おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

マッターホルン アルプスの名峰を巡る 10

2015-09-29 | Weblog
明け方早く目が覚めた。ツェルマットの宿のベッドを抜け出しカーテンを開ける。薄暗いもののマッターホルンがそびえ立っているのが分かる。じっと眺めていると、山腹辺りに光の点が灯り、すぐに消えた。直感的にひらめく。登山者? しばらくすると、また光が一瞬の点となってわたしの瞳に届いた。登山者だ! ヘルメットに付けたライトの灯り。いいぞ、いいぞ。 登っている。登っている。不定期な光の点滅は、山頂を目指す人間の営為の証である。あんなに小粒な光の点が巨大な黒い魔神に挑んでいる。光を発信する登山者にエールを送る。その調子だ。山頂を極めろ!

だんだん夜の闇が溶けて、少しずつ景色に彩りが出てきた。空が艶消しの水色になってきた。マッターホルン(4487m)が三角形の山容を浮かび上がらせている。山肌のあちこちに積雪が見え、剥きだしの岩とまだら模様となっている。東壁と北壁が接する稜線、人の顔で言えば高い鼻筋をわたしに向けている。マッターホルンの定番風景とも言える、最も絵になる角度だ。いわば、決めポーズ。どんな形容をしたらいいのだろうか。惚れ惚れするような、痺れるような、失神しそうな、声のない歓喜が湧き上がるような、呆然としたままでいたいような、このままじっとしていたいような、対面したままで時間が止まったような、これまで味わったことがない昂ぶりみたいな、どんな言葉をもってしても言い表せないくらいな……。

朝陽が頂上の尖った部分に当たりだした。極薄のオレンジ色。東壁の先端から滲み入って少しず下りながら、陽光の帯が広がっていく。なんというパフォーマンスなのだ。太陽そのものは姿が見えないが、マッターホルンの東壁に朝陽が映写されている。太陽とマッターホルンの抱擁、そして歓喜! 朝からなんという官能的な光景が無音で繰り広げられていることか。人間たちの視線や思惑、夢想などにお構いなく、マッターホルンと太陽は公然と絡み合う。清々しく、爽やかで、後味のとても良い官能。

朝食を短時間で済ませ、相棒らと宿を出て、ツェルマット駅前の登山列車乗り場へ歩いて向かう。始発から2番目の列車だから乗客は少ない。出発進行! ツェルマットの町を窓外に見ながら登っていく。進行方向右側にマッターホルンが姿を見せている。標高が高くなるにつれて山容は少しずつ大きくなり、東壁の面が広がり、北壁が視界から少しつず削れていく。車窓の風景にマッターホルンが張りついたようになっている。周りの風景はすべて脇役となり、主役の引き立て役となっている。アルプスのどんな山も、いやいや、世界中のどんな山でも、この主役の代役をすることはできないだろう。絶対的存在としての山、まさに神の山となる。

出発からおよそ30分ほどでマッターホルン東壁を正面に見据えるゴルナーグラート展望台(3135m)近くの駅に着いた。始発のツェルマットとの標高差およそ1500m。展望台そばにはスイスで最も高い所にある山岳ホテル・3100クルムホテルゴルナーグラートがある。1896年開業の老舗ホテルでもあり、天体観測用の半円形ドームを備えている。屋外テラスで珈琲でも呑みながらマッターホルンを眺める人々を撮影した写真でも知られるホテルでもある。朝早くの展望台訪問だったので観光客はまだ少ない。標高が高いので、ゆっくりとした歩みで展望台を目指す。ホテルの屋外テラス席で1組の男女だけがマッターホルンを眺めながら寛いでいる。男女は中年で、男性はボルサリーノの帽子を被り、悠然として珈琲なのかカップを手にしている。こぎれいで品の良さが漂い、物静かに山の眺望を味わっている様子が伝わってくる。宿泊客なのだろうか。風貌と雰囲気から日本人のようだ。なかなか粋な風景だ。

展望台に着き、改めて360度の眺望に視線を注いでいく。モンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)、カストール(4223m)、ブライトホルン(4164m)など、マッターホルンと仲間たちに見入る。これら高峰の中にあって、マッターホルンは抜きん出た美しい山容を見せている。孤高のスタアである。展望台の石垣に腰かけてミネラルウオーターを呑み、マッターホルンと向かい合う。背負っていたリュックを下ろし、中から2つの写真立てを取り出した。今春、連れ添うように天寿を全うした父母の遺影である。母は薔薇園を背景に白い歯を見せて笑っている。父はカメラレンズに向かって微笑している。2つの写真を手に持って、わたしは心中で囁いた。ほら、マッターホルンだよ。きれいな山だろう。後続の登山列車が到着し、たくさんの観光客らが下車し展望台を目指して歩いてくる。喧騒のさざ波が少しずつ押し寄せてくる中、わたしたち3人はマッターホルンに見入っていた。スイスの名峰巡りは慰霊と供養の旅だった。2人の遺影を眺め、声を掛ける。いい、眺めだったろう。わたしは立ちあがって、マッターホルンを眺めながら深々と息を吸い、ゆっくりと、味わうように3人分の息を吐いた。
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ウインパーのザイル アルプスの名峰を巡る 9

2015-09-26 | Weblog
道を歩きながら、或いは宿屋の窓からマッターホルン(4478m)を見上げて眺めることができる町ツェルマット。多くの登山愛好者や観光客らでにぎわう駅から土産物屋などが並ぶメーンストリートを通り、道なりにしばらく歩くとツェルマット教会に行き着く。教会の側にはマッターホルン登攀で亡くなったアルピニストたちらの墓地がある。町を散策していた際、ブロンドの髪で黒っぽい服装の中年女性が墓碑に花を手向けていた。故人の命日なのだろうか。目にした1つの光景からさまざまな想いがよぎる。墓地に隣接してマッターホルン博物館がある。石畳の広場にガラス張りの多面体の構造物が入り口だ。イメージとしては、フランス・ルーブル美術館のガラスの構造物の入り口だろうか。博物館の方は遙かに規模は小さい。この博物館を訪れるのはツェルマット滞在の目的の1つでもあった。

ガラスの入り口を通り、数段の階段を下りて受付と土産物販売を兼ねたフロアーへ。10スイスフランを担当の中年女性に支払う。博物館は地下2階の構造だ。英語、フランス語、ドイツ語に並んで日本語のパンフレットも用意され、日本人も関心を持つような展示品には日本語での説明書きもされている。なぜ、わたしがこの博物館を訪れたのか。もらったパンフレットの中に答えが示されている。

「館内には昔のツェルマットが再現されており、当時の貧しい山村に暮らす人々が神様のご加護の下、どのように自然の脅威と向き合っていったのか、を肌で体験していただけます。村を囲む4千メートル級の山々を制覇していったアルピニストたち、初登頂時に滑落した4人の悲劇がその後のツェルマットの生活を変えて行った様子など、最新の演出技術を駆使して、ツェルマットとマッターホルンの物語をご覧に入れます。また、ここで初登攀の下山途中に切れた本物のザイルを見なければ、本当にツェルマットに来たとは言えません」

初登頂から今年で150年となるマッターホルン。初登頂時の4人の悲劇。初登頂の下山途中に切れた本物のザイル。これら3つの語句をつなぐ人物が、英国人のアルピニスト、エドワード・ウインパーである。25歳だった1865年7月14日、マッターホルン初登攀で有名になり、登攀直後の仲間4人の滑落事故で疑惑の人となった人物だ。マッターホルン登攀で栄光と悲劇を同時に味わった人でもある。博物館のパンフレット風に言えば、初登攀の物語を知らなければ、マッターホルンの真実を見たことにはなりません。パンフレットの記述などを参考にしながら、初登攀を再現してみよう。

18世紀末から19世紀半ばにかけてアルプスの数々の名峰は英国人らによって初登攀されていった。登山家たちの野心と功名心ゆえの記録づくりでもある。地元民から神の山として崇められていたマッターホルンも初登攀の野望を持つ者たちの対象となった。1857年から1865年にかけて、イタリア側から15回、スイス側から3回の登攀が試みられたが、いずれも不成功となっていた。ロンドン出身のウインパーも1865年7月にイタリア人山岳ガイドとマッターホルン初登攀を目指してイタリア側で天候の回復を待っていた。ところが、このガイドがウインパーを置いて、イタリアの登山隊と組んでマッターホルン登攀に出発してしまった。出し抜かれたウインパーはその後、英国出身のスコットランド貴族や牧師と連れの若者らと知り合い、彼らがツェルマット側からマッターホルン初登攀をスイス人やフランス人の山岳ガイドと目指すことを知り合流。イタリア側からイタリア隊が、スイス側から英国・スイス・フランス混成隊が初登攀という栄誉を目指してマッターホルンの頂上へ向かうことになった。

ウインパーらの一行は英国人4人、山岳ガイド3人の総勢7人。1865年7月14日午前3時40分にヘルンリ稜(東壁と北壁がつくる稜線)から登攀を開始した。標高が高くなれば気温も低くなり、酸素も薄くなる。登山経験の浅い英国人の若者が手助けが必要になるほど体力を消耗した。それでも一行は7月14日午後1時40分、マッターホルンの頂上に立った。10時間にわたる登攀である。競争相手のイタリア隊の足跡は見当たらない。ウインパーは遙か下にイタリア隊が頂上を目指して登ってくるのを見つけた。ウインパーは歓声を上げ、石を下に転がして自分たちが初登攀に成功したことを告げた。ウインパーの姿に気付いたイタリア人ガイドは、失望して初登攀を諦め引き返して行った。

好事魔多し! 初登頂という栄誉の後に悲劇が訪れる。登攀に成功した一行は1時間後、二手に分かれて下山していく。ひと組はウインパーとスイス人山岳ガイド父子の3人、もうひと組は貴族や牧師、体力消耗の若者、フランス人山岳ガイドの4人。先行は貴族隊、後続をウインパー隊。それぞれの隊の面々は太いザイルで繋がっていた。途中、体力消耗の若者がいる貴族隊が不安を感じ、安全度を増すためにウインパー隊と予備の細いザイルで繋げて下山を続けることになった。2隊7人が予備ザイルで1本に繋がった。ウインパー隊の山岳ガイド父が安全確保のため岩にザイルを回した途端、先行の貴族隊にいた体力消耗の若者が足を滑らせた。強い衝撃が細いザイルを伝ってウインパー隊の山岳ガイド父を襲った直後、2隊を繋ぐ細いザイルが切れ、貴族隊の4人は北壁を滑落していった。

滑落を免れたウインパー隊3人は衝撃を受けて下山を中止、ヘルンリ稜の途中で一夜を明かす。翌朝、下山したウインパーは捜索隊とともにマッターホルン氷河に登り、ばらばらになった3人の遺体と、行方不明の貴族の手袋や靴の片方、ベルトなどを発見した。貴族の遺体はいまだ見つかっていない。4人の滑落死という悲劇に対し、「ウインパーか山岳ガイドの父が自分の身を守るためにザイルを切ったのではないか」との疑惑が広がった。事故究明の査問委員会が開かれ、犯罪性はないとの結論が出たが、2人はその後、疑惑から来る噂に苦しめられ、ツェルマットを去ることになる。ウインパーの墓はフランスのシャモニーにある。マッターホルン初登頂とその後の悲劇はツェルマットの名前を広げ、その後の観光地としての発展に繋がっていった。

初登頂から150年後、わたしはツェルマットの地に足を踏み入れ、マッターホルン博物館の中にいる。ウインパーはザイルを切ったのか。ツェルマットで訪れた土産物屋の主人は語る。「ウインパーが(切って)初登頂の栄誉を1人占めしたかったのだろう」。博物館には初登攀に悲運をもたらした切れたザイルがガラスケースに入れられて展示してある。貴重な遺物は小指ほどの太さの麻製のザイルだ。2005年にスイスのザイルメーカーのマムートが、このザイルの複製を製造し、引張強度試験を実施した。耐久性は150キロだった。パンフレットは切れたザイルについてこう述べている。「このザイルでは1865年の初登攀者4名の安全を確保するのは不可能であり、滑落は免れなかったのである」

博物館から外へ出る。時間は午後1時になろとしていた。夏の終わりのツェルマットの町に強い日差しが照りつけている。土産物屋には初登攀から150年を祝うTシャツなどが並び、レストランも観光客らでいっぱいだ。町は初登攀の光に満ち、悲運の影はどこにも見当たらない。
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ツェルマットの夜 アルプスの名峰を巡る 8

2015-09-23 | Weblog
美しい山容の山と言えば、東は富士山(3776m)、西はマッターホルン(4478m)だろう。山の姿を見ると、富士山は円錐形、マッターホルンは四角錐で、どちらも絵になる山であり、絵画や写真の題材としても多くの人を引き付けてきた。或る日、マッターホルンの山容の美しさを賛美する知人の言葉を聞いて、改めて山容に見入った。魅力の発見は、惚れ惚れとした想いとなり、その想いが募って逢いたくなってしまった。憧憬、恋心、愛情、敬愛……。想い慕う気持ちを表す言葉を頭に浮かべてみた。1つの言葉で言い表すのは難しい。これら全ての言葉が混ざり合ったような感情だろうか。好きな人に初めて逢いに行くときの気持ち、或いは、好きな人と初めてデートするような気持ちと言った方が真実に近そうだ。青春時代にあるような、こんな初々しい気落ちを引き起こす山が他にあるだろうか。

わたしの好きな相手はスイス南西部の町、ツェルマットに住んでいた。逢うことを心に決めてから2年もの歳月が流れた。ちょっと逢いに行ってくると車で出かけられる場所ではない。スイスの近隣国の人たちは想い立てば、すぐ出かけることができるが、ヨーロッパから遙か遠く離れた日本ではそうはいかない。機会が巡ってくるのを待つしかなかった。定年退職して時間に余裕がある身ではないので、関係各位方面との諸々の調整並びに旅行のためのまとまった時間を創りだす必要があるためだ。そして、ある程度日程が決まってくると、当地での天候が重要になってくる。マッターホルンに逢うことと、その眺望を楽しみながらの山歩きをすることが主目的でもある。わざわざ出かけて、見たい山が悪天候で見えなかったということは山行ではしばしばあることだ。

様々な条件を乗り越えて、わたしはスイス行きの飛行機に福岡空港から搭乗した。マッターホルンに逢えるか、どうかは天候次第だけとなった。こればかりは調整の仕様がない。まさにお天気まかせ、巡り合わせまかせとなる。ここまで来たら深く考えることはよして、飛行機の中で無料の映画放映に見入ることにした。洋画ばかり4本を立て続けに見ていく。他の人は眠っているようだ。気分が昂まっているのか、ちっとも眠くない。映画を1本見終える度に、残りの飛行時間を確認する。乗り継ぎするオランダ・スキポール空港までまだまだだ。じゃ次の映画を見るかとなる。この繰り返しを4回したところで睡魔に襲われて寝入ったようだ。なにやら周囲のざわつきで目が覚めた。後1時間でスキポール空港に到着のようだ。

スキポール空港に着き、飛行機を降りて到着口に向かう途中で空模様を見る。空は曇っていて小雨が降っている。うーむとひと言を心中でつぶやき、深く考えないことにした。乗り換え時間がけっこうあり、スイス・チューリッヒ入りしたのは夜7時20分過ぎ。まだ明るく、空には月が出ていた。雨はない。曇りでもない。まずまずのスイスの天気じゃないか。夜遅くサンモリッツのホテルに入り、翌朝1番に空模様をテレビで確認する。滞在中の天候は全般的にいいようだ。とは言え、山の天気はめまぐるしく変わるということを忘れてはいけない。ここから先は深く考えない主義で行こう。

さあ、逢いたい山に逢う日がやって来た。列車に乗り、バスを使って峠を越え、マッターホルンの麓の町ツェルマットへ向かう。町への車の乗り入れは禁止されているので、近くまで来たら再び列車に乗ることになる。ツェルマット駅に10分少々で到着した。ホテルまでは歩いて10分ほどだ。駅から土産物屋や食事処が並ぶメーンストリートおよそ200mほど一帯が賑やかな場所となっている。未知の町へ来た目新しさから左右に視線が泳ぐ。ふと目を上げると、建物の屋根の合間からマッターホルンが顔を覗かせているではないか。憧れの人の顔を遠くから垣間見たときの想い、それはじわりと込み上げてくる嬉しさだろうか。心にほほ笑みがいくつも湧いてくるのが分かる。立ち止まって見つめる。あのマッターホルンが確かにそこに在る! 

ホテルに向かう道筋のどこからでもマッターホルンが見え続ける。町中の食事処で夕食を済ませて外へ出ると、すっかり夜の帳が下りていた。ホテルへの帰路で再びマッターホルンを見ることになる。マッターホルンの絶好の写真撮影場所として日本人が集まる橋の上に外国人も含めてたくさんの人がカメラを手に集まっていた。黒い影となっていたマッターホルンの山頂付近から下る稜線を示すように青い線が光っている。今年がマッターホルン初登頂から150年を迎えたのを記念しての光のイベントのようだ。初登頂ルートをおそらく青色LEDのライトの帯で浮き上がらせている。

ホテルに戻り、明日の準備をしていた。カーテンを開けるとテラスが白い光で浮き上がっている。月明かり? 見上げると、マッターホルンが満月に照らし出されている。思わずテラスに出ていく。しんとした静かな夜、静かな明かりの満月、静かに鎮座するマッターホルン。わたしの心中は静かではなかった。こんな風景に接して昂ぶらないはずがない。夜中、何度か起きてはカーテンを開けて、そこに在るマッターホルンをしばらく眺めた。マッターホルンの左側にあった満月は山頂の上付近に移動していた。テラスに出て椅子に腰かけ、マッターホルンを眺めながら月光を浴びた。生まれて初めて山に酔いしれた。
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万年雪のモンブラン アルプスの名峰を巡る 7

2015-09-21 | Weblog
スイスから国境を越えてフランスに入り、シャモニーへ向かう。そこにはヨーロッパで最高峰のモンブラン(4807m)が街を見下ろすようにそびえ立っている。モンブランは頂上一帯が万年雪で覆われているため、誰も頂上の素顔を見たことがない山である。雪原が乗っかっているような姿である。アイガーやマッターホルン、グランドジョラスみたいに登攀意欲を掻き立てる険しい北壁があるわけでもない。美しい山容でもない。ヨーロッパ最高峰という栄誉が注目を集め、人々を引き付ける。「1番高い山って、どんな山? 行って見てみよう」。そんな気持ちを誘う山なのだ。

モンブランはフランス語で白い山の意であり、見たまんまの名称である。ヨーロッパで1番高い山を見たいという人は多く、エギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m)へ向かうロープウェイ乗り場は人出がいっぱいだ。ゴンドラも百人が搭乗できる大きさ。途中1回乗り換えがあり、切り立った断崖にあるエギーユ・デュ・ミディ展望台に接近するときは岩肌に迫り、垂直に上がっていくのが名物となり、搭乗客から「おお~」というどよめきのような歓声が上がる。

ヨーロッパで1番高い山モンブランを見るには、展望台もヨーロッパで1番高い場所になったのだろう。エギーユ・デュ・ミディは多分、世界一高い所にある展望台ではないか。わたしとしては、モンブランそのものを見る以上に、よくぞ、こんな場所に展望台を造ったなという思いの方に当初強い印象を受けた。展望台へ着いた。空は快晴である。青空である。各国の観光客も多い。空気は薄い……みたい。ゆっくりと歩くべし。観光客らは間近に迫るモンブランに向かって嬉しそうな表情をし、デジタルカメラやスマホで記念写真撮影にいそしむ。モンブランを背景に自分や友人を入れて、御満悦の表情がデジタルファイルに幾つも記録されていく。

ボンジュール、モンブラン! 万年雪に覆われた頂上は太陽に照らされて純白に輝いている。なだらかな雪原のような頂上は、観る者をほのぼのとした気分にさせてくれる。最高峰の持つ猛々しさや険しさをまったく感じさせない。ほんわか、まろやかな頂上風景は、その雪の白さも相まって貞淑ささえ感じさせる。艶然としたほほ笑みをたたえた優美な貴婦人のようでもある。モンブランに接して眺めていると、最高峰の山でありながら、それを自己主張しないことから来る気品みたいなものを感じてきた。この時初めて、わたしは思った。ああ、なんと美しく、いい山なんだろう。感嘆でもなく、感極まるでもなく、驚きでもなく、気品という目に見えぬ香りのようなものが体にじわりと滲み入ってくる心地よさとも呼ぶべきもの。

モンブランの鷹揚さに比べると、エギーユ・デュ・ミディ展望台は対照的である。猛々しい岩山の上に乗っかり、シャモニーの街を見下し、どうだ、世界一高い展望台だぞという自信と自慢に満ちている。その自己主張の強さは並の山々がへこむほどの強さだし、まるでモンブランの気品に嫉妬し、モンブランの高さを憎悪しているようにさえ感じさせる。展望台には名称と標高3842mの数字を記した看板が打ち付けられている。観光客らは訪問記念の看板の前で写真を撮るのに列をつくっている。モンブランの人気に負けるもんかという競争心や敵愾心さえ漂ってくる。モンブラン観光ができるのも、エギーユ・デュ・ミディ展望台という俺様がいるからなんだと言いたくてしょうがないという顔をしている。

山高きが故に尊からずという言葉があるが、展望台高きが故に尊からずという言葉もあっていい。それにしても、展望する前は取り立てて期待することはなかったのに、眼の前でしばらく佇んでみて分かった。本当にモンブランが気に入った山になってしまった。万年雪があるために誰も頂上の素顔を知らない。真実を秘めた純白のベールを被った山。ああ、いい山だ。マイ、モンブラン。 
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雲隠れユングフラウ アルプスの名峰を巡る 6

2015-09-20 | Weblog
ヨーロッパで1番高い場所にあるユングフラウヨッホ駅(3454m)に到着して下車する。構内から続く歩行用トンネルを歩いて行く。どこへ行くのかと言うと、スフィンクス展望台(3571m)まで上がるエレベーター搭乗口を目指す。他の観光客らも搭乗口前に並んで行列ができている。

ユングフラウヨッホ駅は日本とスイスが国交を樹立して150周年(1864―2014年)を記念してユングフラウヨッホ訪問証明書を2014年に作成し無料で配布している。A4判大の厚紙で、内容はもちろん日本語で印刷されている。ユングフラウヨッホ駅を訪れる日本人が多いことの証でもあり、ユングフラウ鉄道グループCEOのウルス・ケスラー氏の署名入りである。但し、これも印刷ではある。この訪問証明書の中にユングフラウ地方での日本とスイスの主な交流史が列挙されている。引用してみよう。

1910年 実業家の加賀正太郎、ユングフラウ初登攀
1921年 登山家の槙有恒、アイガー東山稜(ミッテルレギ)初登攀
1969年 加藤滝男率いる日本人山岳隊、アイガー北壁直登ルート(ジャパニーズ・ディレティッシマ)初登攀
1972年 長野県安曇村(現・松本市)とグリンデルワルト、姉妹提携
1978年 滋賀県大津市とインターラーケン、姉妹提携
1989年 長野県小海町とヴェンゲン、姉妹提携
1993年 富士山五合目簡易郵便局とユングフラウヨッホ郵便局、姉妹提携
2008年 兵庫県六甲高山植物園とシーニゲプラッテ高山植物園、姉妹提携

1910年と1921年に目が行く。1910(明治43)年に日本人としてユングフラウ初登頂した加賀正太郎は何者なのか。大阪出身の実業家で、マッサンこと竹鶴政孝がかかわった大日本果汁(後のニッカウヰスキー)創業時の筆頭株主だった。京都府にあるアサヒビール大山崎山荘美術館は元は加賀の別荘だった施設だ。日本山岳会の名誉会員。1921(大正10)年のアイガー東山稜初登攀の槙有恒は宮城県出身。日本山岳会の設立者でもあり、1956(昭和31)年のヒマラヤ山脈・マナスル遠征隊の隊長として登攀を成功させた人物である。2人は、明治や大正時代にスイスの名峰を日本人として初めて征服するという快挙を果たした痛快な人物たちだった。

さて、スフィンクス展望台に上がるエレベーターに乗り込む順番が来たようだ。10数秒ほどで到着。エレベーターを降りて進む。展望台の屋内には軽食コーナーや土産物店、レストランなどがある。さあ、外に出てみよ。うん、なんだ? 一面、雲の世界ではないか。風も吹いている。気温も低そうだ。側に見えるはずのユングフラウの姿はない。観光客らも乳白色の世界に右往左往である。山の天気は変わりやすい。晴れることもあれば、曇りの時もあるし、雨も降ったりする。これが山の普段の姿であり日常である。雲が切れて晴れ間が覗きそうな気配はまったくない。登山電車の起点クライネシャイデック駅からはユングフラウの山容を見上げることができたが、スフィンクス展望台に着いた時には天候が一変していた訳だ。

さあ、雲隠れしたユングフラウを前にしてどうするか。このスフィンクス展望台、こういう事態を想定してのことではないだろうが、展望台からエレベーターで下った所にある山体内の空間に観光客向けの施設が作ってある。氷の宮殿と呼ばれる氷像などがある氷のトンネルや、ユングフラウ登攀の歴史などを映像で見せるギャラリーや鉄道建設時代の古写真などが展示してある。氷の宮殿は天井も床も壁もすべて氷でできた空間である。滑らないように歩かなければならず、なんとも特異な山歩き経験となる。まあ、氷の割れ目となるクレバスはないから、安全ではある。と思って油断して滑り、後頭部を一撃し意識不明に陥るということも無きにしもあらずだ。用心、用心。氷に用心。

雲に覆われて見えないユングフラウを後にしてクライネシャイデック駅へ戻る。雲は駅周辺まで降りてきて風景を消していく。相棒のモンブラン氏と駅舎内の喫茶店に入る。珈琲を呑みながら窓ガラスから雲に覆われたアイガー、メンヒ、ユングフラウの3峰の姿を想像する。天気はさらに崩れて雨が降り出した。小雨から普通の雨となり、さらに土砂降りとなった。屋外のテラス席の食卓の上に雨粒が叩きつけられて飛び散っている。「山らしい天候になったね」とわたし。「山らしいね」とモンブラン氏。「なかなかいい風情じゃないですか」とわたし。「いい風情だね」とモンブラン氏。下山の列車が来るまでの間、珈琲1杯で1時間以上を喫茶店で過ごす。店主のスイス人も何も言わない。だって土砂降りだから他に行くとこないもんね。われわれの思いを店主も十二分に分かってくれているようだ。ユングフラウは若い娘、乙女という意味である。「乙女心と山の空ですなあ」とわたし。「そうですなあ」とモンブラン氏。2人は窓の外を眺める。雲は晴れそうにない。雨は降り続く。スイスでの雨宿りをのんびり愉しむことにした。まったりとした、いい時間じゃないか。
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アイガーの窓 アルプスの名峰を巡る 5

2015-09-19 | Weblog
アイガー(3970m)、メンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)の3名峰が連なっているユングフラウ地方はスイスのほぼ中央に位置している。3名峰のはるか下の平地に広がっている町がインターラーケン。2つの湖の間という意味の町名通り、ブリエンツ湖とトゥーン湖に挟まれた地域にある。晴れていれば町中から針葉樹林の山々の間からメンヒの山容を眺めることができる。3名峰のうちアイガーが最も低いが―と言っても富士山(3776m)より高い―、登攀者や観光客らの注目度ではマッターホルン(4478m)やモンブラン(4807m)と並ぶヨーロッパの人気名峰の御三家ではなかろうか。

マッターホルンや富士山のような姿が美しい山かと言えば違う。標高だって4千mを切っている。ごつごつした岩山である。しかし、ただの岩山ではない。高さ1800mの北壁、その垂直にそびえ立つ猛々しい雄姿が山の愛好家らを引き付けてきた。相当の登攀技術を持った者でさえ攻略するのは極めて難しい。北壁に挑んだある者は凍死し、またある者は墜落死するなど幾つもの悲劇を生みだした山だ。登攀の難易度が高いが故に挑戦者を奮い立たせてきた山でもある。下から真っすぐ登っていく直登や、難易度に超が付く厳冬期登攀、最短時間での登攀(2008年に2時間47分という記録が達成された)など、登攀者の「我こそは世界一」との自尊心と自負を満たし、栄誉をもたらす新記録づくりの舞台ともなっている。

「あいがアイガーね」「そうたい、そうたい」「あいが、あいが」。アイガーの麓を走る登山鉄道列車の中で観光客らの会話が聞こえてくる。九州弁から日本人だとすぐ分かる。アジアからでは韓国や台湾からの観光客も多いのだ。九州人として標準語に直してみよう。「あれがアイガーでございますか」「そうでございます、そうでございます」「(感極まって)あれでござりまするなあ、あれでござりまするなあ」。通路を挟んで座っていた台湾からの一行の中の中年女性から英語で話し掛けられた。「どこから来たのですの」「日本の九州からですたい」「日本には1度行ったことがありますわ」「それじゃ、富士山は知っとるね」「富士山? 存じませんねえ」。富士山は知らないがアイガーを見に来たということに首をかしげたが、話は続く。「娘がしょっちゅう日本に行っているんですの。買い物大好きの娘でねえ、洋服とか靴とか買って大変なのですございますの」「いやあ、女の子は買い物が好きやもんねえ」。車窓からアイガーの風景が流れる中、アイガーとはまったく関係のない話が進む……。

列車がクライネシャイデック駅に着いた。標高2061m。ここからユングフラウ鉄道に乗り換えて、ヨーロッパで一番高い所にある終点ユングフラウヨッホ駅に向かう。こちらは標高3454m。この路線は全長9・3キロ。4分の3がトンネルである。そのトンネルはアイガーとメンヒの中をくり抜いて出来ている。ユングフラウヨッホ駅はユングフラウの鞍部となる山中、まさに山体の中にある。山登りと言うと、普通は山の外側を上っていくが、ここでは山の内側部分のトンネルを通じて上がっていく。

ユングフラウ駅に着くまでに2カ所の駅で5分間ほど停車する。下ってくる列車との離合のため? まさか! 単線なのだ、この路線は。停車理由は観光客のためだ。展望のための洞窟のような空間が作ってあり、そこからの眺めを楽しんでもらおうという趣旨だ。最初の停車駅はアイガーヴァント駅。アイガーの壁という駅名だ。標高2865m。アイガー北壁をくり抜いて設けられた大きなガラス窓があり、20-30人が横に並んで眺望を楽しむことができる。この窓、北壁の遭難者の探索や救助のための出発拠点にもなるのだそうだ。眼下には登山鉄道の出発地クライネシャイデック駅や一帯の草地の風景が広がっている。2番目の停車駅はアイスメーア駅。氷の海という意味で標高3159m。ここにもガラス窓があり、アイガーの南側方面を眺望できる。

アイガーの山中をくり抜いてトンネルを通し、鉄道を敷設するというスイス人たちの並々ならぬ意志の凄さを感じないだろうか。観光客を呼び込むために岩山さえ穿ってしまったスイス人。工事が始まったのが1895(明治28)年。16年の歳月を掛けて岩山をくり抜き鉄道を走らせた。精密なスイス時計、機能的なスイスの工具(スイスツール)、富裕層が預金をするスイス銀行、国際決済通貨のスイスフラン、国連欧州本部や世界貿易機関、ジュネーブ軍縮会議などの国際的機関が集まるスイス、賢人会議としてのダボス会議が開催されるスイス、EU非加盟のスイス、永世中立国のスイス。国土は九州ほどで、人口およそ8百万人ほどのスイス。理念の実践と確かな先見性、秀でた実務能力が、アイガー北壁に開けられた窓から見えてくる。
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ピッツべルニナ アルプスの名峰を巡る 4

2015-09-16 | Weblog
スイス入りした後、最初の宿泊地はサンモリッツ郊外のシルバ・プラナという山麓の小さな町である。ピッツベルニナ(標高4049m)などベルニナ連峰がそびえ立つ地域だ。滞在したホテルは、ベルニナ連峰を見渡すコルバッチ展望台(3303m)へ向かうロープウェイの乗り場の前にある。朝1番に搭乗することができるという地の利の良さがある。夜中の零時前に宿入りしたので周辺の景色もまったく分からないままだった。とりあえず、明日に備えて眠るだけだ。日本からの長旅の疲れもあったのか、寝床に背中を着けた途端、吸い込まれるように昏睡した。

スイスの名峰巡りは、実は名峰を見渡す展望台巡りでもある。名峰と同じくらいに展望台も有名なのだ。べルニナ連峰以外で名峰と展望台の取り合わせを列挙してみよう。

マッターホルン(4478m)にはゴルナーグラート展望台(3135m)。ここからはモンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)を睥睨ではなく、見上げなくてはならない。このほか、マッターホルンを見るにはクラインマッターホルン展望台(3818m)やロートホルン展望台(3103m)もある。


アイガー(3970m)、メンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)のユングフラウ地方の3名峰にはスフィンクス展望台(3571m)。シルトホルン展望台(2960m)からも3名峰を眺望できる。


ヨーロッパ最高峰のモンブラン(4807m)やグランドジョラス(4208m)はエギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m)。富士山(3776m)よりも高い展望台である。

展望台が3千mを超えるということは酸素が少ないということである。酸素を使うような動きをすると低酸素症で気分が悪くなるのである。だから、ゆっくりと歩く。決して走ったりしてはいけないという注意をガイドから受ける。名峰が眼の前に広がっていることに感極まって雄叫びを上げて走り回ったり、はしゃいで何度も跳び上がったり、泣きじゃくってスキップしたり、あるいはウサギ跳びで歓びを表したりすると、気分が悪くなって即下山、ホテルで寝込む羽目になる。かと言って、ロボットダンスのようにぎこちなく歩くこともない。新郎新婦入場のように笑みを浮かべて悠然と歩いて名峰に対峙し、「ほお~」という感嘆の声を口をすぼめ気味にして上げ、平然とした顔をしてデジタルカメラで孤高の雄姿を撮ればいい。どっしりとした名峰に対して、何事にも動じないような意志の力に満ちた態度を取るだけである。

さて、ピッツべルニナを望むコルバッチ展望台は高地慣れするための第1歩でもあった。ゆっくり歩いたものの最初は少しばかり頭がくらりとした。昨夜の疲れが残っていたり、昏睡したつもりの睡眠が浅かったのかもしれないが、なにせ3303mの高台だ。少しはくらっとしなくては。展望台からは、氷河を腰に巻いたようなピッツベルニナが遠くに見える。前にも指摘したが、名峰の側には氷河が付きものなのだ。ピッツベルニナの裏側に流れ落ちている氷河がモルテラッチ氷河となる。ただし展望台からは見えない。宿泊したホテルがあるシルバ・プラナの町と湖畔をはるか眼下に見ることができる。氷河が削ってできた山々と峡谷が視界に広がる。氷河が風景を彫刻した。そんな思いに浸ることができる展望台である。

余談だが、宿泊したホテルの部屋にはドイツ語のニーチェの著作「ツァラトゥストラはかく語りき」が机の上に置かれていた。栞にはニーチェの横顔の肖像写真が刷られていた。ホテルによく備えてある聖書ではなくニーチェの本? スイスとニーチェはどんな関係? ホテルオーナーの趣味? その時は深く考えることもなかった。思いもしない本との出会いが頭の中のどこかに引っ掛かっていたのだろう。帰国後にニーチェの人生を調べてみた。シルバ・プラナと隣接のシルス・マリアにニーチェが滞在し「ツァラトゥストラ」を書き上げた家が観光施設ニーチェハウスになっており、シルバ・プラナ湖畔はニーチェが晩年を過ごした地域だった。つくづく思う。人生と旅は奇縁との出会いである。だから、旅はいつも面白い。もちろん人生もまた。  
 
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モルテラッチ氷河 アルプスの名峰を巡る 3

2015-09-13 | Weblog
アルプス山脈はスイス南部を東西に走っている。山脈一帯はごつごつとした山岳と深い峡谷が織りなす風景をつくっている。これらは山頂付近から流れ進む氷河が長い時間をかけて削り上げた景観でもある。山肌は押し崩されて岩が露出し、山麓に谷を生み出してきた。スイスの山岳風景は氷河の賜物と言っていい。名峰を眺めるということは近くにある氷河を必ず観ることでもある。

さあ、氷河の先端を見に行きましょう。案内人はサンモリッツ在住の山岳ガイドの日本人女性だ。小柄な中年の方で長年山歩きのガイドをし経験豊富という雰囲気を醸し出している。われわれ一行の行き先はモルテラッチ氷河。ベルニナ線サンモリッツ駅から30分ほどで到着するモルテラッチ駅へ。ここから緩やかな登り坂の一本道をゆっくり歩いて1時間弱で氷河の先端というか、末端に行き着く。この一本道は実はかつて氷河があった所だ。気候温暖化のため、氷河がこの百年間でおよそ2キロ以上が溶けて後退して道となった。130年前には下車したモルテラッチ駅付近まで氷河が押し寄せていたという。

氷河が溶けた後には植物が生えて沿道にはカラマツなどの森ができている。ガイド嬢によると、道路沿いに転がっている無数の岩々は氷河が運んできたものだそうである。道路沿いにモルテラッチ川が勢いよく流れている。色はモスグリーン。水源が湧水であれば透明な水の色になるらしいが、氷河が溶けた水はいろんな鉱物を含んでいるためモスグリーンになるという。湖の水の色合いがモスグリーンなのも、氷河から流れてきた水のためだ。川の水の美しさは上高地の梓川を想い起こす。水底の石が透けて見えて清涼感いっぱいの川だ。川の水がモスグリーンというのは日本では普段観ることはないし、ちょっと喉が渇いたからひと口呑むかという心境にはならない色合いである。

ガイド嬢を先頭にモルテラッチ氷河の先端を目指して歩く。両側は氷河が削り取った後の岩山がそびえる。谷間の一本道をえっちら歩いていく。タンクトップに短パンの白人男性が後ろから走ってきて、われわれを追い抜いていった。トレイルランニングの愛好家だろうか。長身で足が長く、登り坂を颯爽と走り去り、みるみる姿が小さくなった。元気もんはどこにもいるものだ。道沿いのベンチに腰かけていた白人男性2人が氷河を見て来た帰りなのか呑み物を手にして寛いでいた。「ウエルカム、トゥー、グレイシャー」と笑顔でエールを送ってくれた。

目の先に広がる山岳風景の中に氷河の本体が観えた。美しく感動的な風景ではない。氷河は薄汚れたような姿をしている。表面部分が溶けて下層部分の泥などが出てきているためだ。茶色く汚れたような個所もある。ガイド嬢が説明する。「サハラ砂漠から飛んできた砂です。日本の黄砂みたいに飛んでくるんですよ」。アルプス山脈とサハラ砂漠は地中海を挟んで向かい合う距離にあることを改めて思い知る。氷河の先端部を見渡す場所に着いた。ここまでやって来たという感慨が、この歩きの成果となる。

気候温暖化による氷河の後退は年々進んでいる。氷河が溶けて、流れの途中に氷河湖という湖をつくり、これが決壊して下流の人が住む地域などに水害を及ぼすのではないかとの懸念も発生しているという。後数十年で氷河が消えてしまうのではという心配の声もある。イタリア在住の登山ガイドの日本人女性と話した時も、氷河の消失を懸念し、スイスの観光にかなり影響するのではないかと指摘していた。わたしは「山がある限り、スイスの観光の魅力は十分にありますよ」と答えたものの、自然災害の予兆という意味では氷河の後退には考えさせられるものがある。
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フォンデュ アルプスの名峰を巡る 2

2015-09-10 | Weblog
食前酒の話が出れば、次は食事の話題となるのが自然な流れである。地産地消の実践、これぞ本場スイス料理との遭遇となる。スイスならではの料理の特徴は何か。それはチーズが主役と言っていい。日本人にとってチーズは酒のつまみに象徴されるように脇役である。スイス料理ではチーズはほぼ主食の扱いとなる。さあ、スイス料理の神髄を味わってみよう。

まずはチーズフォンデュだ。フォンデュは溶けたという意味のフランス語で、フォンデュと言えば通常はチーズフォンデュのことを指すらしい。鍋にチーズと白ワインを入れて火に掛けて温めて溶かし、そこに細長い串に刺したひと口大のパンを入れ込んでチーズを絡めて食べる鍋料理である。食卓の中央に置かれたフォンデュ鍋を囲み、白ワインを飲みながら、おしゃべりをしながら、串にパンを刺してはチーズを絡めて口中へ運ぶ。この繰り返しで時間を過ごしていく。つくる方も簡単だし、食べる方も気軽だ。まったくもって凝ってない料理である。味に凝り、彩りに凝り、器に凝る和食とは大違いである。

パンに絡めて何度も食べるので溶けたチーズの量は減っていく。さらに火に掛けているので鍋の中のチーズは煮詰まってくる。時間の経過とともに元元塩味が効いたチーズの味わいが濃いものになってくる。この塩味の濃さが白ワインの杯を重ねることにつながってくるようだ。ひと口大のパンとはいえ、濃厚チーズが絡まったのを何度を口にし、白ワインの量が増えてくると、胃袋にどっかりとたまってきているのを自覚できるようになる。フォンデュそのものにも白ワインが入れ込んであるので、体は白ワインと濃厚チーズ漬けとなる。これもまた本場ならではの、日本にはない味わいである。

フォンデュの次に食したのがラクレットなる料理。温めて溶かしたチーズをどろりと皿の上に広げた上に、茹でた小ぶりのジャガイモやピクルスがちょこんと乗っている。ピザの生地がどろどろチーズと思っていただければいい。これをナイフで切り、フォークですくって食べるのだが、悠長におしゃべりしていると、熱が冷めてチーズが固まってゴムのような歯ごたえとなってくる。こってり、こってりの味わいで、顔つきも内側から濃厚な味わいになってきそうだ。わたしを含め大食漢3人でスイス料理の本命を味わおうと、ラクレットとチーズフォンデュを食卓に運んできてもらった。たいらげた感想は、当面の間、いや数年間はフォンデュはもういいなである。

本場ということでチーズ主体の料理に挑んだが、おいしさという点ではオイルフォンデュが気に入った。熱したオリーブオイルの入った鍋に、一口大の角切り牛肉を串に刺して、さらりと揚げて、数種類あるタレにつけて食べる。揚げ方は好みで、レアよし、ミディアムよし、ウエルダンよしとなる。赤身の牛肉の味わいを活かすとなると、限りなくさらりと揚げ、レア気味を食するのをお薦めする。チーズは塩味の濃厚さが気になるが、牛肉の味わいは日本もスイスも同じで、やはり肉のうまみは変わらない。これは串揚げ感覚でどこまでもいけそうだ。胃袋にどんどんたまっていくのが心地よい。白ワインに赤身の牛肉、それにオリーブオイル。なんとも健康的な組み合わせじゃないか。ただし量が過ぎるとどうなるかは、ご察しの通り。

チーズフォンデュ、オイルフォンデュ、ラクレット、それに赤白のスイスワイン。一通りスイス料理の定番を召せば、胃袋はご満悦だ。これに生演奏でヨーデルとホルンが付けば、名峰を訪ねて曇天で何も見れなかったとしても後悔することはないだろう。てなことはないか。チーズフォンデュとラクレットの食べっぷりを注目されたのか、スイス料理店のホルン演奏者から手招きされ、吹いてみないかと誘われた。はい、やります! 結果はホルンのホの字も出なかった。同じ口を使うのだが、呑んだり食べたりみたいにはいかない。うーん、ホラなら吹けるのになあ。 
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スイスワイン アルプスの名峰を巡る 1

2015-09-07 | Weblog
山登りではなく、山歩き。頂きを目指すのではなく、山容を悠然と眺める。これが今のわたしの山の愛し方にして接し方である。山容が美しい山は世界に2つある。もちろん私見である。東はわが富士山、西はスイスとイタリア国境にそびえるマッターホルン。風格、品格、登山をしても、しなくても、人を引き付ける魅力を持ち併せている。この2つを上回る美しさを持つ山は多分ない。よって、これらを肉眼で見ずしてこの世を去ってはいけない。映像や写真ではとらえきれない、その実存の大きさと美と感銘は、一生ものの記憶の宝となるだろう。そして、わたしはアルプスの名峰を眺める旅に出た。なにゆえに? そこにマッターホルンがあるからだ。

ヒマラヤの名峰たちはエベレストをはじめ標高8千メートル級で、いわばヘビー級の大男たちである。翻ってアルプスの名峰たちは標高4千メートル前後のミドル級である。モンブラン、マッターホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウなどは欧州の紳士淑女の雰囲気を漂わせている。アイガーはちょっと強面ではあるが。

旅の愉しみの1つは当地の食べ物に触れることである。地産地消がなにより。呑み物に関してはスイスワインにこだわることにした。昼食、夕食の食前酒はスイスメイドと決め、必ずウエイトレスに確認してから注文した。ある時はグラスワイン、またある時はハーフボトル、はたまたフルボトルと体調と気分で日替わりでの呑み比べ。冷えた白ワインと、常温の赤ワインのグラスワインをそれぞれ1杯ずつ頼んで呑み比べたが、夏場ということもあって白ワインに軍配が上がった。冷えているだけでおいしいのだ。

日本でスイスワインを見ることはまずないのではないか。酒店で見たこともないし、レストランのワインリストにも掲載されていない。なぜなのか。理由は簡単である。スイス国内で生産される量のほとんどが自国で消費されるからである。当然、日本へ輸出するほどの量がないのである。フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、アメリカ・カリフォルニア、オーストラリア、チリなどのワイン産地の中ですっかり埋没した存在となっている。スイスワインでも呑んでみるかという発想は、日本にいる限りは湧いてこない。

スイスに向かう機上でパーサーが食事に際して所望する呑み物について尋ねた。どんな呑み物をそろえているのかを尋ね返す。一通り列挙される。赤ワインを所望する。透明のプラスチックコップをかぶせた赤ワインのミニボトルを手渡された。キャップ式の蓋をひねってコップに注ぐ。ほぼ1杯分の量だ。ひと口含んで味わいを確かめて呑み干す。まあ、いけるかなという味。表と裏のラベルを見る。小さな文字が行列をつくって並んでいる。読めない。眼鏡をバッグから取り出すのも面倒だ。これがスイスワインなのかな? 疑問を後に残さないという訳でパーサーに尋ねる。どこの赤ワインなの? 南アフリカのワインです。乗ってる飛行機がスイス航空ではなく、KLMオランダ航空だから、スイスワインに義理立てする必要もないってことか。スイスワインを呑みつつスイス入りを果たすという魂胆だったが、初っ端から滑ってしまった。

オランダ・スキポール空港を経てスイス・チューリッヒ空港着。ここからバスで3時間かけてスイス南東部でイタリア国境に近い保養地サンモリッツへ。名峰の話は後回しにし、スイスワインの話を続ける。中心部となる高台のドルフ地区をツアーで相棒となった男性と散策する。男性は3年前にスイス名峰巡りをしたものの天候に恵まれず、再度名峰巡りに挑んだ人物だった。スイスの街や山々、交通機関、見どころなど添乗員並みに詳しかった。コードネームをミスター・モンブランと名付ける。

教会やレストラン、ホテルなどが立ち並ぶ街中の石畳道を歩くうちに昼時となった。モンブラン氏の発案で、値が張るレストランではなく、地元民らが日常の買い物をするスーパーCOOPを訪れる。千円ほどの赤ワインと3百円ほどの生食用マスカットなどを仕入れる。広場の一角にベンチが置いてある。建物の日陰となっていて絶好の昼食場所だ。対面にレストラン。陽が当たったテラスのパラソル席で客らがワインなどを呑んで寛いでいる。われわれも寛ごう。ボトルの赤ワインを呑み、パンをかじった。通行する地元の人や観光客らがわれわれをちらりと眺める。うまそうだな~。そんな気分が伝わってくる。そう、屋外の日陰でワインとパン、うまいんだな~。教会の鐘が街中に鳴り響く。そよ風が頬を撫でていく。腹ごしらえをしモンブラン氏とわたしは高台を下り、サンモリッツ湖へ。湖沿いの草地に木陰を見つけて2人とも仰向けに寝転んだ。スイスのワイン、スイスの風、スイスの太陽。いい眠りに誘われてしまった。











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ミッショントランク

2015-09-03 | Weblog
トランクの施錠を解き、2枚貝をゆっくりと左右に開くように押し広げた。畳の上に荷物を納めた長方形の貝2個が中身を見せて横たわっている。ビニール袋やタオルに包まれた物を1つずつ取り出して開き、傍らに置いていく。

赤ワイン1本

箱入りチョコレート7箱

箱入りクッキー7箱

デジタル時計とねじ巻き時計それぞれ1個

使用済みの上下の下着それぞれ8枚

未使用の上下の下着それぞれ2枚

使用済みの靴下8枚

未使用の靴下2枚

ドイツ語や英語のパンフレット多数

持参したが食べずに持ち帰ることになった都酢昆布とノンフライナッツ1袋

汗が染みた青色のワークシャツ7枚

オリーブオイルやパンくず、とろけるチーズなど食事ごとにこぼれ落ちてシミができたチノパン1本

未使用と1回だけ使用したハーフパンツそれぞれ1枚

降雨のため1日だけ差した折り畳み雨傘

飛行機の中でもらった黒色のアイマスク

ミドルカットのトレッキングシューズ1足

市街地にも山歩きにも使える牛皮製の靴1足

オレンジ色と紺色のTシャツそれぞれ1枚

手土産としての赤色、薄茶色、紺色のキャップそれぞれ1個 いずれもフリーサイズ

手土産としての図柄入りのTシャツ4枚 Lサイズ3枚とMサイズ1枚

デイパック2個

ショルダーバッグ1個

ウエットティッシュとそうでないティッシュ多数

ハンカチ4枚

室内用スリッパ1足

ゴアテックスの防寒着2枚

文字を見るための眼鏡、いわゆるリーディンググラス1個

サングラス2個

歯磨きチューブ1本

歯ブラシ1本

トイレットペーパー、カットバン、包帯

メモ帳1個とボールペン3本 うち黒インク2本、赤インク1本

濡らして首に巻くと涼しいという布切れ1枚 ただし使用する機会なし

手の平に収まるミネラルウオーターミニボトル1本

なんだ、かんだと諸々が詰まっていた

帰りの飛行便の搭乗手続きの際、トランクが重量超過を指摘された

超過分を現金かカードで支払うか、超過分をトランクから出して手荷物にするかを白人の女性スタッフから迫られた

思慮すること5秒、搭乗手続きをするため行列をつくっている人たちの前でトランクを開けることを決意する

トランク解錠専門人みたいな顔つきと流れるような作業を披露することになった

2つに開かれたトランクに皆の視線が集中する

そこはそれ、すべては個別に包装しているため、胴体に収まった臓器にように見えたはずだ

ミッションを実行する者は美しい整理整頓を常とする

デイパック1個を引き出す

再びトランクを施錠して計量台に乗せる

重量超過なしの数字がデジタル表示された

白人の女性スタッフがにこりと笑顔を見せた

左手の親指と中指を使ってパチンと鳴らし、親指を立てた

あまりの手際の良さに周りの人たちは拍子抜けの様子だ

醜態をさらさない ミッションはすべからくこうでなくちゃ、ねえ、トム君  







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