小瀬川(木野川)沿いの岩国市乙瀬地区にある護念山宗玄寺の本堂に架けられている喚鐘で、銘文によると宝永3年(1706)8月2日に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。山田貞能の鋳造作品は梵鐘・喚鐘など14口の鋳造をしたことが判明している。以前に、何時の時代のことかは不明であるが当寺の梵鐘を近くの小瀬川河原で鋳造したとの話を聞いたことがある。
小瀬川(木野川)沿いの岩国市乙瀬地区にある護念山宗玄寺の本堂に架けられている喚鐘で、銘文によると宝永3年(1706)8月2日に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。山田貞能の鋳造作品は梵鐘・喚鐘など14口の鋳造をしたことが判明している。以前に、何時の時代のことかは不明であるが当寺の梵鐘を近くの小瀬川河原で鋳造したとの話を聞いたことがある。
以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)
五日市の光禅寺に久しぶりに参詣した。鐘楼に架けられている梵鐘は廿日市鋳物師が鋳造した梵鐘であり、延宝7年(1679)5月に山田貞栄が鋳造している。この梵鐘の中帯にみられる蓮弁文の両側に蕨手文を配して図案化した文様は極楽寺、蓮教寺の梵鐘にもみられ山田貞栄が使用した文様手法のようである。
昨日紹介した御山神社中央社殿の高欄親柱の擬宝珠は安政3年(1856)5月に海田鋳物師の植木直義が鋳造し寄進されている。海田鋳物師の鋳造作品は115ケ所の鋳造が判明しているがこの擬宝珠は晩期の鋳造作品である。 海田鋳物師の鋳造活動については「安芸国鋳物師の鋳造活動」に詳述している。
極楽寺に参詣する人で本堂の屋根頂にある宝珠・露盤で露盤に銘文があることに気付く人は殆どいないであろう。銘文によると路盤は旦那宍戸元次で慶長4年(1599)に鋳造されているが鋳工名がみられない。宝珠にも銘文があるようだが下からは見ることが出来ない。銘文によると宝永元年(1704)に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。
①画像
②画像
③画像
④画像
⑤画像
昨日紹介した芸藩通志の古器図にみられる鰐口釜は茶の湯の隆盛時代に芦屋釜・天明釜などと同様に廿日市の鋳物師が量産していたものとみられるのである。
当ブログ主は遥か昔に②画像と③画像の鰐口釜を拝見したことがあるが、この二口の銘文の位置が少しずれていた。④画像は茶道文庫2「釜」に、⑤画像は廿日市の文化第8集に掲載されていたものであり、相当以前の情報であるが4口の同様の鰐口釜が確認できたのである。
厳島神社の東廻廊入口の石段右脇に建立されている鋳造燈籠で、燈籠の竿部分の銘文をみると天明8年(1788)正月に萩の鋳物師である郡司信向が鋳造している。鋳物師の郡司信向は始め七兵衛信尚と名乗っており安永頃に七兵衛信向と改名している。この燈籠は信向時代のもので寛政初め頃に再び七兵衛信尚に復している。
極楽寺に茶釜が二口残されており一口には寛延3年(1750)9月と廿日市冶工山田氏と鋳造銘がみられ、時代的にみていくと廿日市鋳物師の山田貞幹が鋳造したものとみられるのである。もう一口の茶釜は元文4年(1739)3月の鋳造銘がみられるのみで、時代的にみていくと山田貞能か山田繁富が鋳造したものとみられる。
極楽寺の文様
蓮教寺の文様
極楽寺本堂の脇にある覆屋の中に保存されている梵鐘は、延宝6年(1678)に廿日市鋳物師山田次右衛門貞栄が鋳造したもので廿日市市の重文に指定されている。この梵鐘の中帯にみられる蓮弁文の両側に蕨手文を配して図案化した文様は蓮教寺、光禅寺の梵鐘にもみられ山田貞栄が使用した手法のようである。
極楽寺に所蔵されている直径45㎝の大型の鰐口で県の重要文化財に指定されている。刻銘によると明応2年(1493)に大工久信によって鋳造されている。この鰐口を鋳造した久信は厳島社神主藤原宗親が寄進した当寺の梵鐘を明応5年(1496)に鋳造しており、廿日市鋳物師である中世山田家の鋳工とみられるのである。(参照:安芸国鋳物師の鋳造活動)(上画像:昭和55年撮影、下画像:廿日市町の文化財より)
極楽寺に参詣しても屋根上の露盤に銘文があることに気が付く人はほとんどいないであろう。路盤の銘文によると慶長4年(1599)霜月に宍戸備前守元次を檀那として新造されたようである。路盤上の宝珠には宝永元年(1704)卯月冶工山田氏貞能と銘文があるが下から見ることはできない。宝珠冶工の山田氏貞能は廿日市鋳物師であり、露盤には鋳工名がみられないが廿日市鋳物師の鋳造作品とみても間違いなかろう。
昨日紹介した教龍寺には二口の流転の梵鐘がみられる。鐘楼に吊り下げられている梵鐘は刻銘によると寛政11年(1799)に広島城下の妙慶院の梵鐘として芸備両国鋳物師筆頭植木直昌によって鋳造されたようである。戦時供出されていた梵鐘が戦後の混乱期に当寺へ移ったようである。
本堂脇に置かれている梵鐘は明徳5年(1394)に筑前州遠賀庄(現福岡県遠賀郡)の黒山千手寺の鐘として鋳造されたもので、その後京都の西本願寺に移り江戸末期に太秦広隆寺の鐘となった。その後どのような経路を辿ったのかは定かでないが、当寺に辿りついた流転の梵鐘で、広島県の重要文化財に指定されている。
香川県琴平町の金刀比羅宮桜の馬場西詰にある鋳造鳥居で、銘文などによると天明7年(1787)9月(右柱銘文)に築造されたものを文化15年(1818)2月(左柱銘文)に部分再建されたようである。再建は当所住の鋳物師杉田利兵衛藤原光廣とあり、諸国鋳物師名寄記などにみられる讃岐国那珂郡小松庄松尾村(琴平町)で鋳造活動していた杉田李兵衛とみられるのである。
大分市王子北町にある王子神社の鳥居で刻銘などによると寛政8年(1796)に府内藩6代藩主の松平近儔により寄進建立されたもので、市の重要文化財に指定されている。看板表示によるとこの地では駄ノ原鋳物師が鋳造活動しておりその鋳造作品とみられているが、戦時中の空襲で笠木・島木は被災して再造されたようである。
福岡県添田町にある修験道霊山であった英彦山の表参道(大門通り)にある銅鳥居で、寛永14年(1637)に佐賀藩主の鍋島勝茂が島原の乱の戦勝祈願成就で寄進されたもののようである。佐賀藩の御用鋳物師であった谷口清左衛門長光が鋳造しており、鳥居に掲げられている「英彦山」の勅額は霊元法皇の宸筆で享保19年(1734)に掲額された。この鳥居は国の重要文化財に指定されている。