おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

博多・春馬にて

2011-08-07 | Weblog
へえ、お客さまは午後6時にお見えになるとのことでしたので、お待ちしておりました。携帯電話で店に連絡が入り、車で近くまで来ているのだが場所が分からないとのことでした。店の女性スタッフが通話中の子機を持って表に出てお車を探しました。空色のプリウスがお店から30メートル離れた路上に止まって様子見しているようだったので、スタッフが子機から尋ねました。「お客様の車は空色のプリウスですか?」「そうだよ、よく分かるね。どこから見ているの?」。お客様は路上で子機を持って通話しているスタッフに気付き、Uターンして案内した駐車場へお車を止められてから、ご来店なされました。

店は住宅街の中にあり、看板も出しておらず、目立たない作りなので、初めての方は迷われる場合があるようです。ご来店されたお客さまは男女2組でした。1組は男女ともお帽子を被っておいででした。しばらくして男性1人がお見えになり全員そろったようでした。板場の前にある一枚板の大テーブルにお席をご用意させていただきました。運転をされる男性1人がノンアルコールビールを頼まれ、後の方はグラスビールで乾杯されました。女性お2人は華やいだ美しさを感じさせました。調理に全身全霊、一刀入魂の思いで包丁を振るい、お皿に盛りつけをしておりますが、板場とお席が近いので楽しそうな話題が温厚な人柄を感じさせるお声を通じて左右の耳から入ってきます。女性の1人は関西弁でお話から京都の方でした。もう1人の方は長崎の方でした。

ご注文の刺身の盛り合わせをつまみながら、お客さまは京都と食の話題をされていました。遅れて来られた男性は横浜のご出身で京都を140回ほど訪れたことがある京都通の方でした。京都出身の女性とお話が合い、路地を入り込んだ食事処や銭湯、味覚処がいくつも出てきてました。お2人は前世では夫婦ではなかったかと思えるほどに、口から出てくるお店をいずれも訪れていらっしゃいました。「てんぷらの天喜(てんき)なんか最高だよね」。こんな声も聞こえました。「すっぽんを大市(だいち)で食べてみたいよ。1人2万3千円もするけどもね」。貴船の川床のお話では長崎の女性が舞子さんを伴って出向いたお話をされたり、祇園で一番美しい芸妓さんとお友達になったいきさつを語っていました。京都通の男性がおっしゃってました。「京都大学の先生が言ってたんだけど、京都大学でもものになる学生は2割しかいないんだって。京都大学でこれなんだから、他の大学はどうなるんだ」。全員で笑っておいででした。なぜ笑われたのかはよく分かりませんでしたが、面白いことを言われたんだなと思って、顔では笑わず頭の中で声を上げて笑いました。

食事処では京都から各地へ広がっていきます。広島・福山の「阿じ与志」は最高に旨い魚料理を出すそうです。お客様の中に名古屋の方もいらっしゃったのでしょう。「金持ちがいる名古屋なのに、おいしいものがない。きしめんに味噌カツ、味噌煮込みラーメン、ひつまぶし、それに手羽先かい」。名古屋の方が精一杯の反論をしていました。「ひつまぶしは旨いと思うんだけどもねえ」。京料理の伝統と洗練さに比べたら、やはり都落ちの内容となってしまうようです。

新鮮さが売りの博多の料理も話題に上っていました。お通しでお出ししたトマトのハム巻き、カボチャのムース、キュウリのおしんこには「これは旨い!」の声をいただきました。刺身盛り合わせでは鯨のベーコン、馬刺し、鯖刺しにトロとオールスターを味わっておられました。みなさん、箸をつけた後で会話がしばらく止まってしまうほどに味を堪能されていました。自慢のつくねでは「たこ焼きかと思ったが、なかなかいいよ。軟骨まで入ってる」。京都通の男性がわたしのことをおっしゃってました。「五番町夕霧楼に出てくる修行僧みたいだな。きりりとしているよ」。うれしい限りです。他の男性がこうもおっしゃってました。「しかし、金閣寺を燃やすなんてできないよな」。これは褒め言葉ではないようですが、小生は板前魂を燃やし続けますよ。それにしても、お話を自然と聞くことになった今夜のお客さまは最初から最後まで京都と食のお話だけでした。政治とか、経済とか、お金とか、老後とか、誰かの悪口だとか、そんなお話がまったくないのです。世の中の広さをつくづく感じさせていただきました。

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