おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

床屋談義 長生きの秘訣はこれだ!

2012-03-28 | Weblog
「えー、きょうは?」

「もみあげの長さは今のまま。それに襟足の伸びたところを刈ってもらおうかな」

毎回、床屋の親爺との会話はこんな調子だ。通い始めてかれこれ25年になる。事前に電話予約するのだが、その時の会話も「えーっと、後30分ぐらいして行きますから」「はい、分かりましたー」。たったこれだけである。わたしも名前を言うことはないし、親爺も名前を聞くこともない。これで予約完了である。親爺の心中を代弁すれば、こうなる。「名前は知らないが、多分いつものあの人だろう」

なじみの床屋の親爺さんは趣味人である。散髪台の前にある大鏡の周りには自作の切り絵の作品が並んでいる。髪を切るは、紙を切るに通じるのか、あるいは鋏さばきという点で一致するのか、2,3カ月に1回の割合で床屋に出向くたびに作品は入れ替えになっている。時代劇の侍であったり、アル・カポネみたいなギャングだったりと人物が得意分野だ。セリフが1言、2言入っていて「止めてくれるな、おっかさん」とか「なめたら、あかんぜよ」といった具合だ。

月曜日の定休日にはカメラを持って被写体巡りするのも趣味の1つで、カメラで撮影した写真が額に入れていくつか飾ってある。題材は多彩だ。港に入った豪華客船、旧炭坑の廃墟の建物、料亭の庭園や季節の花などだ。今は梅の花を撮った作品が並んでいた。写真熱が高じて、坂本龍馬スタイルになった肖像写真もある。龍馬が幕末の長崎で撮った有名な写真、あの紋付き袴にブーツ姿とほぼ同じスタイルだ。写真館に出向いて衣装を着せてもらって撮影に及んだという自信作だ。


こちらの龍馬は脇差が1本だが、親爺龍馬は太刀と脇差の2本を差している。親爺によれば、襟足の髪が龍馬みたいに伸びていないと、写真として絵にならないという。もちろん、親爺の襟足は龍馬みたいに伸びている。

散髪の途中、奥の扉が開いて女性が顔をのぞかせ親爺に声を掛けた。「あのー、これ置いておきますから」。親爺が「ああ、ありがとう。食卓の上に置いといて」。女性が扉を閉めて奥へ引っ込んだ。「あれ、奥さんですか」という会話から始まって、親爺のお父さんのために宅配の女性が昼食を届けたと分かった。

ここから親爺のお父さんの話になった。大正7年生まれで御年92歳。とにかく元気で、病気は若い時にした盲腸以外、まったくないそうである。

「盲腸? それは病気のうちに入らないでしょう。なにか健康法があるでしょう? 例えば野菜中心の食事とか」とわたし。

「いやー、それが特にないんですよ」と親爺。

「ないと言ったって、なにもしないで92歳で元気なはずがないでしょう。煙草は吸わないとかあるでしょう」とわたし。

「いやー、煙草は70歳過ぎまで吸ってましてね。わたしらもガンになるんじゃないかって心配してたんですけど、体のどこにもガンがないんですよ」

「70過ぎまでしっかり煙草を吸ってた? うーん。それじゃ、歩いたり、泳いだり、ラジオ体操とか体にいいことを何かやってたでしょう?」とわたし。

「いやー、それがその種のことは一切関心がなくて」と親爺。

「それじゃ、なにか体にいいサプリメントとか飲んでいるのでは?」とわたし。

「いやー、薬も病院も嫌いなんですよ」と親爺。

「うーん、困ったな。なんの仕事をしてたんですか? もしかしたら床屋さん?」とわたし。

「いやー、床屋じゃなくて、子供相手に駄菓子なんかを売ったりする小店をやってましたけどねえ。元々は百姓でしたよ」と親爺。

「失礼ですけど、年齢からして認知症とかはないですか?」とわたし。

「いやー、物忘れはありますけども、認知症というほどじゃないですねえ」と親爺。

「90年以上も生きれば、体のどっかに不調があるでしょう?」とわたし。

「いやー、それがどこにもないんですよ。あー、そう言えば、わたしがどこかへ出かけて帰って来たときに家の中で転んで骨折したことがありましたなあ」と親爺。

やっと納得いく返答をもらえた。「そうそう、お年寄りは必ず転倒して骨折するんだよね。用心しなくては」とわたし。

ここらで結論を出さなくてはいけない。「結局、お父さんが長生きできたのは運が良かったということですね。強運の持ち主ですよ」とわたし。

「いやー、親父の親も90歳近くまで長生きしたんですよ」と親爺。

「親父の親が90歳近くまで生きた? ということは明治生まれですよね。長生きの家系なんだ」とわたし。

「そういうことですかねえ」と親爺。

「親爺さんも長生きしますよ」とわたし。

食事にも健康法にも関心を示さず、病院や薬は嫌い、煙草も吸っていた。それで認知症にも寝たきりにもならずに元気で昼飯を食って過ごす。こういう長寿の人もいるんだなと感心しきりである。散髪を終えて店を出た後、1つだけ聞き忘れたことがあった。「女への関心はどうだったんですか?」とわたしが尋ね、親爺が「いやー、これが手が付けられないほどマメでしてねえ」と返答してくれたら合点がいくのだが。次回の散髪の際に聞いてみよう。






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春キャベツはコンソメスープで

2012-03-26 | Weblog
日に日に春めいてくる。ポカポカ陽気になれば、地中の糸ミミズたちも這い出てきてコンクリートのテラスに寝転がっている。雑草も1日を実質3日分の伸びでぐんぐん生長していく。桜の枝にもつぼみが目立つようになった。夜、風呂場の網戸には早くも蛾が1匹張り付いている。胡麻粒ほどの蜘蛛が天上から糸を垂らしながら降りてきた。藪蚊でさえ新緑と同じ薄緑色の体でふらふらと頼りない飛行をしている。

春の訪れで蠢きだすのは虫や植物だけじゃないさ。食欲だって春バージョンの蠢きがある。春キャベツを農家から頂いた。ひらめいたのはスープにして食べてみたいという思い。それも味噌汁ではなく、コンソメスープで。なぜって? 理由を聞かれたら「春めいた気分だから」としか言いようがない。牛肉と香味野菜のコクが詰まったコンソメのスープで春を味わいたいんだ。

ヘンケルの包丁で春キャベツをざっくり、ざっくりと切っていく。トントントンとまな板に響く音も軽やかだ。春の足音だ。水を入れて温めている最中の鍋にポンと放り込む。沸騰に向かう途中にどんどん煮えていく。灰汁が出だしたら貝杓子ですくってシンクにポポイのポイ。湯の中の春キャベツって色っぽいねえ。野菜に恋したくなる気分だ。旬をいただくのは食欲のハグみたいなもんだ。

さあ、煮え立つ前に旬の素材を急速冷凍したミックスベジタブルを入れ込む。スイートコーン、グリンピース、ニンジンを混ぜ合わせたやつだ。湯通し済みだから、春キャベツとすぐになじんで味わいの4重奏を叶えてくれる。仕上げの時間だ。顆粒のコンソメスープ小さじ2杯を鍋の中に落として、貝杓子で全体になじむようにゆっくりとかき回す。ミックスベジタブルの黄、緑、橙の3色が春キャベツを彩る。

さあ、さあ、さあ、スープの味見だ。貝杓子で少しばかりすくって小皿に移す。あ~、この味わい! あ~、春だよ! あ~、最高! ここで終わらないのが春の到来に浮き浮きした男の料理。これぞ最後の仕上げとして洋胡椒をパッパッパッと振りかける。オーブントースターのパンも焼き上がった。

目の前の食卓に鎮座した春キャベツのコンソメスープ。その左手にこんがり焼けた食パン。さじでスープをすくって口に運ぶ。1口、2口、3口……。生だとシャキシャキのキャベツだが、スープにするとシルクのような滑らかさ。山に登ったわけでもないのに、ヤッホーと声を出したい気分。なぜって? 前にも言ったでしょ。春めいた気分だからだよ。パンに塗りつけるのは、チョコピーナッツ! 小さじにたっぷりとすくってパンに盛る。ガブリとかぶりつく。チョコピー、最高! 春キャベツ、万歳! なぜ万歳かって? また言わせるの。まあ、春キャベツのコンソメスープをつくって食べてごらんよ。ヤッホーとか、あ~とか、ばんざーい! とか言いたくなるからさ。 
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イランとイスラエル、どっちを旅する?

2012-03-24 | Weblog
かつて利用したことがある旅行会社から色刷りの冊子が届いた。表紙に「一般的にはあまりご紹介されていない海外旅行のご提案です」とある。頁をめくると色々なツアーが掲載されている。アフリカ南部3カ国周遊では南アフリカ共和国、ジンバブエ、ボツワナを巡る。バルカン半島6カ国大周遊ではクロアチア、マケドニア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、アルバニア、モンテネグロを旅する。確かにフランスやスイスを訪れるのとはひと味もふた味も違うみたいだ。

頁の中ほどで手が止まり、見開きとなったツアーに視線を注いだ。左頁にイスラエル、右頁にイランのツアーだ。両国の地理を考えると、この頁配置は正しい。イランの核開発をめぐり武力攻撃も辞さないとイスラエルが公言している中、両国を旅しようという企画。機を見るに敏、あるいは営業として見上げた根性と評価すべきなのか。どちらも旅程は8日間、各出発日28名様限定と、数字もぴたりと同じにしてある。値段が少し違って、イスラエルが30万9800円から35万9800円、イランが23万9800円から34万9800円。末尾4桁がぴたりと一致しているのが不気味だが。

内容を見てみよう。まずは航空会社。イスラエルツアーはイスラエル航空を利用。最も安全なエアライン4年連続第1位(米国旅行雑誌読者投票)とある。かたやイランツアーはエミレーツ航空利用。アラブ首長国連邦のドバイを拠点とする航空会社で、エアライン満足度調査2011・総合満足度第1位とある。かたや安全、かたや満足でトップの航空会社の利用を売りにしている。

担当者のおススメとしてイスラエルの「魅力」が綴ってある。その書きだしは「イスラエルといえば『危ない』というイメージをお持ちの方も多いと思いますが……」である。旅行会社もよく分かっているじゃないかと思いつつ、次の文章を読み進む。「販売開始より3年、1000名様以上にご参加いただき無事に催行しております」となる。旅のお勧めでなかなかこんな文章には出くわさない。さらに読み進む。「イスラエルで興味深いのは、オーソドックスユダヤ人と呼ばれるユダヤ教の人々を、生で見ることができることです」。日本の報道では軍用ヘリから問答無用でミサイルをぶっ放すというイメージがあるが、そうではない宗教的信仰を持った敬虔な人々にまみえることができますよということらしい。次に進もう。「そしてなんといってもイスラム、キリスト、ユダヤの3つの宗教の聖地として国が成り立っている魅力があります。是非ともこの機会に壮大なる歴史の舞台イスラエルにお越しください」と結んでいる。

イランツアーの方には担当者のおススメ欄はなく、「千夜一夜物語の舞台、悠久なる歴史とペルシャ、帝国の栄華を偲ぶ神秘のヴェールを纏う国イランへ…」と謳っている。観光する都市にコメントがしてある。テヘランは「混沌と喧騒が支配する革命の街」となる。ヤズドは「ザクロス山脈を越えると、そこにはゾロアスター教の聖地が待っている」。モスクや廟の観光では「女性は入り口でチャドル(全身を覆う布)をお貸しします」とあり、宗教色が漂う。ペルセポリス、イスファハン、エラムガーデン、カシャーンなど世界遺産の地が観光コースを彩る。

イスラエルツアーは教会巡りが多い。教会の名称が面白い。パンと魚の奇跡の教会、山上の垂訓教会、ペテロの召命教会、受胎告知教会、万国民の教会、鞭打ちの教会、鶏鳴教会、マリア永眠教会など、その謂われを知りたくなるような名称だ。ビアドロローサ(イエスの道行き)を辿る観光では、キリストが最初につまづいた場所やキリストが2度目に倒れた場所を通り、磔刑にされたゴルゴダの丘があったとされる聖墳墓教会へと至る。食事の中には「昼食にはイエスも食べた聖ペテロの魚をどうぞ」とあるが、どんな魚なのかと想いを馳せる。

ツアー内容を読むにつけ両国が歴史遺産に彩られた魅力ある国であることが分かる。そして思う。両国が戦火を交えないように間に入る仲介役を務める国や機関はないのだろうか。日本がしゃしゃり出てはいけないのだろうか。世界を安全に旅行して、安心して観光したいじゃないか。






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春彼岸に普茶料理、また愉しからずや

2012-03-22 | Weblog
黄檗宗寺院での春彼岸の法要に誘われた。「普茶料理も後で愉しめるわよ」が決め手となった。石階段を上って堺の豪商が寄進した山門をくぐり、さらに階段を1段ずつ踏みしめて布袋姿の弥勒菩薩と韋駄天を納めた大王殿を通り抜ける。広場の先に本殿に当たる大雄宝殿が建つ。建造から3百年を経て、建材は老成しきっている。近づくにつれ建物のあちこちに傷みが見えてくる。高い敷居を乗り越えるようにして土足で大雄宝殿に入る。土間に並べられた椅子に檀家の人たちが既に腰かけて僧侶たちの入場を待っている。彩りを抑えた素朴な造りは巨大な納屋を想わせる。本尊として祭壇に据えられた釈迦如来像の金箔の鈍い色合いが古刹の証となっている。

訪れた地は長崎市中心部にある万寿院聖福寺。本山は隠元が京都宇治に開いた萬福寺だ。参列した檀家は30人前後で年配者が多く、その8割はご婦人方だった。住職を含め6人の僧侶が入場し、読経を始めた。開け放たれた扉から暑くも寒くもない彼岸の風が入る中、木魚が響き、鈴が鳴り、銅鑼が喝を入れた。参列者の焼香があり、住職が檀家の名前を読み上げながら一族の繁栄を祈願していく。法要は30分ほどで済み、一同は住職の案内で方丈の座敷へと移動した。檀家ではないわたしはしんがりとなり、やや遅れて座敷へ入った。

朱色の丸卓は7つあり、檀家の方々が既に座っている。上座の丸卓には読経を上げた僧侶たちが輪になって雑談をしている。僧侶たちの背中合わせの丸卓に席が1つ空いていて、そこに座る。同席の女性たちから「お隣の僧侶の席の方がいいのでは」と勧められたが、「いやあ、こちらの方がいいですよ」とかしこまる。淑女たちに囲まれての普茶料理。彼岸のお楽しみはこれからだ。

麻腐(まふ)こと胡麻豆腐に箸を付ける。白胡麻を使っていて、ちょうど絹ごし豆腐然としている。ぷるるん、ぷるるんとして弾力があり、食べやすいように箸で2分割にしようとしても簡単に切り離されようとはしない。まさに精進を重ねて口に運ぶ。もぐもぐ、もぐもぐと噛んで味わう。淑女たちもぷるるんを、もぐもぐしている。余計なことは考えない。余計な体力はつけない。余計な味わいをしない。そんな禅寺にふさわしい薄味だ。おいしいという味覚が舌の上で広がっていく。この味覚はこの日並んだ料理すべてに共通していた。

巻煎(けんちん)は炒めたもやしなどを湯葉で巻いて煮たものだ。小ぶりの巻きずしの中身が、もやしにそっくり入れ替わっていると言えば分かりやすいか。これもまた、麻腐と同様に、とりわけ自己主張をするでなく、かと言って没個性でもない、食べればうまいと分かる味わい。それも大仰なうまさ、手の込んだうまさ、繊細の極みのうまさでもない。余計なことを考えずに、ひたすら素直に味わいなさいという代物である。その味わいの深さは、唇から喉元までの小さな空間が何十倍もの大きさに膨張して味覚の曼荼羅が幾重にも広がっていく。もやしで幸せな気分になれる。そんなたかだかな存在であることを自覚すべきなのかもしれない。

雲片(うんぺん)は細切り野菜に葛粉をからめて煮た料理。ゴボウ、ニンジン、レンコン、エンドウ、タケノコなどが使われている。そして百合の根も。これが一番のお気入りとなった。レンジでチンしたニンニクの柔らかさと同じだ。もちろんニンニクみたいな臭いはない。ふにゃりとした味わいは、よちよち歩きの春の温かさそのものだ。野菜、根菜が普茶料理となって体内に入ると、人格を穏やかにしてくれるのではないか。口角泡飛ばして激論したり、相手の胸倉を掴んで表に出ろと怒鳴ったりする荒ぶる気力もすっかり失せてしまうだろう。

この普茶料理を作り振る舞ったのが、法要を務めた住職だ。本山の萬福寺で典座(てんぞ)を務めた方。料理の配膳の途中で作務衣姿で座敷に姿を見せたが、相撲取りになってもいいほどの立派な体格をしている。先代が昨年急逝したため、古里に戻り後を継いだ。雲水7年、和尚6年を務め、惜しまれながら典座の身を引いた。典座が重要にして尊敬される役目であることは、隠元が著書「典座教訓」として示している。

麻腐、巻煎、雲片をはじめ普茶料理の神髄をもろもろ味わった。その味わいをより一層高めてくれたのが、同席の淑女たちだった。鉢を回しあい、味の寸評をし、お茶を入れていただき、仕上げの羊羹が薄味なのを共有する。お彼岸の宴で出会ったのは、あの世のご先祖様たちではなく、現世で料理を味わう人たちだった。味わうのは料理ばかりではなかった。いま在ること、いま過ぎ去ること、いま語り合うこと、いま聞き入ること、などなど。すべてを味わっていることを自覚する。そして自覚している自分を味わう自分が傍らにいるのに気づく。春の新芽のように、自覚は生きている間に何度も芽生えてくる。寒さを乗り越えた新緑さながらに、それはいつも区切りと始まりを教えている。

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されど戴冠の春

2012-03-20 | Weblog
スーパーの生鮮食料品コーナーに春ものが並んでいる。生ワカメ、アオサ、アサリ。ビニールの袋に入っていて、新鮮、旬の文字のシールが表に張ってある。一期一会だ。食べよう。

それぞれ味噌汁の具となって食卓に上がった。初日はアサリ。既に砂抜きはしてある。アサリをざるに入れて水道水で軽く洗う。水を注いだ鍋の中にアサリを入れる。口は固く閉じたままだ。IH調理器のスイッチをオンにする。1分が経ち、2分が過ぎ、3分を回り、4分、5分、6分となって、水が少しずつお湯になっていく。じっと見入る。鍋の底にたまったアサリのうち上の方にあった1,2個が少しばかり貝の口を開け始めた。

ため息をするような、うっすら、ゆっくりと口が開いていく。お湯の温度が上がっていくに連れて、あちこちのアサリが降参したように緩やかに口を開ける。われも、われもと続いていく。長箸で開き具合を確かめていく。固く閉ざしたままのが何個かある。箸先でつついてみる。踏ん張りもこれまでだった。潜水夫が急浮上して水面で大きく口を開けて呼吸するようにして、貝の口が開いた。すべてのアサリの口が開き、湯の中で象牙色の身をのぞかせている。

2日目は生ワカメを俎上に。ぬるっとした感触に生き物であることを感じる。ナマコほど柔らかくないが、羊羹ほど硬くはない。こりこりとした手触りから新鮮さが伝わる。横に寝かせた茎の右端から縦に包丁を入れる。特に力を入れることなく、茎の中に包丁の刃先が沈んでいく。生ワカメも包丁もお互いに切れ味がいい。1㎝ぐらいの間隔で切っていく。茎から伸びた、若い女性のロングヘア部分も食べやすいように切りそろえていく。ヘアカットよろしく丁寧に、美しく見えるように包丁をさばく。沸き上がっている鍋の中にさっと入れ込む。湯の中でも生きているように平然として見える。きのうまでは海水に浸かり、今日はところ変わってお湯の中に浸かっている。それだけのことじゃないか。そう言いたげだった。

3日目はアオサ。ビニール袋の中にぎっしりと詰まっていて、イカ墨のようでもある。袋の口を台所鋏で切って、中身を小ざるに落とす。どろっと固まってざるの中で盛り上がった。軽く水洗いし、鍋のお湯の中に入れ込む。どす黒い緑色がやや明るい緑色に変わる。長箸でかき回す。お互いに離れがたいのか、ばらばらになることはない。磯辺の仲間たちは鍋の中にあっても絆で結ばれている。

アサリの味噌汁。ネギを落とす。柚子胡椒を入れる前に、まずはひと口。身は小ぶりだ。小春気分を味わう。これぞ旬の走りだよ。生ワカメのみそ汁。こりこり感がいい。海の中の滋養がいっぱい詰まっていそうだ。アオサの味噌汁。とろとろ感がいい。まだまだ冷たい海からやってきた春の使者たち。体の中に春一番がさわやかに吹き抜けた。


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超常現象の詩と真実

2012-03-12 | Weblog
目次は「あなたの知らない世界へ」から始まる。次いで7章構成となっている。占い師のバケの皮をはぐ、幽体離脱の真実、念力のトリック、霊媒師のからくり、幽霊の正体、マインドコントロール、予知能力の真偽といった具合に興味をそそる内容となっている。英国ハートフォードシャー大学教授、リチャード・ワイズマン博士の著書「超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか」は、わたしの知らない世界のからくりを解き明かしてくれた。

博士の名前がいい。これがゴーストマンだったら手に取ったろうか。冗談はさておき、読み終えた感想は、これは脳科学の本だということだ。怪しげで、謎めいて、時におどろおどろしい世界から繰り出される「アンビリーバブルな事象」に立ち向かい、腑に落ちる論理で読む者の目を開かせる。シャーロック・ホームズばりに事象の検証から真実を明らかにし、犯人の手口を暴いていく。脳の願望、脳の思いこみ、脳の誤作動などが見えないものを見てしまう背景となっているのが分かる。

博士は言う。「ヒトの脳は『自分が見たいもの』しか認識できず、『意味のないもの』にも意味を見い出してしまう。その錯覚を利用すれば、誰でも『百発百中の占い師』になれる」。あるいは「脳はつねに『選択』をしている。目に見えているものでも、認識できることはごくわずか。その虚を突くトリックで、あなたも『念力』を演じられる」。さらには「『波止場の倉庫に幽霊が出る』インチキ話の噂を流してみたところ、次々に『目撃証言』が集まった! 人はかくも暗示にかかりやすく、騙されやすい」

先だって、転倒による骨折で入院中の女性をお見舞いで訪れた際、「あなたが花を持ってお見舞いに来る夢を3日前に見た」と言われた。わたしは驚いた。当初、お見舞いの際には花を持って行こうかと思案したからだ。その後、花よりだんごだろうと、しょうがせんべいに変えたのだ。これは予知夢なのだろうか。博士によると、こういうことになる。「統計学の『大数の法則』とレム睡眠のメカニズムを知れば、予知夢など存在しないことがはっきりする」。ばっさり、一刀両断である。女性が語るロマンチックな予知夢の話は木端微塵となった。

幽霊などの正体が科学の力で解明されて、ロマンなき世になってしまうと嘆く人たちに博士は呼びかける。幽霊なんかより、はるかに素敵な世界があるではないか。その世界とは目の前に広がる現実。その中にこそ、もっと素晴らしいものがあるというわけだ。念力や予知夢という詩の世界より、センス・オブ・ワンダーが見い出す真実の世界がどんなに魅力的であることか。博士の著書を閉じて、窓の外に目をやる。鶯がテレビアンテナの上に止まって鳴いている。ホーホケッケッケッキョ。春本番が来るにはもう少し時間がかかりそうだ。太陽が照る素敵な世界が目の前に広がっている。がんばれ、鶯よ。




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奇跡の物語としての古事記

2012-03-05 | Weblog
今年が編纂から1300年という古事記は上中下の3巻で天皇家の血筋と支配の正当性を語っている。神様の物語と33代にわたる歴代天皇の系譜や事績などで構成され、天皇となる兄弟の争いや求婚、結婚の話などがあったりして謀り事やまぐわい事が綴られる。読み物として興味深く、面白いのは神様たちの物語だ。

神様はどこから来たのか。古事記は語る。天(あめ)と地(つち)が初めて姿を見せたとき、天上の高天原にアメノミナカヌシなど3神が出現しては消え、大地から葦の芽のように誕生したのが男神ウマシアシカビヒコヂ。その後にオホトノヂ(立派な性器を持つ男の意)、オホトノべ(立派な性器を持つ女の意)などを経て、男神イザナキ、女神イザナミがお目見えする。それにしても立派な性器を持つ、とはどういう意味か。「俺のことか」と自問したくなる向きもあろうが、ここではこの話題は流すことにする。

イザナキ、イザナミが天空に浮かぶ天の浮橋に立って地表をかき回してオノゴロ島が出来、そこに降り立って2人は結婚し、産めよ増やせよで神々を誕生させていく。成り成りて成り余れるところと、成り合わざるところが主役となる。風、山、水、霧、火の神が次々と生まれたが、火の神を産んだ際にイザナミは陰部に火傷を負って伏せってしまう。伏せってからもイザナミは神様を産み続ける。そのウンチから、そのオシッコから、その吐瀉物から。そんなものから神様がと驚いてしまうが、もっと驚くのはこの夫婦が兄と妹という関係だ。うーん。そしてイザナミは死してあの世である黄泉の国へ行ってしまった。

亡くなった連れ合いに逢いたくなるのは神様とて同じ。イザナキは黄泉の国へ迎えに出向く。黄泉の国で2人は再会し、イザナキは「帰ろう」と誘う。イザナミは黄泉の国の主に相談するから待っててと言って殿中に入っていく。「その間、どうかわたしを見ないで」と言い残して。「見るな」と言われても見たくなるのは神様とて同じ。禁を犯して殿中に入って火を灯す。そこに横たわっていたのはウジ虫が這い回る、腐乱したイザナミの体。恥をかかされたと激怒したイザナミは立ち上がって夫だったイザナキを追いかけまわす。怖いこと、この上ない。さて、イザナキはどうなったのか。続きは古事記を読まれたし。

実によくできた物語だ。もしイザナキが禁を犯さなかったら、イザナミと地上の世界に仲良く戻ったのだろうか。そして、るんるんで神様づくりに励んだのか。あるいは、イザナキがイザナミに捕らえられていたら。縛りあげられて、いたぶられたのだろうか。挙句に黄泉の国にとどまることになっていたら、その後のアマテラスやスサノヲの出る幕はなかったのか。ヤマタノヲロチ退治もコノハナサクヤヒメとの出会いも、なかったことになるのか。つくづく思う。神話時代から続く奇跡のような物語の中で、わたしたちはその他大勢のエキストラなのか、あるいは神様のなりすましなのか。


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リンゴ・スターを聴け

2012-03-04 | Weblog
かかったかなと思ったら早めのパブロンだが、疲れたかなと思ったらリンゴ・スターを聴くことをお薦めする。自己主張という強烈なオーラが放射されっ放しの音楽界にあって、上手くもないが、下手でもない、ゆる~いオーラを放つリンゴ。そこそこの歌いっぷりが妙にいいんだな。ぬるま湯の露天風呂で野趣ゆたかな風景に眺め入るようなゆるゆるな気分に浸れる。

ラジオの音楽番組でリンゴの特集をやっていた。ポール・マッカートニーの新曲アルバム「キス・オン・ザ・ボトム」が発売され話題になっている一方、リンゴも同時期に新曲アルバムを出したものの陰に隠れてしまっているという前振りだった。パーソナリティーがゲストの曲紹介者に「出来はどうですか?」と聞くと、「それが、そこそこなんですよ」。推して知るべしのアルバムとの評価だった。でも、これは悪い評価ではないんだ。リンゴの歌はほとんど「そこそこ」だから。

ビートルズの話題をポールとジョン・レノンという双璧が独占する中にあって、リンゴはマッシュルームカットの下で大きな鼻が目立つ、面白い顔をした4人目の男としてドラムをたたいていた。解散後にソロでやっていけるのかと余計な心配をしたくなるような存在だった。ポールもジョンもジョージ・ハリスンもみんな歌が上手いから。なんせ名前がリンゴとくれば日本人なら親しみを持つはずだよ。青森や長野のリンゴが頭に浮かんでくるじゃないか。

音楽番組ではリンゴのゆるゆるさを「オンリー・ユー」の曲を流してリスナーに味わってもらっていた。プラターズの曲として有名な作品をリンゴが歌うと、熱情あふれる大河のような曲が、春の小川のようなさらさらな流れの曲になってしまう。ほっかいろで肩甲骨当たりをじんわりと温めてもらっているような心地よさ。まさにリンゴ調のほのぼのソングに変わってしまっている。ジョニー・バーネットの「ユー・アー・シックスティーン」でも、そこそこの歌いでほのぼのソングとなっている。

いい人、憎めない人、頭の隅のどっかにいる人、ほのぼの感やそこそこの歌いが天然ものである人、1番手にならない人、人を押しのけない人、それがリンゴ・スター。アルバムづくりでリンゴが声を掛けると「やなこった」と断るミュージシャンはなく、ポールやジョンらそうそうたる面々が参加して脇役に徹している。そんな豪華な脇役を従えて、リンゴがそこそこの歌い方をする。真剣に考えてみると「これギャグじゃないの」みたいな感じだ。もしかしたらリンゴ・スターは老子が謂う「玄のまた玄」なのかもしれんなあ。



いい人はなにをやっても憎めない。






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ハッカーの見分け方

2012-03-01 | Weblog
映画「ドラゴンタトゥーの女」はスウェーデンの富豪一族を舞台にしたミステリー作品だ。ある日、一族の少女が忽然と姿を消してしまう事件が起き、その謎を解き明かしていく筋立てとなっている。検索ツールとしてのパソコンと、パソコンが登場する以前の情報整理法だった新聞のスクラップブックが謎解きの鍵となる。デジタルとアナログの共同作業で事件の背景と真相への道筋が北欧の寒々とした風景の中から次第に浮き上がってくる。

謎解きの担い手は中年の男性記者と、お顔にピアスいっぱいの若い女性だ。この女性、弁護士が後見人となっている、いわくありの経歴の持ち主。見た目も陰鬱で露悪的だが、実は天才ハッカーという設定だ。他人のパソコンに入り込み個人情報を勝手に見て盗みだすことなど朝飯前なんだ。情報をはぎ取っていって相手の素性を丸裸にしてしまう。映画の展開にとって非常に重要な役割を担っている女性だが、どこからどう見ても、そんな凄腕のハッカーには思えない。彼女がハッカー!? まったくもってそう思えないところが映画にとっては痛快な面白みとなっている。

これまでいろんな人に会って名刺交換してきたが、「わたしはハッカーです」と自己紹介されたり、肩書に「ハッカー」と印刷された名刺をもらったことがない。新聞やテレビなどでハッカーを見聞したことはあるが、実物のハッカーに会ったことがなかった。そんな話をある会社の社長にしたら、「ああ、1人知ってるよ。なんでも彼は凄腕ハッカーでね。その世界では3本指に入るほど有名なんだそうだ」と教えてくれた。どんな人物なのか。風貌は? 風体は? 会ってみたいじゃないか。社長にお願いして段取りしてくれた。

初めてハッカーに会った。30前後から30代半ばぐらいか。もちろん「わたしはハッカーです」とも言わないし、肩書がハッカーの名刺ももらわなかった。見た目はまったくもって普通の人。この普通の人という表現は幅広いが、こうとしか言いようがない。警官風、政治家風、経営者風、寿司屋の大将風、牛丼屋の店員風とか、具体的はイメージが浮かんでこないのだ。ドラゴンタトゥーの女はある意味派手で変わり者だなという風体だったが、こちらは地味で目立つこともない。牛丼屋で隣の席に座って特盛にかぶりついていてもまったく関心を寄せることもないような風貌、風体だ。世の中に紛れ、身分を潜ませているという感じでもある。

言葉を交わし、会話をしていくうちに人物像の一端が次第に浮かび上がってくる。コンピュータのことをランダムに質問していく。力むことなく、さらりと答えていく。ハードもソフトもなんでも知ってそうだと分かってくる。「その知識は専門学校で学んだの?」「独学ですよ。小学校の時からパソコンをいじってました」。コンピュータおたくであるのは間違いなさそうだ。「それだけの知識があれば、IT企業で働けばもっと稼げるのでは?」「コンピュータを仕事にはしたくないですよ。自分の時間に自由にやれるのがいいんですよ」。男性の職種は書けないが、IT関係とは畑違いだ。セキュリティーの突破やシステムの破壊もできるようだ。大それたことはやってないみたいだけど、「ある時はサイバーポリスが追跡してきましたよ」といったことはあるようだ。パスワードを解読するのが趣味らしい。

ハッカーと会った後、いろんな人がハッカーに見えてきた。いかにもじゃない風貌、風体の人がハッカーかもしれない。あのトラックの運転手はどうなのか。いつも利用する散髪屋のおやじはどうか。まさか、弟はハッカーじゃあるまいな。夜な夜な、わたしのパソコンをのぞき見していないだろうな。まさか、まさかとは思うが、うちの飼い猫もよくパソコンのキーボードを足で踏んで居座ったりしているが、よもや、よもやハッカーではあるまいな。











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