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宮内市民センターの前庭に建立されている川北良太郎翁頌徳碑で昭和25年(1950)に宮内村にて建立されている。
川北翁は明治期22年間村長を務めて村の発展福祉を図り中でも野貝原山林の造成には最も傾注した結果、村唯一の財源となり村民はその恩恵に浴したようでその徳を頌したようである。
宮内市民センターの前庭に建立されている川北良太郎翁頌徳碑で昭和25年(1950)に宮内村にて建立されている。
川北翁は明治期22年間村長を務めて村の発展福祉を図り中でも野貝原山林の造成には最も傾注した結果、村唯一の財源となり村民はその恩恵に浴したようでその徳を頌したようである。
このところ、「市民センター」に残る、近現代の石造物が掲げられていますが、そこは役場跡と思ってよいのですか?
先年、的場の先まで行ったときは、小学校の南辺を歩きましたから、「市民センター」は意識していませんでした。
この敷地には、単に「元標」と記した石標は残りませんか? あるいは、「基標/基準標」「B.M.」と記したものはありませんか?
同様に、中規模程度の神社境内にそんな標石はありませんか? いずれも21~30cm角柱、地上高30cm程度。
遠くまで来られて調査をされているのですね。
市民センター隣接地が役場跡と思いますが・・・
「元標/基標/基準標」「B.M.」など見たことはありませんですね。また、よく探してみましょう。
釈迦に説法ですが;-
「元標」とあれば、水平距離の基準です。佐伯郡役所にあったと
伝えられるものの同類が、「宮内村」にあったはずだということです。
「基標」、「BM」は(地域の)水準基標で、御地の場合御手洗川の
治水・利水に関わります。