太古の時より東から上がってくるお日様。人が黄金に惹かれるというのは朝陽の色合いに感銘してきたDNAのなせることなのかもしれない。なくてはならない電気の時代らしく、電柱と電線は身の周りの景色を遠慮なく、かつ忖度なく、目いっぱいに切り刻む。
猪がいるから畑が荒らされるのか、畑があるから猪が荒らすのか。人間の判定は猪がいるから、となる。猪からすれば、そこに食べ物があるから食べただけ、何がおかしい、となる。それで風景を分断するフェンスが各地の畑の周囲に延々と設置されていく。さて、猪はどんな手を打ってくるのだろうか。
夏の盛りに栄えた植物たちは冬の到来とともに寒さに凍えて命を終える。緑の葉を落として生命力の温存を図ることで春先に花を咲かせて命をつなぐ樹木がある。環境に適応できる生き物が生き残る。そんな生物の真理を感じる歳末でもある。枝に蕾を付けた梅の木の根元に枯れて引き抜かれた鶏頭が折り重なって横たわっていた。
寒くなれば人は暖房と防寒具で乗り切っていくが、水仙という植物はそんな寒さを物ともしないみたいに平然として緑の葉を伸ばし白い花を咲かせる。真冬の厳寒の中でもめげない。なぜなの、教えてと声を掛けたくなる。まあ、黙して語らず。その清々しさが答えみたいなのだが。
それをやらせる人間がすごいのか。それをやってしまう槇の木がすごいのか。どうして、こんな曲芸じみたことをさせるのか。その一方で、どうして、こんな曲芸みたいなことができてしまうのか。どっちもどっちだなあ、と想いながら、じっと見入る。
朝のウオーキングをしていると、背後から雀の一団が追い越して前方の生垣の上に一斉に並んだ。わたしが歩いてくるのを一団がじっと見ている。歩みが進み近づいて行くと、最初の1羽がすかさず逃げの羽ばたきを見せた。それに続くように2羽、3羽と飛び去る。それでも居残る組もいる。さらに近づいてスマホで撮ると、さっと一斉に飛び立った。少し先の電線の上に一団は居座り、高見からわたしが通り過ぎるの見守っていた。どうも、遊ばれたようだ。スマホ写真で青丸で囲んだのが居残り組の一部の雀たちだ。
今日の田園風景に欠かせなくなったものはと言えば、太陽光発電装置だ。後継者難などで利用されなくなった農地が変貌していく。作物ではなく、太陽光パネルが金を生み出す。この金の卵はどこまで田園に広がっていくのだろうか。
中学校の校門そばにある掲示板の前を通る。正月を踏まえた張り紙。生徒会の手書きだろうか。辰があり、富士山があり、達磨がありと賑やかで、正月気分を味わえる。
正月気分なら、これぞ決定版だろう。ご近所の門前に飾られた門松である。見るからに福が集まってきそうな良い気分になる。青竹の切り口が福笑いしているようだ。まさに笑う門に福来る。心地よい歳末で心地よい新年を迎えよう。