極楽寺への上平良参道を登って廿日市参道に合流する手前の水越谷山に切り石を並べた石積みがみられる。
昔の砂防石積みとみられるがなんと小規模であり、当時は山の手入れをしていたのでこのような砂防工事でよかったのであろうか。
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昨日、廿日市参道から極楽寺山に登って極楽寺に参詣し昔なじみの上平良道(荒れ道)を帰った。登山道の29丁碑ころからは山道に踏み固められた残雪が凍っており、アイゼン無しの登山は大変だった。
祭日だったからだろうか30~40人の登山者とすれ違い登山者の多いのには驚いた。
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上平良地区1区・2区の東側にみられる山で、山字は吉野山であるが明治21年(1888)ごろの地図には寺山とある。かつて速田神社(速谷神社)供僧寺十二坊のひとつといわれる宝泉寺があったところのようで廃寺後は葬地とされ各所に墓地がみられる。
現在竹が繁茂して籔と化しているが一部伐採されたところをみると段々となっており、戦時中に芋畑とされていたところである。
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宮島競艇場の西スタンドなどの解体が始まっていることを先日紹介したが現在画像のような進捗状況であった。
競艇場が出来たころは当ブログ主の家付近までエンジン音が聞こえていたので、当時は消音装置がまだ発達していなかったのであろう。
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一昨日からの雪で昨日は山陽自動車道が通行止めとなって、昼過ぎの宮島サービスエリア上り線側では駐車の車が少なく閑散としていた。
昼過ぎには陽射しもあって天気も良く道路面には雪はなかったのであるが何故か夕方まで通行止め解除がなかった。
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♪ 生徒のすずめは 輪になって ♪ 昨日ウォーキングしていると途中から雪が舞いだし頭上の電線をみるとスズメが大集合して輪にならずに整列していた。
反対側の山をみるとこちらはカラスの大群が樹木の上に集合しておりどちらも寒さに震えていたのだろうか。
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先日TVで己斐地区にある観光橋を紹介していたが、観光道路と言ってもすぐわかる人はあまり多くはないだろう。古い国道2号線は昭和初期に広島から宮島口間が宮島観光道路として建設されたものであるが、現在は宮島街道と称されている。
本町3番交差点から須賀に向う道路の電柱に「観光道路支」「カンコウドウロ支」と二種類の電柱番号札がみられ、未だ連綿と観光道路呼称が伝えられている。
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旧石州往還で現在広島県道294号線の泉水峠(標高603m)で奈良原越とも言われていた。昭和5年(1930)の文献に休憩所が記されており、車が発達するまで多くの通行があったようである。
ここから野貝原山への登山道があり短時間で到達することができる。泉水峠の名称からかつて旅人の喉を潤す湧き水があったものとみられるが定かでない。
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明治期、玖島の豪農八田家は廿日市で広く事業を行なっており、本拠地の玖島と廿日市を結ぶ一等里道の泉水峠は険しく交通の便を図るためにトンネルの工事に着手していた。
ところが大正3年(1914)廿日市町に本店を置いていた八田貯蓄銀行の取り付け騒ぎが遠因でトンネル工事が中止された。泉水峠の手前にはトンネル工事が中止された掘割り石積み遺構が残されている。
広島県道294号線、虫道・廿日市線の川末から泉水峠間は画像のとおり河原を行くような険道である。
この道は江戸期、廿日市と匹見地方を結ぶ吉和通りの石州往還で車が発達するまで多くの人馬往来があった道であった。こんな道でも若者たちのモトクロス練習には恰好の道のようで、週末には山間に爆音を響かせている。
旧のうが高原レジャー施設があったころに設けられたのうが湖と称された池で、今や自然に帰って樹木の中に美しい姿をみせている。
当時、周辺の樹木は伐採され山は造成されていろんな施設があったところで単なる人工の池であった。かつてこの高原は広大な湿原地帯でミズゴケが繁茂し泥炭層があったところで御手洗川の水源である。
旧のうが高原レジャー施設があったころには広大な施設敷地内には遊歩道が設けられ周辺部の山林敷地は別荘地として売り出された。
当時の遊歩道案内看板が山の中にあったものとみられ木材搬出用の仮設道路の脇に置かれていた。別荘で優雅なひと時を過ごしたつかの間の夢の跡は雑木に埋もれて崩壊が始まった別荘跡もみられる。
野貝原山の山頂付近には10数基のアンテナが設置されており体の中をビビッと電波が突き抜けているようなアンテナ銀座である。
展望台から見えるアンテナは大小11基であるが、小さいアンテナで現在使用されていないものもありそうだ。他の場所2ケ所にも大小のアンテナがみられる。