はつかいち美術ギャラリーで開催されている「七美会展」には連日多くの方々が鑑賞されているようですが、いよいよ最終日となり本日午後5時までとなりました。
本日はあいにくのうっとうしい天候なので屋根付きの美術ギャラリーで多彩な作品展をご覧になって英気を養ってみられてはいかがでしょうか。
弥山への登山道で紅葉谷から博打尾を経てロープウェー榧谷駅から獅子岩駅に向かう榧谷コースはきつい山道で一般向けではない。
登山道の途中で榧谷駅下のトンネルを通る。ここ榧谷駅までは少人数乗りの循環式ロープウェーで、ここからは多くの乗客を運ぶことができる交走式ロープウエーのようで、榧谷駅を少し進むと獅子岩駅に向かうロープウェーを見ることができた。
洞雲寺本堂西側にある池の中に祀られている厳島神社で、これは寺院の土地や境内、建物の護り神である。
当寺と因縁深い厳島神社から分祀して祀られたものとみられ、江戸期に記された洞雲寺記には桧皮葺きの鎮守堂がみられ、紀行記には鎮守厳島社寺ノ左ニ有と記されている。
弥山への登山道で四宮コースを登って弥山頂上に近い場所からロープウェー獅子岩駅と獅子岩展望所付近を遠望する。
獅子岩駅付近には日本モンキーセンター宮島支所が設けられていたが、下山途中に寄ってみると猿の姿は全く見られなかった。このところ観光客に危害を加えたり農作物に被害を及ぼすとのことで、猿を捕獲して愛知県にある犬山モンキーセンターに移しており猿がいた場所には捕獲用の檻が設置されていた。
先日紹介した七尾中学校昭和の同窓会と題した「七美会展」が本日より13日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。
昨日は展示作品の搬入をして実行委員が中心になって展示作業を行った。油絵、日本画、水墨画、版画、書、写真、染色、手書き友禅衝立画、パッチワーク、アルミアート、彫像、人形、能面、宮島彫、竹細工、西洋美術著書等々多彩で楽しい作品展なので是非足をお運びご覧になってください。
弥山への登山道で四宮コースを登って弥山頂上に近づいてゆくと山道に瓦の破片が見られるようになり、弘法大師像が安置された小さな大師堂がある。
弥山は弘法大師が開いた霊場と言われており、この大師堂付近には大量の瓦片がみられることから、かつては大きな大師堂があったものとみられるのである。
弥山への登山道で大聖院コースや紅葉谷コース、大元谷コースは整備されており多くの人達が利用しているが、弥山正面(北面)直下に向かう四宮コースは山道で一般向けではない。
以前に樹木や岩に赤いペンキが塗られているとマスコミで騒がれたことがあったが、他の登山道で赤いビニールテープがやたらと巻かれているのと同じようなもののようである。
四宮コースからの展望はあまり良くないが、途中紅葉谷駅~榧谷駅間の循環式ロープウェーが見られる。
細井原の民家軒先に時代がかった自販機3台と以前紹介したコンクリート製のゴミ箱が残されている。
左側はブルボン(BOORBON)ポテルカ(POTELKA)とあり、ポテトチップの自販機である。中央はヴィレ&COFFEE Z、THE VIRRE CALIFORNIAとあり、販売者はビーボ・フーズ株式会社のようである。右側はAJINOMOTO MORINAGAとあるが何を販売していたのかは不明である。
飯ノ山地区にある飯ノ山貯水池で、この貯水池の集水面積は少ないうえ梅雨の前なので貯水量は少ない。満水時の喫水線より下部分の斜面に樹木が育っているので満水になることが少ないのであろうか。
この貯水池は昭和7年(1932)に築造されており、ここで貯水した水を調整放流して栗栖川発電所に利用されている。
弥山山頂にある展望所から弥山の山頂部を見ると中央付近に三角点がみられる。この三角点は二等三角点で点名は弥山ではなく「御山」で標高529.83mとある。
山頂には巨岩が多く点在して三角点より高い岩があり、国土地理院の2万5千分1地形図には最も高い巨岩頂上の標高535mが記されている。
七尾中学校昭和の同窓会と題して「七美会展」が6月9日(水)から13日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示される。
恩師の先生方をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)まで50数名が出品、油絵、日本画、版画、書、絵手紙、写真、染色、アルミアート、人形、能面、パッチワーク等々多彩で楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。
細井原の民家軒先に昔懐かしいコンクリート製のゴミ箱がきれいな状態で残されていた。
昭和20年代戦後の復興で規格型のコンクリート製ゴミ箱が普及していたが、昭和30年代後半頃から交通の障害になるからと道路から撤去がすすめられ、コンクリート製ゴミ箱からポリバケツへの収集方式の変更によって次第に姿を消していったのである。
所山説教場の脇にある所山地区の忠魂碑で北清事変、日露戦役、大正3年~9年役、大東亜戦役での戦没者の名前が刻されている。
碑文によるとこの忠魂碑は昭和36年(1961)に建立されているが、平成12年(2000)に説教場の移築に伴って現在地に移転したようである。