おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

ネジとボルトとビスでできている世界

2020-10-29 | Weblog

ある女性たちにとっての愛用品が化粧箱だとしたら、ある男性たちにとっての愛用品は工具箱となる。化粧箱にいくつもの化粧水やクリーム、口紅、アイシャドーのための化粧具などが入っているように、工具箱にはハンマーやペンチ、ドライバー、レンチ、カッターナイフ、釘、そしてネジ類が詰まっている。わたしもまた、ある男性たちと同じように工具箱を愛用している。それも大小2つ。大は本格的な作業をするための諸々の工具が収まっており重い。小はちょっとした作業での必要最低限の工具が入れ込んであって軽い。物を組み立てる、あるいは解体するのに出番が多いのが、ドライバーである。なぜなら、工業製品のほとんどにネジが使われているからである。

家庭で老朽化あるいは破損して不用もしくは不要となった品々を解体する機会がこのところ増えた。令和という新しい時代になったことだし、昭和や平成の時代に倉庫の中に押し込まれた品々を整理する中で、廃棄と取り置きの選択をすることになったためだ。本当にいろんな物がたまりこんでいるもんだ。亡くなった両親や親類らの残した物ばかりだ。本、雑誌、文書類、電化製品、置時計、園芸用品、農機具、陶器類、ガラス製品、観光地で売られていた木製の手作り人形類、事務用品などなどだ。メルカリやヤフオクに出品する気は毛頭ないので、廃棄すべきものを選び出して、燃えるゴミ、燃えないゴミに分別する作業に入る。そのためにドライバーを使って解体作業をするのである。

小学校の理科の授業だったか、カエルの解剖を想いだす。物の構造がどうなっているのか。すなわち、どんな風に組み立て上がっているのかに素朴な関心があって、工具を使って解体するのが好きなのである。マグロの解体ショーを見学したことがあるが、手際よい作業で美しくばらしていくことに感心したことがある。料理人がまな板の上で食材を包丁できれいに切っていくような感覚に共感する。使い込まれた後、不要となった品々。組み立て作業の工程を巻き戻していくようにして解体していく。まさに当初の姿に戻していく作業でもある。そこでは、長い間、ご苦労さんの気持ちを込めての整理となる。

きょうの解体はどんな品々だろうか。あちこちが錆びて傷だらけとなったスチール製の書架が目の前にある。会社などで書類ケースや在庫の品々を置くのに使ったり、家庭では本棚として使ったりした品だ。頭がプラスのネジと六角ボルトで要所が固定されて組み上がっている。ドライバーと六角レンチを使って難なく解体することができた。次はデスクトップパソコンのキーボードだ。こちらはネジと言うよりは小ぶりのネジすなわちビスで要所が留められている。ビス用の小型のプラスドライバーを使って1個ずつ取り外していく。ビスを取り払われたキーボードは長方形の2枚貝状態となっている。マイナスドライバーの先端を接合部分の一部に差し入れて、ゆっくりとこじ開けると、ぱかりと上部と下部に分かれる。2枚貝の中身に当たるのは、キーボードと同じ長方形をした透明シート。ぺらぺらのクリアファイルみたいな感じで、表面にはキーボードのそれぞれの文字の位置を示す●と配線図が印刷されている。なるほどねえ。最近のキーボードの内部はこんな風になっているのか。別のメーカーのキーボードも解体してみたが、同じ構造だった。いずれも下部の裏面にmade in chinaと記されていた。

次は電動チェーンソーだ。これもプラスドライバー1本で大丈夫だ。プラスチックのカバーを外し、本丸であるモーターカバー部分に挑む。組み立てる方は工場での製造となるため、作業員は充電式のインパクトドライバーを使って短時間に何台も仕上げていくのだろうか。わたしの場合は、のんびり、ゆっくりと構造を1つひとつ確認しながら、かつ、なるほど、こんな風に仕上げてあるのか、と好奇心を満たしつつ解体していく。モーターの心臓部とも言うべき部品を取り出す。銅線を巻いた心棒の先に10枚の羽根が付いた円盤が取り付けられている。これが勢いよく回転し、その動力をチェーンソーを回す力に変換していく。人間が思考し、創り出した論理と科学の世界の粋がここにある。物理の応用で出来上がった製品に感心するばかりである。電気って凄い!

衣類などを収納したりする木製3段ボックスはあっという間にドライバーで解体してしまう。そもそも、ドライバー1本であっという間に組み立てることができるような製品ではある。パイプ椅子も簡単に解体となる。洋タンスや食器棚などは扉などの丁番にネジが使われているが、これもお茶の子さいさい状態だ。スチール製の倉庫はどうか。これは六角ネジや六角ボルトが使われているので、ドライバーという訳にはいかないみたいだ。インパクトドライバー・レンチが必要となる。それじゃ、古い家屋はどうか。うーん、これは重機が要るなあ。それに人数もそれなりに集めないと。まあ、電化製品を解体するのが1番愉しいかもしれない。プラスチック、配線類、金属部分などが上手に組み合わさっていて、決め手はネジが要所を締めているところかな。形ある物を解き放つのも、またネジであり、ボルトであり、ビスなのである。

コメント

ランバージャックもしくは木こりたちの仕事

2020-10-21 | Weblog

閑静な住宅街のど真ん中に、わたしがトトロの森と異称する場所がある。グーグルアースで眺めると、マンションや家屋の屋根が連なる中で、そこだけがこんもりと緑色に異彩を放っている。パソコン画面で初めてその場所を見たとき、こんなところに森林があったかな?と思ったほどだ。現地の住所の丁目、地番を入れて検索してみると、この森こそ、わたしが対峙することになる場所だった。

戦前、戦後の昭和時代を経て、平成、令和にわたって育ち続け、上へ、横へと広がった樹木たちは周囲の住民に脅威を与える存在に変貌していた。強風や台風で落ち葉をまき散らし、枝が飛び、場合によっては幹が裂けて隣家に迫るような事態を引き起こすようになっていた。トトロの森がオドロオドロしい森と化していたのだった。さまざまな縁が、阿弥陀くじの線を辿ってくるようにして、わたしのところに転がり込んできた。魔物となった森の退治人の役回りを受けることになった。人生のいろんな節目で、なぜか、わたしが引導を渡す役割をすることが多々あった。令和になって初めての引導を渡すことになった。

依頼を受けて、わたしは1人で下見に出掛け、そして驚いた。松、栗、竹、棕櫚、カイヅカイブキなどが手入れされないことで怪物のように巨大化していた。枝を狂おしく伸ばしまくり、幹をねじって獰猛な野性を露わにし、わが物顔ですごんで―それはゆすり、たかり、恫喝、恐喝、因縁付けである―土地を支配しやりたい放題の独裁地帯をつくり上げていた。もし、樹木たちが定期的に手入れされていたら、鑑賞木として周りの人たちを和ませていただろうが、もはや改心をし更生するには手遅れだった。けっこうな額のお金と時間、それに持続可能な管理態勢が要るうえに、隣接の人たちが怪物の森を許容する限界を超えていた。

由緒来歴がある庭に植えられた樹木たちの運命を決めることになった。伐採。それも全ての樹木を。巨木、古木ぞろいの樹木を前にして、わたしの趣味でもある剪定の能力を超えていた。「大木切ります」を売りにしている伐採専門業者の社長を同行して2回目の下見をした。チームを率いて九州各地で大木を切り倒している社長は現場を見るなり言った。

ああ、1日で終わりますね。スタッフ5、6人で大丈夫でしょう。

1日で終わるんですか? そんなに簡単なんですか?

伐採の難易度で言いますと、初級、しかも基礎中の基礎ぐらいでしょう。

ここで社長と伐採談義となり、社長が伐採の奥義を語った。

技術、道具、そして経験ですね。この3つが必要です。

そして後日、わたしは社長が言った奥義というものをこの目で見、実感することになる。

パソコンでつくった世界ではない。リアルワールドの凄み。精神と肉体を持った人間が荒くれた野性たちと格闘する迫力は実に見ごたえがある。今、目の前で繰り広げられる格闘の立ち合い人として、わたしはメモを取り、スマホのシャッターを押しまくった。ランバ―ジャックたちは総勢5人の男衆。20代から30代か。リーダー格は40歳前後ぐらい。作業の段取りの説明を受け、事故やけががないようにとの言葉を掛けると作業が始まった。

ランバ―ジャックたちが立ち向かうことになるグリーンモンスターたち。

遥か昔は美しい庭園だったのだが、後は野となれ山となれの魔界と化している。

 

いざ、出陣! ランバ―ジャックたちが森へ侵攻していく。

 

チェーンソーを使って手分けして小枝を切り落としていく。その手際の良さが美しい。

仕事ができる男たち。無駄のない機敏な動きがそのことを物語り、信頼感がすかさず芽生えていく。

 

安全ベルトを腰に巻いただけで木の枝の間を歩き回り、幹を上り下りする。

手鋸やチェーンソーを木の上で器用に操り、枝を切り落とす。

電動ウインチやロープなどの伐採必須道具も活用する。

技術と道具と経験が野性を制御していく。

 

T字型のアルミ製簡易梯子を組み立てて、なんの躊躇もなく高木に登っていく。

 

カイヅカイブキの巨木の枝の上を歩くランバ―ジャック(赤い矢印の人影)。

枝の上を歩くモンキーウオークはわたしも少々できるが、彼はグレイトモンキーウオークの実践者だ。敬服しきり。

 

グリーンモンスターの王が松の木だ。優に高さ20mはありそうだ。

中央付近にランバ―ジャックが既に張り付いている。

 

作業の様子を拡大してみると、こんな具合。枝を下から順々に切り落として上方へ。

信じられるだろうか。安全ベルトを腰に回しただけで、チェーンソーを持って登っていくなんて! しかも、するすると上がっていくんだ。

 

ほとんど登山家の姿である。

わたしは作業後に尋ねた。

ロッククライミングできるよね?

できませんよ。怖いですから!

 

技術と経験とは言え、どうして、こんなことができるのか。

 

ここまで来ると、もう美しい光景としか言いようがない。

 

幹の左下側に切り落とされた枝が真っ逆さまに。

見た目はひらりと軽そうだが、地面に落ちた時の音を聴けば結構な重量だ。

 

最上部まで枝を切り落とすと、今度は幹を50~60cmぐらいの高さで順次切り落としながら下がっていく。

あまりにも慣れた手つき、作業なので、見ていてハラハラ、ドキドキがないという不思議な感動が心中に広がる。

グリーンモンスターたちの巣窟は5人のランバ―ジャックたちによって完全に消滅させられた。朝9時過ぎから、昼食の1時間を挟んで、夕方5時半までの1日がかりの作業だった。モンスターたちは切り株の表皮に沿ってチェーンソーで円形の溝を刻まれ、そこに除草剤液を注入されて再生の機会を失うことになった。枝や幹は適宜裁断されて松の根元付近に積まれて緑の塚が造られた。歳月という時間の経過とともに彼らは土の世界で過ごすことになる。

全身汗びっしょりのランバ―ジャックたちは明日も大木伐採の仕事が入っているという。雨が降っても合羽を着ての作業実施とか。楠の大木を切り倒すのだという。ランバ―ジャックたちを見送った後、夕暮れの中でわたしは緑の塚の傍に近づき合掌をした。この世に生きてきたものへの、わたしなりの作法なのだ。

 

コメント

日本百名山病

2020-10-15 | Weblog

九州のとある山(標高1483m)に朝早く登る。6合目から上は山霧に覆われていた。ゴアテックス仕様の登山靴を履き、ウエストバッグを腰に回し、緑茶が入ったペットボトルのホルダーを鍛え抜いた上半身に斜め掛けにしただけの軽装スタイルである。駐車場に止めた車の中には雨具や折りたたみ傘など登山関連の品々が一式入ったリュックを用意していたが、必要最低限の装備で十分との判断をした。登山口には山の神を祀った神社拝殿がある。登らせていただきます。謙虚な心持でもって登山の無事を合掌祈願した。いざ、出発!

整備された登山道を1人歩いて行く。生き物のようにうごめく霧が紅葉にはまだ時間がある木々の間を流れ、絡み、風景を乳白色に塗り替えていく。遠くで鳥の声だけが聴こえる。登山道は途中、下り坂になっていたり、平たんになっていたりするが、山頂に至るには山腹を上へ上へと登り歩いていかなくてはならないので、結局は上り坂の中での、わずかな時間だけ提供される楽ちん歩行となる。上がり坂は歩幅を狭くしてゆっくりと、平たん、下り坂は街中を歩くときと同じ歩幅で、といった具合に、まさしく自転車走行で上がり下りでギアを変えていくようにして、歩みを進めていく。

登り始めから10分から15分ぐらいも歩くと、登り坂となっていく山道に体が順応し慣れ始めていく。段差あり、窪地あり、鎖場ありの山道を上り詰めると頂きに至る。山頂の岩石群の中の1つに座像の石仏みたいにした姿が目に入る。先行者のようだ。山頂で1人瞑想にふけっているようにも見える。フードを被った後ろ姿が流れる霧の中でぼんやりと浮かび上がっている。男なの? 女なの? 座った姿ながら体はがっちりしているような印象がある。胡坐をかいているなら男かな? すこしばかり関心を持ちつつ、30m離れた岩場の上にある山頂を示す石柱の頭をぽんと手のひらでたたいて、登頂したことを実感する。

スマホで山頂周囲の写真を撮ろうと思ったが、霧の流れは収まりそうもない。山頂から知人にメールを送り、霧に囲まれた情景を説明する。返信が来た。

おーっ、すごい。しばらくしたら、霧が動いて、素晴らしい光景が見えるはずですよ。すこし秋らしいかしら?

自然風景の撮影で各地を訪れている人だけに、山の天気の動向にも詳しい。助言通り、しばらくしたら霧が少しばかり晴れてきだした。座禅風の姿勢をしていた人物の体が動き出した。瞑想の時間が終わったらしい。わたしはゆっくりとその人物の方へ歩み出す。フードをしていた人物が顔をわたしの方に向けた。レンズ部分が青色でコーティングされたサングラスをしていた。フードを取った人物は男性だと分かった。わたしは声を掛けた。

1番乗りですね。どちらからいらしたんですか?

鹿児島からですよ。

おう、鹿児島から! わたしも近々訪れようかと思っているんですよ。

こうして山男というか、山登り、山歩きに好感を持っている者同士の会話が始まった。60代だろうか、会社を勤め上げて自動車で各地の山を訪ねて登っているという。日本百名山に挑戦中なんですよ。サングラスを付けたまま山登りをする理由を語った。

日本百名山とは戦前の登山家で随筆家の深田久弥が独自に選び出した「名山」のことである。わたしはにやりとして応じた。

あははは、百名山病に罹りましたね。けっこういますよね。名山が1から100まであれば、ついつい全部登頂しようかなという気になりますものね。

わたしの珍説に気恥ずかしさを感じたのか、相手はやや自虐的な弁解をしだした。

いやあ、百名山を踏破したからって、どうってことないんですよ。それがどうしたことだって思いますよ。でも、幾つか登りだすと、止められなくなるんですよ。名山を50ぐらいまで登るまではきつかったし、長かったですよ。今は60ぐらいまで来ています。あと40ぐらいだと思うと、なんとかやりきれそうだなって気になりますよ。まあ、百名山登ったから、何かあるのかと言えば、特に何もないんですがね。

鹿児島の開聞岳はどうですか? 地元では小学生が遠足で登る山だなんて言われているそうですが?

3回ぐらい登りましたが、どうってことない山ですよ。つまんない山でね。小学生が登る山と言えば、霧島だって遠足で登る山ですよ。

だははは、わたしの友人も開聞岳はおもしろくも、おかしくもない山だと言ってました。登ってる途中、木ばっかりしか見えないって。わたしに言わせれば、山だから木はいっぱいあるのは当たり前、となりますがね。霧島も遠足で登る山なんですか。うーん。

四国の石鎚山はどうですか。四国で1番高い山ですよね。

ああ、登りました。高さ20mぐらいに切り立った鎖場を登るんだけど、5月の連休の合間だったから登山者が多くてね、大変だった。上にいる登山者たちのお尻が目の前にあってね、いつ落ちてくるかもしれないと怖かったですよ。とにかく鎖場はきつかった。生まれつき左手が不自由でね。右手1本を使って鎖を握って登らなくてはいけなかったからね。

相手は上着の両袖を肘までまくり上げていたが、左手が不自由そうには見えなかった。登頂した山の話を語るのが楽しそうだった。まさに、よくぞ、聞いてくれた、言わせてくれよ、おれの体験談を。

青森の岩木山も山容が美しい山ですよね。山麓にりんご畑が広がる中にすうっと立ち上がった姿なんか最高でしょう。

そうそう、岩木山も登ったなあ。あれは9月だった。東北の山だから涼しいかなと思ったら、とんでもなく暑くてね。やぶ蚊がぶんぶん飛び回っているし、汗だらだらだったなあ。山頂近くになった頃には涼しさを感じはしたけれどもね。

周囲を霧が流れていく山頂で2人の山談義は続く。佐賀の黒髪山はどうですかと尋ねられる。名前は聞いたことはあるが、登ったことはないと答える。その代わり経ケ岳なら登ったことがあると言うと、その近くに多良岳があるでしょうと聞かれる。よく登ってますよ。ただし今は夏場の豪雨で登山道や登山道への経路でがけ崩れなどがあって登れませんよと情報提供する。そうなんですか。明日登ろうかなと思ってたところだった。事前情報を聞いて良かったと感謝される。経ケ岳も登山口に至る道路が豪雨で使えなくて登れませんよと追加情報を伝える。なるほどねとうなづきながら、お薦めの山はありますかと聞かれる。長崎県大村市近くに「こくぞうさん」って山がありますよ。字体は虚空蔵山となりますねと説明して続ける。低い山ですが、九州のマッターホルンと呼ばれてて、遠くから見たら本当にスイスのマッターホルンぽいですよ。あなたなら30分ぐらいで登れると思いますよ。

山頂での会話は30分ほど続いた。別れしなに言葉を掛ける。また、どこかの山頂で会うかもしれませんね。それじゃ(これからの登山)ご無事で!

わたしたちは互いの右手を出して握手をした。わたしは下山へ。相手は縦走して近くの山頂へ向かった。朝1番の登山で、わたしたちは孤高と対話の妙を霧の中で存分に味わった。

山頂には霧と岩と登山者しかない。

霧と岩は沈黙し、人は孤高の中にあっても口を開いて言葉を交わす。

コメント

猫はこうして地球を征服した

2020-10-08 | Weblog

朝刊に掲載された本の広告欄の1つが目に入った。猫はこうして地球を征服した。なんとまあ、大仰な書名だなあと呟いた数日後、キジトラの子猫が表紙カバーに描かれた本を手にしていた。アメリカのスミソニアン博物館などを運営するスミソニアン協会が発行する会報誌の女性記者アビゲイル・タッカーの著作である。原題はThe Lion in the Living Room。サブタイトルがHow House Cats Tamed Us and Took Over the Worldとなっており、意訳されて邦題となっている。

8章仕立て、269頁。1匹の飼い猫と暮らし、猫に関する実地調査や研究者への取材を通じて、猫の過去、現在、未来について考察を重ねに重ねて書き綴っている。科学記者ゆえに深くて、緻密で、専門的な論考を繰り広げていく。時折、文中に生真面目なユーモアを交えているようだ。「この話って可笑しいでしょう?」といった意図は感じるものの、著者も文章も生真面目なのでくすりとも笑えないというところが、実は笑える。

18年間にわたって猫を飼った経験がある。猫の図鑑や飼育本、イラスト本などに目を通しているので、猫に関しては少なからず知見がある。人類とともに歩んだ猫の歴史や、猫あるあるといったたぐいの生態、愛猫家の心理などは「そうそう、その通り」とうなづきながら読み進んでいく。科学記者らしく、冗漫でない、きびきびとして深掘りした記述が頁を繰っても繰っても続くので、猫好きであっても根気がいる読書となる。

猫のイラストの入ったランニングウエアで身を包んだ健脚の女性スピードランナーの後ろ姿を懸命に追って走るようなものである。今まで読んだ猫関連の本の中で最も硬派かもしれない。まさに1行1行を凝視し噛みしめて読んでいく。実に濃厚な読書時間となる。翻って軟派の雄、漱石の吾輩は猫であるは、猫みたいにのんべんだらりと寝転がって読めたのだが。

書名に掲げられた、猫は地球を征服したという言葉はどういう意味なのかが頁を繰るなかで分かってくる。世界中で繁殖して広がり、人間の家庭の一員にまで入り込んでいるのは犬と猫だけである。オオカミを祖先としている犬は人に飼いならされて餌をもらわなければ生きていけないが、中東のリビアネコを祖先としている猫は人を「飼いならし」、餌をもらわなくても肉食動物という野性の本領を発揮して生き抜いていくと著者は指摘する。獲物を殺すか、飢えて死ぬかの瀬戸際の生を実行する気構えがある。ライオンやトラと同じ生き様を根底に持つネコ科の動物であることを改めて意識することになる。

タンパク質源となる小動物を片っぱしから捕食して絶滅危惧種もしくは絶滅に追い込むほどだという。オーストラリアでは野良猫は害獣扱いで駆除の対象なのだそうだ。ネズミを駆除するということが猫と人とのつながりを密にしたとの話があるが、著者の記述からは実際は言われているほど駆除の仕事はしていないとか。人が猫を優しく撫でてやると、猫が心地良さの証として喉をごろごろと鳴らすことがあるが、著者によると人飼いならし策の1つとなる。春先などに盛りがついた猫の鳴き声が赤ちゃんの声みたいに聞こえるが、これも猫への親近感をもたらす人飼いならし策だとか。こうなると、足首に体をこすり付けたり、お腹を天井に向けて仰向けで熟睡してみせたり、就寝の際に布団の中に潜り込んでくるのも、飼い主への愛情表現の一環ではない、別の思惑が由来となる。人をたらし込み、猫にぞっこんの気分に落とし込む仕草をするのは、全世界の飼い猫共通の人抱き込み作戦となる。わざわざ狩りをしに屋外に出掛けなくても、3食昼寝付きのきままな生活を満喫するためでもある。

猫が人を飼いならす? あははは、そんなことはないよ。何言ってるの、この著者は。こう笑い飛ばしたいところだが、猫は人を洗脳する術を持っていることを著者は言及している。トキソプラズマという原虫を猫が体内に持っていて、それを人に感染させて……。猫が人を征服しているという衝撃的な結末を知ることになる著作でもある。うちの猫に限ってそんなことはないよ。洗脳された人たちは猫に飼いならされていることに気付かない、目覚めない、知りようもない。猫を被った肉食動物に、愛猫家は騙されているのだろうか。たとえ騙されていても後悔はしない。洗脳が進むと、こんな風に毅然として言い切ってしまうのだろう、ね。

わが愛しの飼い猫ならば、飼いならされてもいい。

騙されてもいい。洗脳されてもいい。

そんな真摯な気持ちにさせてくれるのが猫の魅力にして魔力。

 

コメント

コスモスみっけ 柿みっけ

2020-10-04 | Weblog

読書の秋、食欲の秋、芸術の秋……。

はーい、そんな紋切り型の言葉は吹き飛ばして、まんずは屋外を歩こう。

コロナの時代に秋風情を愉しむには、非観光地、非住宅街、非商店街へ。

それはどこにある? それはここにある! 人里離れた農道沿いに秋はたむろしていた。

やっぱり、この色合いだよ。秋桜だ。

路傍の踊り子たちはわたしだけのために軽やかに舞ってくれる。

あい らぶ ゆう! 口をそろえて声掛けしてくれた。

あい らぶ ゆう つぅ! 1つ1つのお花を見ながら返答する。

2番手はどなたかな?

花より団子ならぬ柿の実たわわな秋景色。

柿色はしみじみと秋の訪れを感じさせる。秋桜と対をなす代表的な秋の色だ。

熟れた渋柿のいくつかは鳥につつかれていた。鳥はどうやって完熟と未熟を見分けるのだろう。

寒風にさらされて滋味を増していく干し柿。あのじんわりとした甘みが脳内を駆け巡る。

3番手の方、どうぞ。

過ぎ去った晩夏の居残り組、朝顔。路傍の草むらにけっこうな数の花を咲かせていた。

種はどこからやって来たのだろうか。人、鳥、風が運んできたのかな。

鮮やかな色彩に感嘆するとともに、ここに咲いている由来に想いを巡らす。

4番手さん、いらっしゃい。

山間部の畑に通じる山道の一角に止まっていた耕運機。

ロボットの顔のようでもあるし、笑っているようにも見える。

大地の相棒はいい顔をしている。まさに地に足を付けた生き方がつくり出した風貌だ。

真打ちとなる5番手さん、どうぞ、ご入場を。

秋景色の王様あるいは王女様はやっぱり、こちら。

頬ずりしたくなるほどに、指で触れたくなるほどに、豊穣という幸せを醸し出している。

黄金の実りの中に詰まった生命力を体に取り込み、こころを愛撫してあげよう。

ほっかほっかの温かいごはん、銀しゃりのお供はなんにしようか。

秋刀魚の塩焼き、太刀魚の刺身、高菜漬け、金目鯛の煮つけ、はたまた栗ごはん。

酒は久保田か魔王か。もちろん冷やで。

思案するだけで卒倒しそうな秋の食卓風景。

 

コメント