戦後75年を迎える中、シリアスな戦争犯罪ゆえに正面切って笑えないナチズムをコメディー仕立てにしてあえて笑う。そんな映画を観た。ジョジョ・ラビット。米ソ両軍から挟撃され、敗戦濃厚になったナチスドイツを舞台に、ヒトラーユーゲントと呼ばれた少年兵ジョジョ10歳の男の子を主人公にした作品である。シリアスな戦争犯罪とは、ナチスが立案し実行したホロコースト、すなわちユダヤ人絶滅計画である。だから映画では、ヒトラーをはじめ、秘密警察ゲシュタポ、ヒトラーユーゲントの教官や少年たち、そしてユダヤ人少女が登場する。
コメディー仕立てと言ってもドタバタ劇ではない。ブラックユーモアと言った方がいいかもしれない。第一、登場するドイツ人たちはドイツ語ではなく英語をしゃべるのだから。これはハリウッド映画ならではの映画マジックというやつだ。英語圏の観客のためには英語をしゃべってもらわなければ理解できないよ、となるからね。この映画を見たドイツ人はナチスドイツが英語を話す訳ないだろうと首をまずはかしげるだろうが、わたしはそのうち映画の世界に引き込まれて気にならなくなる。ヒトラーユーゲントの少年たちはボーイスカウトみたいに野外で訓練に励む。テントを張ってアウトドアライフを愉しむためではなく、短剣を所持し手榴弾の扱いを学ぶ軍事訓練だ。ナチズムの意に沿わない書物をキャンプファイアーよろしく焼いてしまう焚書の体験学習もする。
ナチズムの小さな塊となったジョジョに対するブラックユーモアが、自宅の壁の裏側にユダヤ人少女が潜んでいるという設定だ。この作品はいろんな連想をもたらしてくれる。ナチズム非難はチャップリンの作品「独裁者」、少年ジョジョの風貌はギュンター・グラスの小説を映画化した「ブリキの太鼓」の主人公となる男の子、ユダヤ人少女は「アンネの日記」のアンネ・フランク、といった具合。ジョジョの話に戻ろう。なぜ、自宅にユダヤ人少女が隠れているのか? それはかくまう人がいるから。ジョジョはユダヤ人少女の存在に気づくのか? もちろん気付くさ。それでなければ話は進まないから。ジョジョはユダヤ人少女と言葉を交わすのか? 交わすさ。ユダヤ人を知るために。ジョジョはユダヤ人が自宅に潜んでいることを通報しようとするのか? しようとするさ。ヒトラーユーゲントの一員だから。それでユダヤ人少女はどうするのか? それは言えないさ。ナチズムっ子とユダヤ人少女の確執が始まるから。恐怖と滑稽、幻想と真実、思想と感性が、さまざまな形で2人を取り巻く中でナチズムは末期を迎える。2人はどうなったのか? 言えることは、多くのドイツ人たち、そして多くのユダヤ人たちが死んだということだ。なぜ、こんなことになったのか。そんな思いをこの映画はもたらしてくれる。
初回作品から50年が経ち、シリーズ50作目として上映されているのが男はつらいよ お帰り寅さんである。渥美清主演の映画フーテンの寅。当人は1996年に68歳で故人となっている。そんなに歳月が流れたのかという想いがある。毎回、旬の女優がマドンナ役となり寅といい仲になるが最後は失恋するという定番あらすじの映画ながら、作品が公開される毎に見に行くという寅ファンの女性がいたことを身近に知っている。わたしは過去何回か見たことはあるが、寅ファンというほどではない。今回見るきっかけとなったのは、知人の大学教授からの電話。話をする中で50作目を見てきたという流れになり、こんなことを言った。「いやあ、俺は泣いたね。2回も見たよ」。フーテンの寅を見て泣く? 涙もろくなる年齢でもない彼に尋ねた。「泣くってのもさめざめと泣くというのと、号泣するのがあるけど」。この問いに彼は直接答えずに、渥美清の口上―香具師による立て板に水の流れるような語りの世界―の素晴らしさなど名優の証を簡潔に語った。国民的美少女として芸能界にかつてデビューした後藤久美子も出演しているということで「彼女はどうだった」と尋ねると、「それは言わない方がいいだろう」と直言を控えた答えだった。
俺は泣いたね。それは言わない方がいいだろう。この2つの思わせぶり風な言葉がわたしを映画館へいざなうことになった。観客はわたしと見知らぬ中年夫婦の3人。がらがらの貸し切りである。初回から50年が経過して50作目とあって、過去の名場面が回想という形で差しはさまれて作品は展開していく。見ながら想う。ああ、これは渥美清と彼を取り巻く人々、そしてマドンナ女優たちへの山田洋次監督からのオマージュだ。渥美清の不変の風貌、語り口、失恋沙汰、茶の間での喜怒哀楽が繰り広げられる。家庭料理のように50年経っても飽きのこない、不思議なホームドラマだ。そうか、フーテンの寅は映画会社が松竹だったな。ここにはホームドラマの巨匠小津安二郎がいたなあ。ちょっと格式のある家庭の茶の間を舞台に原節子らが出演していた。片や山田洋次監督は下町の人情味あふれる茶の間を渥美清出演で描いてきた。
時代を飾った女優たちがマドンナとなり美貌と笑顔でもって寅作品に温かみと気品をもたらした。マドンナ以外は、渥美清をはじめ下町の生活感を醸し出す俳優たちが勢ぞろいした作品であることが分かる。俳優たちを見ながら想う。人は歳を重ねることで、若い人には決して出すことができない「味わいという人間味」をつくり出していく。歳波が寄せてくることを肯定し受け入れることを身に付ける。生き続けていくと、少しずつ老いていくんだよ、人は。それもまた人生、いいじゃないか。どんなに幸せで富があっても人は歳を取る。ちょっと華麗な加齢だが。人が不幸と貧しさの中にあれば加齢にやつれが付いてくる。
映画が50作を数えた分、時代も世代も移り変わった。後藤久美子は少女から歳を重ねて魅力のある女性となっていた。そして、50作目でどの俳優よりも各場面に生き生きとして登場している渥美清がこの世に不在であること、それも24年近い歳月にわたっていることに想い至るとき、「俺は泣いたね」の心境にたどり着く。渥美清の声、せりふ、エンドロールでの主題歌を聴くにつけ、名優はわたしの回想の中で生きている。そして、これからも。多分、不在の歳月よりも永く。