか 意味があいまいになり、英語の端的なフレーズを読んで初めて、意味がわかるところもありました。誤訳だと思う部分もありました。当時の日本では知られていなかったであろう欧米の習慣などは、翻訳の仕様がなかったのだろうと思います。
このように、翻訳は 良いところも悪いところも併せて、楽しむものだと思います。
「ハリー・ポッターシリーズ」の日本語版に対する誤訳・演出過剰などの悪評は、みなさんも聞いたことがあると思います。
「ハリー」と矢川澄子さんでは格がまったく違いますが、大事なのは「翻訳本は決してオリジナルではない」ということなのです。
「伝言ゲーム」という遊びがありますね。
ある短いメッセージを、次々と隣の人に伝えていくと、最後にはぜんぜん違うものになってしまう・・・
みんなが無意識に、自分のイメージで言葉を置き換えたり、印象強かったところを強調してしまったりして、知らず知らずのうちにアレンジされていってしまうのです。
「翻訳もの」というのは、これに似ていると思います。
一つの言葉を選ぶたびに、翻訳者の価値観やセンスが投影されていきます。
最終的にできあがった本は、限りなく「翻訳者のオリジナル」に近くなっていると言っても過言ではありません。
今、あなたが読んでいる本は「日本人の翻訳者が演出したもの」であって、決してアメリカやイギリスの作者のものではないのだ、ということを、忘れないように。
転じて、原作のある物語を映画化や舞台化するのも、同じように「翻訳-トランスレーション-」といえるのではないでしょうか?
みんなが、「ハリー・ポッター」や「アリエッティ」の映画を観て、その世界を体験したと思っても、それは限られた - ワーナー・ブラザーズやジブリ - の人のイメージで、いろんな表現の中の一つのアレンジにすぎません。
例えば、「座頭市」という映画があります。
昔からいろんな人が映画を作っています。
一番有名だったのは、中村玉緒さんのご主人の勝新太郎さんが演じた映画でしたが、近年では ビートたけしさんの タップダンスを組み込んだ「座頭市」の印象が強くなりました。また、今年は香取慎吾さんによる、新解釈の「座頭市」映画も公開されました。
どれもそれぞれ、制作者の解釈と意図が反映されています。
大人は、ちゃんと割り切ってそれなりに楽しめるでしょうし、名作でも駄作でも「あれはあれ」と考えられるでしょう。
しかし、映画やテレビなどマス・メディアが与える影響は巨大です。
特に、やわらかな心を持っている子どもたちに、強烈な印象を刷り込んでしまうことには危惧を感じます。
本の世界というのは、各人各様、自分のイメージ世界を構築して そこに遊ぶものです。
原作本のイメージが、みんなテレビか映画発信のものに統一され、子どものみなさんの豊かなイマジネーションを画一化しかねない。
私はそれを恐れます。