おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

そして大統領はHIROSHIMAに立った

2016-05-27 | Weblog
27日夕方の車中、ラジオを付けるとオバマ米大統領の演説の声が流れてきた。ハンドルを握りながら耳を傾ける。英語の後に同時通訳の女性が日本語で言葉を追いかけていく。ライブだった。HIROSHIMAの地に原爆投下国の大統領が立って、戦争の悲惨を改めて世界に訴えている。とうとう、こんな日がやって来たことに感慨を深くした。

1945年8月6日午前8時15分・広島、8月9日午前11時2分・長崎、それぞれの街の上空で原爆が炸裂した。巨大なきのこ雲が立ち上がり、爆風で建物と多くの市民が吹き飛ばされ、熱線で一帯を焼き尽くした。日本の真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、広島・長崎の惨禍をもたらし、米国による占領に至る。原爆投下は日本の敗戦を決定づけると同時に、悲惨な代償を抱えて戦後の始まり―民主主義と日米同盟の時代の幕開け―を告げた。

戦争終結を早め、多くの米兵の命を救ったとして原爆投下が正当化され、それを容認してきた米世論の中で、これまで米大統領が被爆地に足を踏み入れることはなかった。戦後71年の2016年5月27日夕、オバマ大統領は広島の地に歴史的な第1歩、勇気ある足跡を記した。

オバマ大統領の思いは、就任直後のプラハでの核なき世界を訴えた大々的な演説とは違って、被爆地・広島に立っての「所感」という控えめな言い方となった。くっきりと明瞭に意思を語る大統領の言葉に対し、同時通訳の日本語は英語との語法、語順の違いから、流暢さを欠き、ときにたどたどしく、聴きながら感銘を受けるというものではなかった。およそ17分間という所感の長さが、広島への思いの深さを感じさせた。

大統領の所感の言葉が終わった後、ラジオから聞こえる拍手がまばらなのが気になった。大統領の前には多くの人たちがいるものと思っていたので、放送のマイクが一部の拍手しか拾っていないのかとも思った。まばらな拍手の理由は帰宅後にテレビでのニュース番組の映像を観ることで分かった。大統領の演台の前には学校のひとクラスほどの招待客しかいなかった。あの広い平和記念公園で大統領の所感を直に聴いているのは、わずか1学級ほどの人たちだ! 

大統領の広島訪問をロイター通信がネットで速報していた。

[広島 27日 ロイター] - オバマ米大統領は27日、現職大統領として初めて広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した。献花後のスピーチで大統領は「亡くなった方々を悼むために訪れた。あの悲惨な戦争のなかで殺された罪なき人々を追悼する」と述べた。

その上で「歴史の観点で直視する責任を共有する。このような苦しみを繰り返さないために何をすべきか問う必要がある」とし、核保有国は核なき世界を追求する勇気をもつ必要があると語った。

大統領はその後、被爆者と握手し対話、原爆ドームを見学した後、平和記念公園を離れた。

速報ゆえに事実を簡潔に記してある。それゆえに読み手に深い感銘をもたらすものはない。配信されたカラー写真は原爆ドームを背景に所感を述べる大統領の姿だ。まさに広島に立ったというのが一目瞭然にして、歴史的な訪問であることを自ずから物語る。

広島への第1歩を記したということに深い意味合いがある。その感銘は新聞の朝刊やテレビによる所感の詳報や解説などで広がっていくだろう。個人的には月面に人類が第1歩を踏み出したときと同じほどの画期的で重大な出来事だと感じる。そんな歴史を見聞できた巡り合わせにわたしは「静かな昂ぶり」を感じ、原爆で未来を失った人々に思いを馳せる1日となった。
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予告篇としての大人の遠足

2016-05-23 | Weblog
導師は尋ねられた。

足はなんのためにある?

弟子たちは次次に答えの声を上げる。

トイレに立つため!

大地を踏みしめるため!

しゃがむため!

座禅で要るから!

4の字固めを掛けるため!

胴体を支えるため!

手と違った形の指を生やすため!

修行中の弟子たちは修行中ゆえに深く考えることもなく修行中ならではの即答をしていく。

一通りの回答に馬耳東風然としていた導師が口を開いた。

歩くためだ。

この地よりかの地へ動き移れ。

想念に浮かぶ所へ向かえ。

弟子たちは導師とともにあった夢想庵を出て、東西南北、想うままの方角へ歩き始めた。

徒歩で進む者あり。

自転車に跨る者あり。

自動車を借用する者あり。

駅で列車に乗り込む者あり。

港に停泊した船の切符を求める者あり。

飛行場に姿を現す者あり。

憑かれたように弟子たちは移動のための歩を進め、覚醒したように自らの目的地を目指していく。

OUTDOORの扉を開いて、あちらの世界へ出て行く弟子たち。

1人旅、2人旅、3人旅となって各地に散っていく。

2本の足はいつもとは違った24時間に踏み入っていく。

見知らぬ風景と見知らぬ人とすれ違い、初めての風景と初めての人と出逢う。

昨日と同じ生活から足は抜け出して行く。

未知の場所、人、時間との遭遇は、それらを求める人に訪れる。

必然や偶然という形を装って、あらたな経験と感嘆の機会が生まれる。

お札になにか書いてある。「旅立ちは昔も今も日本橋」


渡るべきか、渡らざるべきか。もちろん悩まない。渡るべし。


いやあ、愉しそうじゃないか。歩けば遭遇する未知の世界。


見上げれば鯉の一団が気持ちいい感じで泳いでいる。


決めた。地上を離れよう。空の人となってかの地へ。足即是空。足は空の上で寛いでいる。窓外には青空が伸び伸びと横たわっている。雲も陽に照らされてまったり。



 




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太郎の神話 或いは太陽の塔とブランチを

2016-05-20 | Weblog
太郎の名声の大きさに比べて、太郎邸は慎ましいほどに小さい。絵画やオブジェなどの作品を展示した記念館は、居間や寝室、アトリエがあった旧居部分と、倉庫などがあった場所を作品の展示室や喫茶店に改築した部分で出来ている。旧居の敷地と同じほどの広さの庭には、緑の草木が太郎のオブジェたちと交歓するように茂っている。ミバショウ、カミヤツデ、シュロ、セイヨウキヅタ、クサソテツ、アカンサス、カヤ、ドラセナ、シダといった風に、創作の場は緑に包まれた館でもあった。


住宅街の通りに面して緑が溢れ出る太郎邸。植物の持つ生命力がみなぎっている。



太郎のオブジェたちも樹木の生命力に負けないほどの存在力がある。



裏手にあるゲートも太郎の手にかかればアートとなる。



ここまでオブジェがいっぱいだと庭は屋外アトリエとなる。名付けてアートジャングル。



観る者に対し、逆に観入ってくる太郎のオブジェたち。その目は語り掛ける。観て帰るな。感じて帰れ。



絵画にしろ、オブジェにしろ、著作にしろ、太郎の作品は強烈な自己主張のエネルギーを放射し続けている。心地よさとか、寛げるといった穏やかなものではなく、気分を昂揚したものに駆り立て、引っかき回し、波立たせるものがある。それは観る者の奥深くに眠っているか、或いは潜んでいる原始的なエネルギーを共振させてくる。いやったらしいほど逞しい力の躍動、非情なアシンメトリー、破調、肉を食らう歓喜、呪術……。太郎は1951年、上野の東京国立博物館で偶然出会った縄文土器の世界、獲物を追い求めていた狩猟民族としての日本人の感性、感覚に、自らの表現の原点を見出した。

太郎は縄文人となって作品に挑み、日々をいのちの尊厳と官能の中で過ごしたに違いない。全裸で食事をし、アトリエで絵筆を握り、互いの裸体に絵の具を塗りたくって戯れる世界が見えてくる。そうして破調と興奮と歓喜が太郎の作品となって溢れ出てくる。観る者を大なり小なりに言い知れぬ興奮に誘い込む。それは肉を食らう快感に通じるものがある。いのちがいのちを食むことから生まれる昂揚。わたしたちは縄文人のように動物だった! これからも多分そうだろう。太郎は神話を創った。肉に食らいつくときの表情と悦楽。いのちの交歓こそ、いのちの尊厳となる。そして表現は、アートは、美は、美しくあってはいけない。


太郎邸の一角で珈琲とパンケーキのブランチ。誰かが打ち鳴らすオブジェの梵鐘を聴きながら、おどろおどろしくもある太郎の世界から離れて一服する。青山の緑の風はたおやかで心地いい。


 
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たろう ♀ タロウ ♂ 太郎 @ TARO

2016-05-16 | Weblog
コインパーキングの突き当たりにある太郎の家。周りの世界は日々変わる。



壁に顔か、顔に壁か。早口言葉で言ってごらん。



玄関に入って振り向くと別世界が広がる。あっちと、こっち、どっちが面白い?



来館者が履いた後のスリッパ。整理整頓から不整理不整頓へ。何事も整いすぎてはいけない。



人なつっこく寄って来た。ニャーオか、ワンワンか? 名は「動物」だった。



犬の植木鉢。放し飼いのようだな。



極彩色の魚も泳いでいる。



顔は頭部の前面にあるアートである。



好き勝手に写真を撮っていい稀有な美術館。



考えるな。眼の前の作品をただ観よ。



解説不要、論評不要、ただ観入すればよい。




あんたと作品の感性を交歓させるんだよ。



これらの顔を創ったのは、この顔だ。



たろうちゃん、顔で遊びすぎちゃだめよ。アートになって元に戻れなくなるからねー。












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Taro Okamoto Memorial Museum

2016-05-14 | Weblog
画家にとってのアトリエは、料理家にとっての台所、作家にとっての書斎だ。
そこは創作の場であり、思索が飛び交い、感性の泉が溢れだし、一心不乱の自らに酔いしれる空間だ。お気に入りの品々に囲まれた王国で、画家も料理家も作家もそれぞれが創造主となって君臨する。

太郎は獅子吼する。 Be TARO !



太郎にとっての両手、それは絵筆である。大作用の刷毛?
Be TARO !……YES !



絵筆を執ることがない時間は早20年を経過している。整然としたままの机上。誰が整えた?
Be TARO !……OH, YES !



抽斗は引き出されることで存在感を増す。いい按配に引き出されている。
Be TARO !……YES , I,m BEATLES !
Be TARO ! !……YE, YES , I,m BETARO !



キャンバスが並べられた棚。太郎と同じく作品は自意識が強くて、この色彩を見よ!って主張している。
Be TARO !……I agree Be TARO !



アトリエの床に飛び散った絵具。圧倒的に白が多い。
Be TARO !……TARO Be !
Be TARO ! !……TARO Be ! !
Be TARO ! ! !……TARO Be ! ! !



アトリエ入り口の右手に置かれたアップライトピアノ。どんな曲を弾いた?
Be TARO !……Be PIANO !
Be Be  TARO !……Be Be  PIANO !



吹き抜けのアトリエの天井からつりさげられたオブジェ。2階部分に書架が見える。
Be TARO !……Books of TARO !



アトリエ風景。眺めるのではなく感じる空間。
言われる前に獅子吼しよう。
I,ll be TARO ! OK ?











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岡本太郎の家に遊びに寄ってみれば

2016-05-12 | Weblog
太郎の家は骨董通りから少しばかり入った静かな住宅街の一角にあった。東京都港区青山6丁目1番地19号。戦前、この地で太郎は、漫画家の父・岡本一平と小説家の母・岡本かの子とともに暮らし、一家で欧州へ旅立った。東洋の窮屈な小国を出て芸術文化大国フランスの空気に触れ、生きる自由と描く自由に開眼、自ら表現する歓びを知る。戦災で焼失した旧居跡に1954年、アトリエを兼ねた住まいを造り、1996年1月17日に亡くなるまで暮らし、作品を仕上げ、口述筆記で多くの著書を生みだした。没後20年という歳月を経て、わたしは呼ばれるようにして太郎の家の前に立った。

住まいを訪ねてくる人たちを見透かしたように、太郎はこんな言葉を残している。

「ぼくはきみの心のなかに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ」

強気で自信と自負に満ちた発言、いのちの交歓が強烈に溢れた作品群が太郎を美術界の中で際立った存在に押し上げた。自ら生みだした作品と烈しく組み打ちする芸術家。作品のどす赤いエネルギーと作者のどす黒いエネルギーが音を上げてぶつかり合い、熱気と玉の汗を放って大きく膨張、そして「芸術は爆発だ!」となる。

太郎の爆発語録は己を鼓舞し、脳天を突き抜け、キャンバスを打ち破り、宙を舞い、作品を観る人、著作を読む人、語りを聴く人に隕石のように降りかかってくる。

「壁は自分自身だ」

「瞬間、瞬間を生きる」

「人生、即、芸術」

「なんだ、これは!」

「血を流しながら、にっこり笑おう」

「芸術? そんなものはケトバシてやれ!」

「行きづまったほうがおもしろい」

語る言葉は現状をハンマーで打ち砕き、苦難と四つに組んで格闘する姿勢と性根を示す。絵筆から生まれた作品、両手でこね繰り回されたオブジェ、口舌から連射された言葉。これらの、どれもが太郎の分身の群れとなって襲い掛かってくる。相手の感性の喉元に食らいつき、ぬめった内臓を食いちぎって血祭りに上げる。獰猛と残虐さを秘め、真っ赤な血が滴り落ちる官能が作品の中に潜んでいる。呪術師だよ、太郎は。



太郎のアトリエ兼住居は新緑に囲まれて静かな佇まいだった。



2階のベランダからカモがやって来るのを見張っている太郎の分身。



かわいい顔もひと皮むけばオオカミとなる。内臓まで食っちゃうぞ。



呪術師は死してなお生者の感性に巣くい、そして囁く。「気になるだろう、俺が。遊びに来いよ。俺のうちへ」。

太郎の家の前に立ったわたしは玄関の方へ引き寄せられていく。魔界への扉を開こう。

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豊洲のペントハウスを訪ねてみれば

2016-05-10 | Weblog
受信メールを開くと友からのメッセージがあった。

有楽町線の豊洲駅1C地上出口で待っているよ。

メールの主は、遙か昔に東京で学生時代を過ごした頃の友である。学業より拳法の研鑽を積むのに勤しんでいたわたしの武道仲間でもあった。演武の相方であり、脱走不能の僻地での過酷な合宿でともに汗を流し合い、疲労で泥のように眠った仲である。江戸っ子にして理系の頭脳の持ち主、学生の身ながらサバンナRX7を乗り回す一方で、日中はパチンコ屋に入り浸り、夕食はビッグマックか牛丼に大ジョッキのビールを流し込むという粗食で満腹感を得ていた。文学部の友と企画した青森・恐山探訪と太宰治の生家・斜陽館宿泊の旅にも、なぜか同行していた人物でもあった。性格、趣味、女性に対する嗜好など全く異なるのだが、なぜか気が合う仲間の1人として卒業後も長い年月にわたって交友関係が続いている。

東京に来た時は連絡してくれよ。うちのジャグジーでひと汗流してもらおうか。

こんな声掛けに応じて上京のメールを送信した後、冒頭のメールが届いた。東京メトロ有楽町線に乗車する。有楽町―銀座一丁目―新富町―月島を経て、目指す豊洲駅に着いた。指示通りの出口の階段を上っていく。豊洲の空が真っ先に見え、次いで並木が現れ、最後に立ち並んだビル群が眼の前に広がった。友の姿を探そうと、首を右後方に振り向けた際、灰色のスーツに青いネクタイをした友が野太い声を掛けてきた。

よお!


四角い建物が横になったり、縦になったりしてできている街・豊洲。

ロイヤルミルクティー色のハンチングに青色のワークシャツ、アイボリーのチノパンにオレンジとイエローで彩られたデイパック姿のわたしに対して満面の笑みを浮かべていた。整然とした歩道や通路、高層のオフィスビルや高層マンションの街を、歩くタイムズスクウェアのようは派手な色合いの男が落ち着いたスーツ姿の男と連れだっている。オフィスの退社時間前とあって、歩いているのは小奇麗にした30代とみられる女性たちとそのお子さんたちばかりである。街角に巨大な船の錨がモニュメントとして置かれている。友に聞けば、当地が元は石川島播磨工業造船所があった場所の名残だという。地権者が造船所だけだったので、再開発が円滑に進んで誕生した街、それが豊洲だという。

あれが俺のペントハウスだ。明かりがついているだろう。


下から見上げた豊洲の空。線で仕切られた空間に飛行機雲が斜めに走る。

指を差された方角に視線を注ぐ。高層マンション最上階の1つに明かりが見えている。デイパックを背負った男とスーツの男がマンションへ向かう。入り口の前に立つ。住まいと言うよりはオフィスビルの雰囲気である。ドアを入ると広い空間と吹き抜けが広がり、2階へ通じるエレベーターが動いている。2階フロアの受付カウンターでコンシェルジュの若い女性2人が「お帰りなさいませ」と笑顔で挨拶してくれた。友はペントハウスの男として顔見知りのようだ。エレベーターのコーナーへ行くと、住居階に応じて3基完備されていた。幼児を連れた30代の女性と同じエレベーターに同乗する。女性が35階のボタンを押した。友は最上階のボタンをVサインでヴイっと押した。35階と最上階のボタンがオレンジ色に輝いている。35階に着いて扉が開いた。幼児を連れた女性はペントハウスの住民に敬意を表すかのように「お先に」との言葉と会釈をわたしたちに残して降りた。

最上階に着いた。ほとんど高級ホテルの作りである。人が住んでいるという雰囲気を感じさせない。長い廊下の両側にある幾つかの部屋の前を通って友の部屋へ。靴を脱いでスリッパを履き、25畳ほどのLDKに招き入れられた。メゾネットタイプの住居である。豊洲の街を睥睨する窓は全面ガラス張りで高さ7mはあろうか。遠くにレインボーブリッジが見える。友の勧めに応じて2階のテラスにある露天のジャグジーに浸ることにする。湯殿の縁のボタンを押すと青色などの光が点滅しだした。わたしのロココ調の裸身の臀部や太腿、股間に光と泡がまとわりつくようにして彩と心地よさを織りなす。遊び心という奴だ。マンションの広告風に言えば「天空のジャグジーへ、ようこそ」となるのだろうか。ただでさえのぼせたオツムが、長湯するとさらにのぼせてしまう。ジャグジーから東京の眺望を満喫したことだし、裸身をふわふわのバスタオルで拭う。


ペントハウスからの豊洲と遠景。水辺が見える風景は心を和ませる。

階下に降りると、ダイニングテーブルに江戸前寿司が用意されていた。大型の液晶テレビ、ガラスケースに収められた陶器、絵画などがモデルルーム然として陳列されている。ソムリエの田崎真也と一緒に写った写真と当人のサイン入りワインボトルも飾られている。奥さんが不在とあって2人だけの団らん、男のおしゃべりタイムとなる。さまざまな話題が上がり、わたしたちは笑い飛ばし合った。例えば、もし30代の独身時代にこんなペントハウスに住むことになっていたら、多分、身を持ち崩すだろうという結論になった。1人静かにジャグジーに浸って、ぼんやりと東京の夜景を眺め、その後に歯を磨いて日記を書いて夜11時前には就寝、それも1人で? 禅寺の修行僧じゃあるまいし、そんな清廉な生活なんてあり得ないよ! 欲望を満たしたいときにはその力量が無く、力量がある年齢になると欲望が起きないというパラドックス。友は言った。

人生、こんな風にうまくできてるんだよなあ。 

感嘆とも諦観ともつかない言葉である。友は紆余曲折の人生を経て、今の家庭にたどり着き、運気が好転しペントハウスの住民となった。家庭こそ友の安らぎの場であり時間でもある。友はペントハウス以外にも驚くほどの金額の資産の持ち主である。しかしながら、友にとって最大にして最高の資産はプライスレスである家庭なのだ。

ペントハウスでの会話がこれでおしまいでは、達観した禅坊主の話になってしまう。わたしたちは恣意的に達観しない余地を残しておくことにした。欲望を枯山水にするのはまだまだ後だ。大型テレビを前にしてホログラムの話になった。将来は画面に出てくる美女たちをホログラムで眼の前に呼び出せるんじゃないか、という内容だ。きっと誰かが実現するな。俺たち、それまで元気でいるかな? 元気でいようじゃないか。お気に入りを5、6人ぐらい呼び出すのもいいよな。そうだな、とりあえず、杉本彩みたいな方をお呼びしようか。冷蔵庫に赤ワインがあったよな。大ぶりのグラス3個用意しとけよ。

淑女の皆さま、禅坊主くずれのわたしたちを警策で思いっきり張り倒してください。
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上野で若冲展を覗いてみれば

2016-05-07 | Weblog
近頃、お江戸は上野で流行るもの、それは伊藤若冲展である。生誕300年記念と銘打って東京都美術館で4月22日から5月24日まで開催中である。「ひと月限りの、この世の楽園」という売り文句で美術ファンらを誘い込む。開催に先だってNHKが若冲の作品を特集して放送するなど盛り上げに力を入れていた。上京した際、用の合間を縫って、期間限定が強調された話題の作品展を覗くことにして上野を訪れた。

JR上野駅に降り立つと、多くの人たちの姿でいっぱいだった。駅を取り囲むように上野の森美術館や東京文化会館、国立西洋美術館、国立科学博物館が立ち並んでいることもあってか、老若男女がうごめくお祭りのような状態だった。閉館まで2時間を切る夕方が迫る時間帯。もしかして、この人出は若冲展を見るための人たちなのかと懸念が走った。

昼間の人口1000万人を超える巨大都市東京の怖さをすっかり失念していた。話題、人気の催しがあれば、行列は当たり前、待ち時間も当然ながらたっぷり、たった1%の人が関心を持って集まるだけで10万人という数字になってしまう。美術展などは平日の貸し切り状態の時間にしか出掛けたことがないから、美術館の入場のために並ぶなどという行為はまったく頭にない人生を過ごしてきた。

美術鑑賞を終えたと思われる人たちの列と、これから美術鑑賞に赴くと思われる人たちの列が交差する流れに乗って前へ進んで行く。あまりの人出にきょうは週末だったのかなと思案する。いいや、週の前半の平日の午後3時半を回っている時間である。地方から上京した人たちの共通する思いは2つである。言い尽くされているが改めて実感する。まずは、どこへ行っても人がとても多い! 次はJRや私鉄、地下鉄を利用する際、目的のホームに到達するまでけっこう歩くことである。急こう配のエスカレーターもある。下りであれば、めまいがして転げ落ちたら大変だと思うし、上がりだとちょっと盗撮でもと出来心が生じたり、魔が刺して新聞ダネになる人もあろう。人出にめげない。健脚である。このことが昔も今も変わらない、東京を快活に歩きまわるコツとなる。

人出の流れに乗って進み大きな広場に近づくと分散されて歩きやすくなった。テントを張った一帯があり催し物が開かれているようだ。


若冲展の入場券はネットで事前購入し印刷済みの紙片を持参しているので購入の手間はいらない。少しばかりの気分の余裕が大道芸に見入る時間をつくることができた。男性が手に乗る大きさのボールを数個使った芸を解説しながらやっている。けっこう難しい芸だと思うが、見た目には難しく見えないので観客の驚きの度合いも低い。これは大変な技なんですよと言いつつ手軽にやってしまうものだから、簡単な技なんだなと見る人に錯覚をさせてしまう。習得するのに苦労する割には、あまり受けない大道芸を熱心に演じていた。


上野の森を時間を気にせず、のんびりと歩きまわり、気が向いた美術展に飛び込みで入ると愉しいだろうなと思いながら、東京都美術館を目指して歩く。


若冲展の閉館は夕方5時半。入館は閉館の30分前まで。わたしの時計は4時に迫っている。初期から晩年までの代表作約80点を見るにはちょうどいい時間だ。


館外の入場券販売ブースに並ぶ列を横目にエスカレーターを下り美術館入り口へ。館内に踏み入ると、行と列の一団が目に入った。入場まで20分待ちの表示が出ていた。展示会場を前にして牛歩となる。スマホに見入る人、メールを打つ人、おしゃべりをする中国人たちと、それぞれが入場規制の時間を過ごす。人いきれで館内は暑く、そのうち若冲展に並んでいることを忘れ、歩みが少しでも進むことに小さな達成感と歓びを感じるようになってくる。行列というゲーム。さあ、もう少しで入場できる。あと10分以内の辛抱だ。小さな1歩が多幸感をもたらす。予告通り20分ほどで入場となった。

最初の順路から混んで列が出来ている。途中を飛ばして奥へ進んで行く。展示作品の前はどこも人だかりだ。人々の頭の間から作品をまさに覗きこむようにして見て歩く。じっくりと立ち止まって鑑賞という状況ではない。細長いケースに入った絵巻物はホテルのビュッフェを求める列のように人々が数珠つなぎとなって視線を下に向けて見入っている。どんな作品なのかと脇から覗きこむ隙間もない。係員の女性が立ち止まらないよう声を上げている。人の流れも左右さまざまで淀んだ状態だ。

雄鶏の絵、上手であり色彩も美しい。孔雀の絵も見事な姿態と色使いである。図鑑のような精緻さがある。釈迦三尊像、立派に描いている。でも展示作品の何倍もの人だかりとざわめき、私語の中で感銘を得るのは難しい。せめてお気に入りの作風を探そう。猫を大きくしたような愛嬌を感じさせる目をした虎の絵や、狆みたいな犬たちがじゃれあう百犬図、ポンチ絵風な描きっぷりの三十六歌仙図屏風、イラスト画風の象と鯨図屏風など画遊人を彷彿させる作品に若沖の魅力を感じ取った。これだけでも訪れた甲斐があったというものだ。

来場者の顔と背中と声をたっぷりと味わった若冲展の会場を出て、夕刻が近づく上野の森を歩く。人だかりから解放された空間が広がっている。


若冲のことはすっかり忘れてしまって、上野の森をゆっくりと歩く。桜の季節になると人の波で埋まる桜並木は閑散としている。ああ、この閑とした感じはいいなあ。和らいだ光が緑濃い桜の葉を覆っている。若冲の明るく派手な色彩を上描きし、より精緻で深みのある光景が目の前にある。若冲にひと筆執らせて描かせてみたいところだがね。
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明治神宮に向かってみれば

2016-05-06 | Weblog
大都会東京に居るとは思えないようなと形容される明治神宮の森。荒地に植栽された人工林も百年の歳月を経れば立派な自然林と化している。屋久島にあるような原生林が持つ荒々しさやおどろおどろしい雰囲気はない。



同じ場所で色彩を反転してみると、異次元となる。森の精が集う地は妖怪たちの世界でもある。



異次元から現世へ戻ろう。参道を再び歩き始まる。



本殿に至る鳥居の前までやって来た。



神職たちの列が連なる。



本殿に向かって歩を進める白装束の一団。



本殿の左手にある楠の大木。本殿に連なる回廊にある腰掛けに座ったわたしの視線の先にある。


春の大祭の最終日だった。崇敬者大祭の準備が朝から進められていた。楠の大木の近くに椅子を並べたり、受付の机に白布をかけたりと、黒のツーピースに白のスカーフを首に巻いた女性たちが忙しそうにしている。紺色の法被を着た男衆も本殿前で神職らと舞台づくりをしていた。そうした一連の作業の様子をじっと眺めて時間を過ごしていた。ちらほらと訪れて来た外国人たちも回廊の腰かけに座り、何かが始まることを察知して、わたしと同じように眺めていた。けっこうな時間が経ったころだった。ふいに右横から英語で声を掛けられた。振り向くと、2mほど離れた席に座っていた女性2人連れがわたしの顔を見ていた。浅黒い肌に黒い髪、そして整った顔立ちが疑問を質す表情をしていた。

会話のやり取りはこんな具合であった。

何が始まるの?

神様のための祈りの儀式かな。

9時ぐらいから始まる?

まもなくかな。

納得した顔つきの2人に尋ねる。

観光なの?

2人はうなづく。

インドから?

典型的なインド美人の2人はにこりとしてうなづいた。

わたしたちは始まりを待った。視線の先には準備の動きだけが続くだけだ。紺色の制服制帽姿の衛士が2人の前を通りがかり立ち止まる。明治神宮の感想を尋ねている。2人が「美しい」と絶賛する感想を口に出すと、衛士は誇りに満ちた恵比寿顔になった。2人は舞台に目をやりながら何時から儀式が始まるのか尋ねた。衛士は胸元から冊子を取り出して見入り、12時からと答えた。まもなくという答えを期待していた2人は落胆の表情をして立ち上がり、ほどなくして去っていった。まもなくして始まったのは神宮崇敬者だけのための大祭で神主が祝詞を上げるものだった。衛士が言った12時からの儀式は、日本三曲協会による奉納演奏のことだった。

そして後日。明治神宮をデジカメ撮影した画像を見ながら、参道を歩いていた時のことが蘇った。2人のインド人女性が英語を話しながら、わたしを追い抜いて行った。そのうち記念写真を誰かに撮ってもらっていた姿を横目にわたしは彼女たちの前を通り過ぎた。今になってはっきりと思い出した。わたしに声を掛けてきたのは、記念写真を撮ってもらっていた2人だった。明治神宮の参道で最初に撮ったひとコマに2人が写っているのを発見する。

最初に撮ったひとコマが冒頭のこれだ。参道の右側部分の人の塊に注目する。


写真を部分拡大してみると、姿が浮かび上がる。


さらに拡大してみる。
顔立ちの印象しか覚えていなかったが、カメラは姿勢や服装をきちんと記録していた。


おっと、拡大はここまでだ。わたしに声を掛けてきたのは右側の女性だった。


ふと、ここで思う。2人のインド美人と同じ場所で一瞬に近い時間を過ごしたことは、明治神宮の広大で鬱蒼とした森よりも印象に残った。未知の存在だった2人はわたしのデジタル画像の中に姿を残すという奇縁をもたらすことで永遠の記憶を刻みつけたのだから。



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表参道を歩いてみれば

2016-05-04 | Weblog
祝日の静かな朝、東京・明治神宮に通じる表参道を歩いてみる。新緑の欅並木がそよ風で涼やかに揺れている。人も車も朝早くとあって少なく、参道沿いの店舗もまだ閉まっている。さあて、トコトントンと歩いてみるか。



BOSSも休暇中でいない。誰からも指示を受けることなく自由だ。いきおい歩調ものんびりとなる。



りんご屋さんもまだ開いていない。マウスにでもひとかじりされたみたいだな。



上も向いて歩こう。見上げると、上階の軒に何か書いてある。■ギャラリー同潤会。これまで、どれくらいの人が気付き、ギャラリーを訪れただろうか。



道路端に無造作っぽく止めてあるボルシェボクスター。活魚のように目を見開いて、運転手が戻るのを待っている。



乳母車にシャム猫が何匹も乗せられて主人とお散歩中だった。散歩と言っても猫は歩かず眠りこけている。日光浴なんだろうね。



朝だ、元気だ、絞りだよ。俺だ、男だ、サイケだよ。女の子がいなくても人生やっていけるぜ。てなことはないと、背中は語っている。



小ぶりで地味な佇まいの原宿駅。参道の店舗が派手に入れ替わり変動していく中で不動、不朽のランドマークとなっている。駅舎はもはや十字架が頂きを飾る神社である。改札を通る際は二礼、二拍手、一礼すべし。


 



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