おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

2月末日コミュニケーション録

2007-02-28 | Weblog
朝方 猫……「ミャーオー」(ご飯よこせ~)

    若き日の香川京子似の看護師……「おはようございます」(会釈)

    宮崎あおい似の看護師……「お久しぶりです」(視線)

    大学受験生を持つ母親……「娘の受験に付いて高知に行くんです」


昼間  会社会長……「無借金経営の本を読んでいるよ」

     社長……「アップアップだよ」

     常務……「銀行にはこちらの意図が伝わっていないようだ」

     経理担当……「こうあって欲しいという資金繰り表です。作文です」


夕方  スターバックスで偶然再会した、かつて勤務した会社の後輩3人   

    後輩A(出版担当)……

「書店回りが終わってひと息いれてます。売れると思った本が売れず、これは売れないよねと言ってた本が売れたりして、出版は本当に難しいです」

    後輩B(ネット担当)……「目が疲れます」

    後輩C(生活情報記事担当)……「ぜんぜん痩せません」


    スターバックスの売り子……「シュガードーナッツひとつですね」

夜間  おじや専門店で家族で夕食

     女性店員……「鍋が熱いですからご注意ください」

     知人……「指圧でいい気分。こりこりがすっきりぽん」(携帯電話)
コメント (2)

九星方位気学

2007-02-26 | Weblog
五黄殺、暗剣殺、水火殺、歳破、月破。おどろおどろしい言葉が記入された紙片を友人が眺めている。

「そうかあ、北東は凶方かあ。来月、根室に流氷を見に行くのは止めだな。西は吉方で金運に巡りあいそうだ」

まったくもって意味不明な八角形の図を前にし、奇異な発言を聞くにつけて尋ねた。

「なに、それ? 暗剣殺なんて恐そうだけど」

「気学だよ。天地の運気の流れを知って運勢をいい方向にもっていくんだ。その人にとって悪い方向に行くと悪いことがあり、良い方向に行くといいことがあるという訳。開運哲学だよ」

九星方位気学のことを説明してくれた。占いではなく、統計学的な要素と経験知に基づくものらしく、開運の学問なのだという。吉凶の方位を知ることで転居や旅行など移動先を決める。運気を充電してくれる方向が吉方で、その逆が凶方となる。

気学を構成する要素を列挙する。
①生まれた生年月日に基づく九星(一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、九紫)
②古代中国の二元論の基である陰陽(プラスとマイナス、調和と反発)
③自然界を5要素に分けた五行(木、火、土、金、水)
④天の気を10種類に分けた十幹(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)
⑤地の気を12種類に分けた十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)

これらが一定の動きの法則にしたがって組み合わされて運気の流れができ、人それぞれの吉方、凶方が年単位、月単位、日単位、時間単位で分かるという。法則を一つひとつ理解していくとそれなりに吉凶の生成に合点がいく。

九星とあるが、星のことではなく精気(エネルギー)の「精」が本意。十二支も動物を当ててあるが、これは覚えやすくするためで、本来は春夏秋冬、自然界の事象を表している。

暦なんかに書いてある「みずのとひつじ 八白」なんて言葉の意味が分かってくる。暦と気学は不可分の関係にあり、そして気学は古代中国の帝王学でもあった。京の都づくり、皇居の位置も気学と関わりがあるそうだ。

知人が言う。「あまり凝りすぎるなよ。吉方に行ったけどなんのご利益もなかったとか愚痴を言い出す人もあってね。そういう人は気学を学ぶ前に、まずは人間性を磨くことが大事なんだよ。自らがどういう程度の人物かを知ることだね」

いかほどの人物なのかと知人は問うている。どんな言葉で自らを語ろうか。易しい問い掛けだが、答えは易しくない。
コメント (1)

どろろ&墨攻

2007-02-08 | Weblog
「あーあ、ストレスがたまって食欲がないし気分がさえないよ。こういう時はアクション映画でも見てすっきりしたいねえ」。知人のこんな誘いでユナイテッドシネマに夕方から出かけることになった。

事前情報として新聞の映画欄で品定め。

「墨攻」「マリー・アントワネット」「どろろ」の3作を列挙。

上映時間を見ながら、どういう組み合わせで鑑賞できるかを検討。

映画館に電話して3本の正味上映時間を確認。

上映開始から10分ぐらいして本編上映となる「タイムラグ」を想定。

「10万の敵にたった1人で挑む」のコピーに引かれて本命を「墨攻」に選定。

「墨攻」上映前の空き時間に「マリー・アントワネット」と「どろろ」のどちらかが鑑賞できるかを検討。

時間的に「どろろ」の最終場面の10分ほどが、「墨攻」の導入部分の10分に重なることが判明。

なんとか話の展開は分かるだろうということで「どろろ」を見て、「墨攻」に移ることで決着。

「マリー・アントワネット」は「メロドラマみたいなもんだろう」との知人のひと言で脱落。

夕方からの上映前の時間を利用して天ぷらざるそばで腹ごしらえして、下階のユナイテッドシネマへエスカレーターで移動する。

コーヒーの入った紙コップを手に「どろろ」を鑑賞。女性客がいっぱい。後で分かったが、女性は入場料1000円ぽっきりの「水曜日・女性デー」だった。手塚治虫の漫画が原作。妻夫木聡と柴崎コウが出演。日本のCG技術もなかなかだなと感心しながら見始めたが、同じようなチャンチャンバラバラ、ワイヤーアクションの場面展開にだんだん飽きてきた。いくつもの妖怪と斬り合って闘う物語でノンストップアクションムービーだろうが、「もうアクションはストップしていいよ」と言いたくなってきた。すっきりしない気分を抱えたまま「墨攻」へ。

日本人作家・酒見賢一が小説で著し、漫画家・森秀樹がコミックとして描いた。製作・監督は香港のジェイコブ・チャン、音楽が川井憲次、出演者は香港のアンディ・ラウ、台湾のウー・チーロン、中国のワン・チーウェン、ファン・ビンビン、韓国のアン・ソンギ、チェ・シウォンと東アジアの表現者たちの共作の感あり。

プラスチックカップに入ったアイスクリームを片手に入場。画面では、きりりとした顔つきのアンディ・ラウが救国主として既に現れていた。非攻(専守防衛)と兼愛(自分を愛するように他人も愛する)を掲げる墨家の使徒、革離の役。体力、気力、胆力、智力、魅力を兼ね備えた指導者にして軍師像が描かれる。女も惚れる。日本人女性的な香りがするファン・ビンビンが寄り添う。

戦乱の世の映画だから実に多くの兵隊や民衆が死んでいく。見ていて、いくさはもういいだろうという気になる。映画の中の革離もそう思ったのだろう。いくさという殺戮の空しさを語る。そこで敵対する将軍や革離が仕えていた王らはどういう態度を取ったのか。素直に物事を見て、受け入れるのにも人間としての度量が要るもんだ。

コメント

細江英公 薔薇刑

2007-02-03 | Weblog
福岡市天神にある三菱地所アルティアムで写真展「薔薇刑」に見入る。三島由紀夫を被写体にした細江英公二十代後半の作品だ。

オリジナルプリントのモノクロ40点が待ちうける小さな会場には、1963年発表の作品集「薔薇刑」の初版本や撮影に使ったキャノン一眼レフカメラも展示してあった。多くの手、指紋、手相に触れられ、あるいは書架から幾度も引き出され、また何度も戻されたのだろうか、初版本を納める函の表面が擦れて印刷の一部が剥げているのが歳月の経過を物語る。

作品一点一点の前に立って直視していく。さまざまな言葉と概念が浮かび上がってくる。裸、男色、女体、陰と陽、剛と柔、死、陽物、涜聖、官能、法悦、変容、同化、溶解、生首。

真剣で腹を切り、首を斬り落とさせて果てるという官能的な死を、作品群は黙示していた。いや、黙示ではなく、その後の人生に引導を渡すように顕示していた。別の言い方をすれば、細江英公はシャッターを切りながら、自意識の塊の小説家を解体していった。世間と付き合う服を脱がして褌一枚にし、頭蓋骨を開いて精神を白日の下にさらけ出し、悦楽的な痙攣をもたらした。

三島由紀夫が細江英公序説で書いている。

「そして作品の主題は何かといふのに、写真家が、ただ主観的判断を以って表白する。
----これは本当です----
----これは写真ですから、ご覧のとほり、嘘いつはりはありません----」


細江によって解体された小説家は七年後、自ら薔薇刑の世界に入っていく。写真の中の世界、それは本当です。どのようなものであれ、嘘いつわりはありません。写真家は真実を知っているのですから。そしてもう1人、私自身も自らの真実をよく知っています。これは本当です。

ウィキペディア薔薇刑


コメント (1)