おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

沈黙の行

2011-08-28 | Weblog
朝目覚めて手洗いと洗面を済ませ、飼い猫のために飲み水を取り換えて餌を与えて玄関へ。トレッキングシューズに足を滑らせて靴紐をきゅっと締め上げる。Tシャツにショートパンツ姿を整え、左手にスーパーのビニール袋、右手にゴミ鋏を持って朝の行ことウオーキングだ。

朝7時前で陽は既に上がっているが、盛夏のようにぎらぎらとした暑さはなく、外気は秋の気配を感じさせるほどの爽やかさとなっている。里山地域の舗装路にもいろんなものが落ちている。煙草の吸殻、煙草の空き箱、ライター、コーヒーの空き缶、折れ曲がって使いものにならない透明のビニール傘、ペットボトル、キャンディを包む小袋、車のテールランプカバーの一部と思われるプラスチック片などが袋に貯まっていく。遠くの農道をオートバイが走っている。白いヘルメットに黒のライダースーツ、オートバイも真黒の車体。エンジン音は低速でも、高速でもなく、穏やかだ。朝のなごやかさを壊さない快適な音の響きに、ライダーが穏やかな精神状態で走っているのを感じさせる。

里山の住居を縫う小道を歩く。蛙の轢死体がところどころにある。ぺったんこになっているものが多い。クマゼミが両足を畳み込み仰向けになって転がっている。夏の終わりの光景だ。命が抜け出てもぬけの殻となった姿。ゴミ鋏でつまんで眺める。異星人のような風貌だ。沿道の畑の土の上にそっと置く。秋の到来を早版で知らせる栗も落ちている。青い棘と小さな実が可愛らしい。蜜柑畑やイチジク畑にも青い実がなっている。交差する小道の土手にある柿の枝にも実があるが色づきはまだだ。成熟まではもう少し時間がかかりそうだ。

黒い羽根が特徴のハグロトンボがどこからかやってきて、ふわふわと飛んで先導する。少しばかり飛んではわたしが追いつくのを待つように雑草に止まっている。わたしが近付くと、か弱い飛行で前へ向かう。神様トンボ、仏トンボの別称があるそうだが、なにかいいことがあるのか。あるいは頼んだ覚えはないあの世への引導役か。けっこうな距離、30メートルぐらいを引率してくれた後、沿道の樹木の中へ消えた。

ビニール袋が拾い集めたゴミでぱんぱんに膨らんできた。道路の真ん中に青い葉っぱがついたトウモロコシが落ちている。実が少ししかついていない。まだ熟していない状態なのを人がいくらかかぶりついて捨てたのか。それとも、カラスなどの鳥が道路に転がっているのに気付き実をほじくったのか。由来が気になるトウモロコシをゴミ鋏ではさんで脇にある梅の栽培林に放り込む。残り物を狸か鼠が食べるだろう。

水田そばの水路の近くにガマの群落がある。茶色で円柱状の穂がなっている。丸々とした葉巻を想わせる。遠くに仁王立ちとなった入道雲を眺めながら深深と吸ったらうまそうだ。水田の稲は大人の太腿ほどの高さだ。頭を垂れる稲穂かなには秋がもっと深まらなくては。遠くで草刈り機の音がする。長袖、長ズボンに長靴、麦わら帽子姿で水田そばの土手の雑草を刈り取っている。動作を見ていると、丁寧な作業ぶりが伝わる。こんな人が手塩にかけて育てた農作物はきっとおいしいに違いない。

里山の日曜日に黙して歩きながらゴミを拾う。喜捨とは逆の喜拾? 小さい時、わたしがなりたかったのはバタ屋だった。なぜか理由は覚えていないが、街中をきれいにしたかったのだろうか。別に美化委員だったわけではないのだが、バタ屋の性分が今につながっているようだ。われながら、この三つ子の魂がいたく気に入っている。




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かにかくに

2011-08-25 | Weblog
半年に1回、体のゆがみを治すために整体マッサージを受ける。施すのは還暦を迎えた女性だ。雑貨店を経営したり、ゴルフ場のキャディーをしたりした後、指圧・手もみの師匠について経験を積んで独立開業とあいなった。この間、離婚をし1人娘を育て上げ孫もできた。女の道を語りながら、作務衣姿の彼女はせっせと整体を施す。

仰向けになって、うつ伏せになって、今度は横になってとの言葉を受けながら、体を動かす。うつ伏せになったわたしの手の平を見た彼女が黒のボールペンでマーキングを始めた。「ある、ある。たくさんあるわ」。ペン先の動きが手の平から伝わってくる。不思議に思って尋ねる。「なにがありましたか」。彼女が返答する。「少しばかり手相が分かるんだけど、あなたは親を看る運命にあるわよ」。彼女はしゃべり続ける。「親の介護をするのはあなたなのよ。それは先祖のことを見守るのと同じなのよ。その分、あなたは命をもらうことになるの」

左右の手の平には×印がたくさんついている。彼女が解説する。手相の中に出てくる×印(線と線とが交わってできる模様)は親を含めた先祖を見守ることを示す線だという。これが多いほど先祖を看る、いわば墓守と言うか、お墓参りや仏壇に手を合わせる時間が多くなるのだとか。確かに彼女が言う通り、墓参りや仏壇に手を合わせる時間が増えた。理由はいろいろあるが、それは事実だ。親の介護の時期に入ったのも事実だ。

仰向けになったわたしの顔を見ながら彼女は言う。「肌の色艶がいいわね。後光が差してるみたい。ゆくゆくは仏門に入るかもね」。整体を受け、目を閉じたままで言葉を返す。「仏門? 坊さんになるということ?」。彼女も言葉を返す。「そうよ。したいことはもうやったでしょう? 人のためになることをする時期に入ったのよ。親を看るのはその第1歩。わたしもねえ、したいことは今までやってしまったのよ」

仏門に入る運命にして、坊さんになるのか。NON,MERCIだ。念仏まではいいが、経は読みたくない。武蔵の五輪書の方がいい。精進料理よりイタリア料理がいい。黒檀の数珠よりラピスラズりのブレスレットがいい。袈裟よりスーツの方がいい。丸坊主頭よりは髪型と呼べるものがある方がいい。墓に囲まれた寺院に住むよりは緑に囲まれた住居がいい。仏典よりは小説の方がいい。抹香よりディオールのトワレ。弥陀の哲学より在野の精神。

信仰の世界には敬意を表するが、我流で人のために貢献したい。小乗から大乗へ。確かにそういう時期に入ってきた。失敗や挫折を含めて過去の出来事が愛おしくなってきた。現実の逆境やままならないことにも「生きていれば、こんなこともあるだろうさ」と鷹揚になった。嫌な思いも色褪せて浄化されてくる。朝起きて、5体プラス1が意のままに動くことに感謝し、「やるべきことを元気なうちにやるべきだ」との思いを毎度ながら強くする。

90分、2500円の整体施術が終わった。わたしは彼女にお金をお布施として差し出し、彼女はありがたく頂き、コーヒーをたててくれた。和ダンスの上に伏見稲荷の木札が飾ってある。深い赤色の紙に包まれている。「これは京都の伏見稲荷のもの?」。こう尋ねると彼女が教えてくれた。「わたしの還暦祝いにお客さんがわざわざ買ってきてくれたのよ」。福をもたらせば、福をもたらせられる。定めとは関係なく、親は大事にしよう。なごやかな気持ちでわたしは整体院を後にした。
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緑陰の午後 ザ・パシフィック

2011-08-20 | Weblog
「ぺリリュー島の戦いを知ってるか」。電話口の先から友人が尋ねた。ほぼ1年前の会話だ。「知らないが、どんな戦いだったの」。友人が教えてくれた。第二次世界大戦の太平洋戦争での日米の激戦地となった島だという。友人からの1本の電話が1年後にわたしがDVDで見ることになったテレビ映画「ザ・パシフィック」だ。

スティーブン・スピルバーグやトム・ハンクスらが制作総指揮を執った。昨年、WOWOWで10話連続して放映された。スピルバーグらは2001年に米軍のノルマンディ上陸からナチス・ドイツを打ち倒すまでの欧州戦線を描いたテレビ映画「バンド・オブ・ブラザース」を制作したが、「ザ・パシフィック」はもう1つの戦場である太平洋戦争を3人の海兵隊員の実話を元に描いた。

ガタルカナル戦から始まり、グロスター岬、ぺリリュー島、硫黄島の激戦を経て、沖縄戦と日本本土に迫っていく米軍と各戦地で守備を固める日本軍との死闘が続く。パールハーバーを奇襲したJAPを撃ち殺すために進軍する米軍。鬼畜米英に対し決死の覚悟で反攻する日本軍。両者は憎悪を武器に変えて無慈悲な殺人鬼と化してひたすら殺し合う。映像は激烈な戦闘を残酷、残虐な場面として再現していく。

手足が吹き飛び、頭を射抜かれ、血しぶきが上がり、火炎放射器で焼き殺していく。日本兵は同じ地球人とは思えないほど、理解不能な存在として登場する。機関銃でずた袋がぼろぼろになるように撃ち抜かれ、何人も何人も何人もぱたぱたぱたと倒れ、数え切れないほどの死体の山を築いていく。

米兵が死んだ日本兵の口をナイフで切り裂き、金歯をほじくりだしたり、脳みそが吹き飛んでできた頭部の穴に石ころを投げ込んだりと、見るも無残な情景も描かれている。人間はどこまでも残虐になることができる。自らを狂気に追いたて、銃撃でもって命を粉砕していく。まともだった精神もおかしくなっていく。

この映画を見終えてなにを考えようか。教訓は十分分かっている。戦争の正義は敵をせん滅すること。この1句が示す現実は、銃弾で体に穴が開いた無数の遺体が横たわっている情景だ。戦争の記録に触れるたびに思う。死闘にかける精神力やエネルギーを、戦争回避に死に物狂いでそそげたら。明治政府の富国強兵の行き着いたところが、戦艦大和の沖縄特攻や若者によるカミカゼ攻撃、民間人を巻き込んだ沖縄戦だ。

戦後66年を経ても、悲惨な死にざまと無念の思いが伝わってくる。安らかにお眠りくださいとは、まだまだ素直には言えない。米兵であれ、日本兵であれ、多くの命の悲惨な喪失を思うとき、永遠に癒されないものがあることを感じる。どんなに時間が経とうとも、どんなに祈りをしようとも、埋めることができない喪失の深さというものがある。わたしにできることは、この深淵に向かっての永遠の追悼だけである。
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緑陰の午後 パール・バック「大地」

2011-08-18 | Weblog
文庫本で4分冊、細かな活字がびっしりと紙面を埋め尽くす作品「大地」は、パール・バックの最高傑作である。1930年代に発表された作品はノーベル文学賞という栄誉をもたらした。ページを繰っても繰っても絶えることがない細かい文字群にはリーディンググラス(日本語訳では老眼鏡)が必需品となった。中国の大地を舞台にした長篇を読み尽くすには休日や平日夜という時間を費やす必要があった。根気と体力が求められるマラソンみたいな読書となった。

大地は3部作から成る。1部大地、2部息子たち、3部分裂せる家。貧農の主人公が奴隷の女を身受けして働き続けた後、地主となる。子供は男3人、女1人に恵まれる。長男は地主を引き継ぎ、二男は商人、三男は軍人となり家運を盛り上げていく。長女は知的障害者としてひっそりと暮らす。そして孫たちの時代へと移り変わっていく。3代にわたる大河小説、いやいや文字通り大地小説だ。大地に生きる農民たちを悩ませるのは、天災と人災である。洪水と日照りであり、政府とは別に私兵を率いて地域を支配する軍閥である。軍閥は領土と権益の拡大、それに略奪のために戦争を仕掛けることを繰り返す。兵隊たちの最大の歓びは勝利した後の略奪だ。強欲、陰謀、漁色、守銭奴、権勢欲など悪徳の栄えを、パール・バックは冒険活劇風な場面を織り込みながら抑えた筆致で丹念に描いている。

中国の天災と人災を題材としたパール・バックは日本の津波を題材とした作品も著わしている。「THE BIG WAVE」(大津波)だ。中国での戦乱を避けて長崎県の雲仙地方に避難した際に地元で津波の話を聞いたのだろう。雲仙地方は戦前、長崎市に居住する外国人の避暑地として有名で、中国からも宣教師らが避暑などで訪れていた。津波の話は多分、寛政4(1792)年の島原大変肥後迷惑が元になっていると思われる。雲仙普賢岳が噴火し、近くの眉山の山体が崩壊し土砂が有明海に流れ込んで津波が発生、対岸の熊本県などに被害をもたらした災害だ。死者は噴火災害で約5千人、津波で約1万人と大惨事だったことが分かる。

中国で半生を過ごし、日本にも戦前、戦後の計2回訪れたパール・バック。雲仙での滞在先を調査していた大学教授とともに、わたしも現地を訪れたことがある。15年以上も前のことだ。当時の建物は既に無く、多分ここら辺りではないのかと教授が指摘した林の中を探索した。足跡を追った数時間の思いは記憶の底に沈み、時の流れの中で消え失せたと思われた。しかしながら、どこかに種と言うか、根っこが生き続けていたのだろう。盛夏に入る前のある日、内なる声が響いた。「パール・バックの大地を読んでみたい」。読む理由が浮かんでこなかったのだが、読むべき作品だとは感じた。

わたしは図書館に出向き、文庫本4分冊の大地を手にし、家に帰って読み始める。一気に読み終えるつもりだったが、現実にはそうはいかず、再貸し出しを何回も繰り返しながら延べ日数で1カ月ほどかけて読了となった。中国の大地を舞台にした3代の物語は確かに面白かった。読み終えた後の高揚した余韻はその後、何日も続いた。それは内容の壮大な展開によるものではなかった。読書マラソンをするうちにランナーズ・ハイみたいになっていたようだ。リーディング・ハイ。読み進めるという行為そのものを愉しみ、それ自体に酔いしれ、高揚していたようだ。わたしは大地を通じて読書の2つの世界を知った。作品自体の中に入っていくことと、作品を読んでいる自分自身の中に入っていくこと。今回、初めて知覚することができたリーディング・ハイは、今夏の成果の1つである。
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緑陰の午後 図書750号

2011-08-17 | Weblog
本屋にふらりと立ち寄ったのは、旅行雑誌のインタビュー記事を読むためだった。その人の名は八千草薫。むかし、むかしのそのむかし、わたしは彼女に会ったことがある。正確には遭遇したことがある。場所は大学時代の夏合宿地となった富山・氷見。海岸沿いの高台にあるお堂が舞台だ。猛暑の中で武道の稽古で疲労困憊したわたしたちはお堂の周りでへたっていた。くしゃくしゃにされた新聞紙みたいに憐れだった。日ごろは合理性のあるけいこをしていたが、夏合宿には無理・無駄・無意味を強いる内容もあった。

「全員、お堂の柱にしがみついてセミみたいに鳴け! 夏ゼミに負けるな」。上級生の命令は絶対である。ミーンミンミンミーン、ツクツクボウシ、ツクツクボウシ、ミーンミンミンミーン。姿は人間、動作と声はセミというハイブリッドなわたしたちを遠巻きに眺める女性がいた。笑い声は上げないが、笑みを含んだ特徴のある顔立ちにピンときた。セミ人間ごっこに飽きた先輩が大声で号令を掛ける。「階段を下って校庭に整列!」。わたしたちはその場を離れた。その女性の立ち姿は、からからに乾いた喉元を通る岩清水、いや桃の滴みたいに思えた。猛暑の中の清涼なる存在、それは八千草薫。その夜、宿で語るわたしの遭遇談に他の仲間は取り合ってくれない。「俺たち以外に誰もいなかっただろう」「幻覚じゃないの」「白日夢だな」「禁断症状だね」。否定されて逆に気になる女優となった。旅と山登りが好きというのも指向が同じで好感がもてた。

インタビュー記事にはネパールの話が出てきて「やっぱり指向が同じだな」と悦に入った。いい気分なので書棚の背表紙や平積みの表紙を見て回る。旅、戦争、小説、ノンフィクション、新書、文庫の棚を巡っていく。スティーブ・ジョブスの名言集を手に取る。ジョブス関連はいくつか出ているようだが、著書が本人ではないというのが購買意欲を削ぐ。ぱらぱらとめくって拾い読みをして元に戻す。ターシャ・テューダーの本も人気があるようだ。創作活動に携わる者の理想の生き方の1つを示している。書棚が途切れた一角のテーブルに自由にお持ち帰りくださいと書かれた札が置いてあった。文庫の解説本などが見放されたように積まれている。文庫本より判型が大きい書が目に付き手に取った。表紙には「図書 8 2011 岩波書店」の文字と数字、西洋の木版画の写真があしらってある。

白い簡素な表紙をめくり、目次と巻頭エッセーに目をやる。大江健三郎、丸谷才一、佐伯泰英、高橋睦郎らの名前が並んでいる。書き手は知らないが、「コルトレーンとは何者なのか」「災害と『予言文学』」「大震災の中の読書」「文人の曝書」「神曲<煉獄篇>第八歌」などのタイトルが読む気を誘う。表紙も紙質も書体も編集スタイルも昔のままだ。出版界の生々流転、書籍界の有為転変にもかかわらず不変の体裁を継続している。永遠のスタンダードだ。若き日の意思と体形を何十年経っても失っていない。岩波書店の名刺とも言える雑誌、それは図書。代々の編集者たちの努力と選択眼によって、図書には完成度の高い文章が書き継がれてきた。

紙面の後半は新刊の紹介ページだ。書名を太字でどんと打ちだして、その横か下部分に内容を数行で表すのも昔のままだ。解説は簡にして要を得、それでいて核心の妙を忘れていない。世界で最もちっちゃな書評だ。単行本とは別の次元で図書は読み応えがある。「大震災のなかの読書」(野家啓一)は3・11の体験談とその後の日々を本と絡めて描いている。最後の部分を抜き書き。「停電のため蝋燭を灯し、眠られぬ夜に開いたのは、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対話『すぐ絶滅するという紙の書物について』(工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ)である。カリエールはニ〇〇六年のニューヨークの大停電に触れながら、電子メディアについて「電気がなくなれば、すべてが失われ、手の施しようがありません。それに対して、たとえ視聴覚的遺産のすべてが失われたとしても、本だけは、昼間なら太陽光で、夜だって蝋燭を灯せば、読むことができます」と述べている」

営々と刊行されてきた図書は8月で750号を迎えた。各月発行で1年で12号とすれば、750号の歩みの大きさが伝わってくる。執筆者と編集者が豊かな知性を駆使して作り続けてきた雑誌を知り得ただけでも、読書好き冥利に尽きるというものである。図書が醸し出すもの、それは1ページ目から最終ページまで貫かれた編集の丁寧さと品格である。品格のある雑誌なんて、そうそうお目にかかれない。
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緑陰の午後 滝の観音小縁起

2011-08-16 | Weblog
先導する軽自動車の後を追って、車は山中の舗装路を進んでいく。両側に山がそびえ、谷間を走行しているのが分かる。左手には渓流があり、上流に向かって車は上っていく。九州北部には湿った空気が入り込んで、ワイパーを最速にしても追いつかないほどの豪雨が緩急をつけて襲ってくる。精霊流しがある15日、昼食を終えて女性2人の案内で長崎市の東北部にある滝の観音を訪れた。

禅宗黄檗派・長瀧山霊源院が正式な名称だが、地元では滝の観音の通称で親しまれている。わが国最古の霊場だという。由来は弘法大師(空海)が留学先の唐から帰朝した西暦806年にさかのぼる。どういう因果か、当地に立ち寄ったことから縁起が始まる。綴りものにこうある。「滝水をご覧になり、大悲示現の霊地なりと、親しく加持の妙法を修され、さらに水観音の梵字を滝の懸崖に記して末代衆生の為に結縁なされた、と古書は伝えており、当山はわが国最古の霊場である」。空には雨雲が流れ、渓流を挟んだ山あいで緑が濃いため、幽谷の雰囲気が漂っていた。

車で境内に入り、渓流に架かる小橋を渡った先の広場に駐車した。先導してくれた女性が「坂を上って右側へ向かってください」と案内の声を掛けてくれた。よく手入れされたと分かる竹林の前に目指す場所があった。故郷の長崎から離れた大阪の地で人生が途切れたきみが眠っている。故あって縁が切れたと思っていたが、こうしてきみの目の前に立っているんだから縁は続いていたんだろう。享年52歳。年長だった。働き盛りだったんだね。周りを振りまわし、ある日所在不明となり姿を消した。数年が経ち消息が分かったとき、きみは病に冒され病院からの移動も困難となっていた。臨終の刹那、きみと縁あって結ばれて家庭を持ち、息子2人を授かった元妻が立ち合ったのは幸せだったと思う。大坂で葬儀・告別式があったのは後日聞いた。そう、わたしはきみの葬儀に参列しなかったのだ。

きみとの思い出はいろいろある。トラブル絡みが多かったな。でも、一番に蘇えってくるのはきみのお母さんの言葉だった。「問題を起こす子供ほど可愛いんですよ」。気丈で時折毒舌風の言を弄する肝っ玉母さんがしんみりとした表情で言ったのを鮮明に覚えている。きみが亡くなった後、不思議なこともいくつかあった。毎年命日が近付くと、闇夜で蛍が1匹どこからか飛んできてまとわりついたり、夜中にはたと目覚めて窓の外を眺めると大きなトンボが1匹何度も何度も旋回して飛び去らなかったこともあった。転生?と感じたくなるほどに、こんなことが続いた。夢の中にも現れた。きみ自身はなにも発しなかったが、故人となったきみのお父さんが語りかけた。「堪忍してやってください」。善人の見本のような心優しいお父さんの言葉に、夢の中でありながら心を動かされた。

長年宙ぶらりんとなっていたきみとの縁をただす日がやってきた。墓前で手を合わせようとの気持ちがきみの命日が過ぎて起きた。15日だったら、きみが再びあの世に戻る前に墓参に間に合うだろう。案内役の女性2人はきみと近しい血縁だ。さっきまで激しかった雨がやんだ。線香の煙が上がる中、きみが亡くなって以来、わたしはきみのために初めて手を合わせて冥福を祈った。許容することで、わたしたちは再び縁が結ばれた。もう蛍やトンボになって飛びまわったり、夢の中に出てくる必要はないさ。命日にはわたしがきみの前に現れるよ。
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緑陰の午後 盂蘭盆会

2011-08-15 | Weblog
縁戚となり、初盆を迎えたお宅に御仏前とビールセットのお供えを持参する。農家の庭先に車を乗り入れると、遊んでいた子供たちが寄って来た。車を取り囲んだ途端、1人が助手席のドアを勢いよく開けて叫んだ。「イルカのおじさんだあ!」。数年前の夏、観光船でイルカ見物に連れて行ったのをちゃんと覚えているらしい。玄関先で涼んでいた縁戚の1人と挨拶していると、わたしを取り巻いていたチビッ子イルカたちは群れをなして離れ、戯れながら追いかけっこを始めた。ついこの間まで赤ん坊や幼児だったのが、今では幼稚園児や小学生に成長している。子供はすくすくと育ち、大人にはじわりと年齢がのしかかってくる。

家人から仏壇のある広間に通される。線香や蝋燭台が載った経机の周辺にはお供えの酒類が山と積まれている。天井からは家紋入りの提灯がいくつも下がっている。蝋燭に火を点して線香に火をつける。鈴(りん)を鳴らして合掌し故人の冥福を祈る。鴨居の上には4枚の遺影が飾られている。初盆となる故人とその夫、夫の両親だ。和服姿の白黒写真を残された者たちは仰ぐ形となる。訪れたお宅は夫の実家だ。夫は元近衛兵の一員だったという話を聞いていたから、老いた風貌の遺影から若き日の姿を連想した。一挙一動が儀式めいた、作法に則ったものだったろうか。終戦をどんな気持ちで迎え、故郷の九州に戻ってきたのだろうか。端正な顔立ちの遺影を眺めながら、伺いたいことがいくつも湧いてくる。されど故人は語らずだ。不在の深さに感じ入る。

親類が集まってくる農家の法事では、実家の嫁や娘ら女たちが会食のための料理づくりや準備、配膳などをかいがいしく行う。男たちは手伝いをしない代わりに墓地に出向いて清掃したり迎え提灯を掲げたりしている。もっとも女たちは男たちに手伝いをさせないのだが。わたしも別室に案内されて冷たい麦茶を出され、男たちと高校野球を中継しているテレビに目をやりながら暑い日々の他愛ない出来事を話題に上げたりしている。墓地で手を合わせたいとの思いを告げると男たちの1人が車で案内してくれた。

丘陵地の一角に墓地群が見えた。西陽で竿石に刻まれた南無阿弥陀仏の金文字が照り輝いている。大理石づくりの立派な墓が3つ並んでいる。「これが本家のもの。その後ろが分家のもんですが、まだ誰も納骨してありません。これがうちのです。手前の空き地は分家の1つが造る予定だったのですが、他で造ったものだから土のままなんですよ。以前はここに石を積み上げて墓石の代わりにしていました」。初盆を迎えた故人は生前、粗末な石積みの墓に入りたくないと言って、生前のうちに大理石づくりの墓を息子らに造ってもらっていた。死後に納まるべき場所ができて安堵したのか、建立して数年後に旅立つこととなった。

墓地から戻ると会食の準備は整っていた。仏壇がある広間に再び案内され他の縁戚たちと席を囲む。ビール瓶の栓が抜かれ、コップに注がれる。会食前においとまするつもりだったのだが、「ぜひとも一緒に」「送りますから」と言われて同じ時間を過ごすことになった。鯨が並ぶ。甘海老もある。手作りの豆腐も出た。これはチーズのような味わいだった。どんどん呑んで、じゃんじゃん食べて。酒杯は常につぎ注がれて空くことがなく、箸は常に口元と取り皿の間を往復する。口も回るが酔いも進む。宵も進んで酔いも回る。鴨居の遺影を見上げることなく、呑み食いすることで生者たちは存在することに興じる。乾杯だ、乾杯だ、軽やかなる盂蘭盆会よ。わたしはまだ酔ってない、はずだ、が……。
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汚れちまった哀しみに

2011-08-11 | Weblog
よくぞ、時代はこんな風に変容したもんだ。

100円ライターは秋には販売禁止となり、仏壇用チャッカマンも店頭から消えてしまった。こどもの火遊び事故があったのが規制のきっかけだった。簡単に着火して便利だったチャッカマンもロック機能が加わって簡単に着火できないようになって不便な物となっていた。店員に尋ねた。「チャッカマンの在庫がないけど、いつ入荷するの?」。店員が浮かぬ顔して返答した。「旧タイプを改良する必要が出たため在庫を引き上げました。次の入荷はまったくの未定です」。かつての原点に戻ってマッチで仏壇のろうそくを点そう。次いでにこどもたちに警告しておこう。「きみたち、マッチで遊ぶなよ。小火を起こしてマッチが規制されて簡単に火がつかないマッチになったり、店頭から消えたりするからな」


コンビニに寄ってビタミンCのジェルタイプ飲料を求める。レジのそばに煙草が売られている。いろんな種類がある。本の帯みたいに箱の半分に健康被害を訴える警告文が印刷してある。煙草の箱のデザインをぶち壊す警告文の文字たち。喫煙はとっくの昔に卒業してしまったが、箱のデザインには引かれた時期があった。キャメル、ラッキーストライク、ハイライト、チェリー、バット、JPS、イブ・サンローラン、マルボロ、ケント、しんせい、ピースなどなど。ビーカンの語源ともなったビース缶も未開封ものがたくさんある収集ボックスのどれかにあるはずだ。喫煙者を引きつける魅力的なデザインも煙草の害の共犯者とみなされたのだろうか。大手を振って世にはびこっていた不良どもが世間から追放され拘束具で身動きが取れなくなり、猿ぐつわをされて売り場に引き立てられている。こちらも声を出せず、目をそむけるようにしてコンビニを立ち去っていく。


猛暑で冷たいものを呑みたくなり自販機の前に立ち、落ち着いたデザインのアルミ缶飲料のボタンを押す。ゴトンと音を立てて取り出し口に滑り落ちてきた。人がいただく飲料品にしてはぞんざいな扱いを受けている。コカ・コーラ・ゼロ。黒地に赤のcoca-colaのロゴが暑さを1000分の1ほどクールダウンさせてくれる。great taste ZERO sugarの表示がある。栄養成分表示が印刷されている。「エネルギー0kcal、たんぱく質・脂質・炭水化物0g、ナトリウム7mg、糖類0g 」。さらに「コカ・コーラゼロは保存料と合成香料を使っていません」の表示もある。ここまで来ると、もはや健康食品だ。いっそミネラルウオーターに衣替えしてはどうかとさえ思ってしまう。


ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下は核兵器時代の幕開けとなった。投下容認論の主幹は、戦争終結を早め、日米双方の死傷者を小さくした効果があったというものだ。さらに容認論を後押しするものとして、マンハッタン計画は殺戮と破壊に甚大な効果が実証される必要があった。政治的、軍事的、科学的な意味合いで原爆は市街地上空で投下され、宙空で起爆し、目視確認と映像に収めて記録するという行程がなされなければならなかった。核兵器の実戦使用は2都市でとどまり、その後はビキニ、ネバダ、セミパラチンスクで実験が継続されていった。ヒロシマ、ナガサキにある被爆の真実を伝える資料館を、人種とか、国籍とか、性別とか、年齢とかを離れて、まったくの1個人として訪れてみれば、no more and  remenberの思いを得るだろう。生きているうちに1回は訪れておくべき場所の1つだと思う。


核兵器とは双子の片われとなる原発は事故を引き起こし被害と不安をまき散らす。スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマ。福島原発は収束に向かっているのか、いないのか。よく分からない。放射性物質の情報が飛び交い、住まいから避難する人が相次ぎ、風評は流れ、牛などの出荷停止や除染の必要など実被害が広がっている。被害はどこまで及び、どの程度なのか。よく分からない。被害の渦中にある人たちは今後、どうすればいいのか、どう再建していくのか。さらなる地震の追い打ちはないのか。フクシマは今どうなっていて、これからどうなっていくのか。情報はメディアやネットに流れているが、真実はどうなのか。事の深刻さは薄れているのか、それとも強まっているのか。本当に分からないことだらけだ。
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博多・春馬にて

2011-08-07 | Weblog
へえ、お客さまは午後6時にお見えになるとのことでしたので、お待ちしておりました。携帯電話で店に連絡が入り、車で近くまで来ているのだが場所が分からないとのことでした。店の女性スタッフが通話中の子機を持って表に出てお車を探しました。空色のプリウスがお店から30メートル離れた路上に止まって様子見しているようだったので、スタッフが子機から尋ねました。「お客様の車は空色のプリウスですか?」「そうだよ、よく分かるね。どこから見ているの?」。お客様は路上で子機を持って通話しているスタッフに気付き、Uターンして案内した駐車場へお車を止められてから、ご来店なされました。

店は住宅街の中にあり、看板も出しておらず、目立たない作りなので、初めての方は迷われる場合があるようです。ご来店されたお客さまは男女2組でした。1組は男女ともお帽子を被っておいででした。しばらくして男性1人がお見えになり全員そろったようでした。板場の前にある一枚板の大テーブルにお席をご用意させていただきました。運転をされる男性1人がノンアルコールビールを頼まれ、後の方はグラスビールで乾杯されました。女性お2人は華やいだ美しさを感じさせました。調理に全身全霊、一刀入魂の思いで包丁を振るい、お皿に盛りつけをしておりますが、板場とお席が近いので楽しそうな話題が温厚な人柄を感じさせるお声を通じて左右の耳から入ってきます。女性の1人は関西弁でお話から京都の方でした。もう1人の方は長崎の方でした。

ご注文の刺身の盛り合わせをつまみながら、お客さまは京都と食の話題をされていました。遅れて来られた男性は横浜のご出身で京都を140回ほど訪れたことがある京都通の方でした。京都出身の女性とお話が合い、路地を入り込んだ食事処や銭湯、味覚処がいくつも出てきてました。お2人は前世では夫婦ではなかったかと思えるほどに、口から出てくるお店をいずれも訪れていらっしゃいました。「てんぷらの天喜(てんき)なんか最高だよね」。こんな声も聞こえました。「すっぽんを大市(だいち)で食べてみたいよ。1人2万3千円もするけどもね」。貴船の川床のお話では長崎の女性が舞子さんを伴って出向いたお話をされたり、祇園で一番美しい芸妓さんとお友達になったいきさつを語っていました。京都通の男性がおっしゃってました。「京都大学の先生が言ってたんだけど、京都大学でもものになる学生は2割しかいないんだって。京都大学でこれなんだから、他の大学はどうなるんだ」。全員で笑っておいででした。なぜ笑われたのかはよく分かりませんでしたが、面白いことを言われたんだなと思って、顔では笑わず頭の中で声を上げて笑いました。

食事処では京都から各地へ広がっていきます。広島・福山の「阿じ与志」は最高に旨い魚料理を出すそうです。お客様の中に名古屋の方もいらっしゃったのでしょう。「金持ちがいる名古屋なのに、おいしいものがない。きしめんに味噌カツ、味噌煮込みラーメン、ひつまぶし、それに手羽先かい」。名古屋の方が精一杯の反論をしていました。「ひつまぶしは旨いと思うんだけどもねえ」。京料理の伝統と洗練さに比べたら、やはり都落ちの内容となってしまうようです。

新鮮さが売りの博多の料理も話題に上っていました。お通しでお出ししたトマトのハム巻き、カボチャのムース、キュウリのおしんこには「これは旨い!」の声をいただきました。刺身盛り合わせでは鯨のベーコン、馬刺し、鯖刺しにトロとオールスターを味わっておられました。みなさん、箸をつけた後で会話がしばらく止まってしまうほどに味を堪能されていました。自慢のつくねでは「たこ焼きかと思ったが、なかなかいいよ。軟骨まで入ってる」。京都通の男性がわたしのことをおっしゃってました。「五番町夕霧楼に出てくる修行僧みたいだな。きりりとしているよ」。うれしい限りです。他の男性がこうもおっしゃってました。「しかし、金閣寺を燃やすなんてできないよな」。これは褒め言葉ではないようですが、小生は板前魂を燃やし続けますよ。それにしても、お話を自然と聞くことになった今夜のお客さまは最初から最後まで京都と食のお話だけでした。政治とか、経済とか、お金とか、老後とか、誰かの悪口だとか、そんなお話がまったくないのです。世の中の広さをつくづく感じさせていただきました。

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