原地区にある土蔵であるが通常この付近でみられる農家の土蔵に比べて大きなものである。
かつて当家は酒店を営んでおり酒代をつけにして、米と麦の収穫時に米麦で支払いをしていて、それらを収納するための土蔵であったようである。
原地区にある土蔵であるが通常この付近でみられる農家の土蔵に比べて大きなものである。
かつて当家は酒店を営んでおり酒代をつけにして、米と麦の収穫時に米麦で支払いをしていて、それらを収納するための土蔵であったようである。
桜島大根の生育状況を時折紹介しているが、今年廿日市6代目の桜島大根で在来大根と交配したものとみられる背高の1株が枯れてしまった。
他の3株も枯れて廿日市での交配種は絶えるのではなかろうかと心配していたが、何とか花が咲いてきたので種が採れるように大切にしたい。
原地区にある伊勢神社境内の9日の画像でボンボリが取り付けられており桜の花は満開であった。
10日には伊勢神社ではるまつりが行なわれ豊作祈願やカラオケなど催されたようである。昨日の強い風で花びらが少し散っているかもしれない。
宮内地区の畑口から黒折の西側の山(山字名-野入・深山)に点々と残雪のように白い花が咲いているのが見られる。
詳しい花名は不明であるがタムシバの花や山桜の花であろうか。春の山を彩っている花が終わると新緑の山となっていくのである。
旧石州往還で現在広島県道294号線の泉水峠(江戸期-なら原越え・椿峠)で、石積みのある平地がかすかに確認できここに休憩所があったものとみられ、ここで瀬戸内を眺めて一息ついたのではなかろうか。
昭和5年(1930)の文献に休憩所が記されているのでこの頃にあったことがわかる。玖島の人の話では泉水峠に休憩所があり、小学生の頃遠足で峠まで登って瀬戸内を眺めたことがあると話しておられた。
廿日市駅北土地区画整理事業の進捗状況について時々紹介しているが、佐方小学校付近の高台から見た洞雲寺門前の最新の状況である。
道路と歩道及び公園用地や宅地の工事で前年度の工区の工事が完了したものとみられ、歩道の植樹や電柱も立てられている。今年度は駅裏の山部分や洞雲寺より東の工事が行なわれるのであろうか。
住吉土手の内側にある潮廻しで新開地である住吉地区は標高が低く、満潮・干潮時の水位調整のために設けられたものである。
樋門によって満潮時に海水の流入をせき止め干潮時には逆に排水しており、大雨などで水位が上昇すると強制的にポンプ排水しているようである。桜の花と水鳥だけをみていると癒されるが、よく見ると水は濁って水草がみられ家庭雑排水が流入して富栄養化しているようである。
川末地区の出合から旧石州往還で広島県道294号線を泉水峠に向かっていると左下に猪のヌタ場があった。
猪の体についたダニやノミを落とすために泥浴びをするところで、以前には泥浴び後に石に擦った跡がみられたことがある。
泉水峠の手前にトンネル工事が中止された遺構が残されている。
玖島の豪農八田家は旧廿日市市域にも多くの土地を有し、また、後背地の山間部に広大な山林を所有しており、本拠地の玖島と廿日市を結ぶ泉水峠は険しく経済活動を高めるにトンネルの工事を始めていた。
ところが大正3年(1914)廿日市町に本店を置いていた八田貯蓄銀行の取付け騒ぎで、八田家所有の山林1378町歩と田畑6町歩を抵当にするなどして没落し、トンネルを造る必要性も薄れて中止となったものとみられる。大正3年2月に平良・玖島村間の里道改修の議案が上程されているが、このトンネルとの関係は定かではない、おそらく八田家の意向を踏まえた里道改修議案であったものと思われるのである。
原川末地区の出合茶屋から石州往還の奈良原越え(泉水峠)道は現在広島県道294号線でご覧のような険道である。
このような悪路であるが若者たちのオフロードバイクの恰好のコースのようであり、土日はバイクの音が山々に響きあっているようである。江戸期の地誌には出合より椿峠なら原越しまで11丁(1.2km)と記されている。
山境について石塚や貝殻埋めなど以前に紹介したことがあるが、木の芯を切ったものも見られるのである。
旧原村と玖島村との境で大沢峠の石塚の上に枝の張った樹木がみられ、大沢峠から泉水峠間の尾根筋にも枝の張った樹木がみられる。樹木の脇には現在のプラスチック製の山境杭が打たれている。