おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

カウントダウンミーティング 2020年になにをする? 下

2019-12-28 | Weblog

インスタグラムに投稿している美魔女とスターバックスで珈琲を呑みながら「来年はなにをする?」と尋ねる。

そうねえ、ドローンの操作を学ぼうと思っているのよ。

ドローン? 

そうよ。

空撮でもやるの?

地上での撮影だけでなく、俯瞰した作品を創ってみたいのよ。

美魔女はアクリル画を描いて個展を開いて作品が売れたり、一眼レフからスマホまでをこなして風景や風物、花などの写真を撮って日々是感性の暮らしをしている。ドローン操作を習得することで、虫の眼の視点に鳥の眼の視点を加えようとの想いのようだ。写真や絵の作品世界を広げようと意欲満々で、常に現在進行形の主でもある。

ドローンが登場する前は、空撮と言えばヘリコプターが主役だった。ヘリ撮影は経費が半端でないほど高額なので、マスコミや官公庁など特定の機関・団体や製作費に糸目をつけない映画会社などが活用し、個人で利用するには難があった。ドローンの登場によって空撮の手法がアマチュアからもろもろのプロに至るまで瞬く間に広がった。撮影のための新たな機材と手法のお目見えによって、インターネットでの写真や動画の投稿を加熱させることにつながっている。ドライブレコーダーが登場した時も新しいもの好きのドライバーらが走行状況や事故の様子を投稿したり、果てはあおり運転の動かぬ証拠としてネットやテレビニュースに画像が流れるようになった。

美魔女は話を続ける。

お友達のプロ写真家の男性にもドローン習得を勧めているのよ。空撮も含めて新しい映像世界を創りださなくてはね。

わたしは想う。空撮をする愉しいドローンもあれば、空爆をしかねない怖いドローンもありそうだ。今の時代を象徴する新しい技術は天使と悪魔の顔を併せ持っている。

忘年会をしよう! 知人に誘われて1次会は寿司屋で歓談、2次会は知人お気に入りのママがいるスナックへ。チーママを娘がやっていて浅田真央にちょっと似ていることもあり、彼女とお話しがしたいがために通う常連もいるほどだ。医者や経営者、行政幹部など客筋は良く、スナック業という栄枯盛衰が激しい業界で長年にわたり生き残っているのは、ママの客あしらいの良さゆえだろう。美人ママとはちょっと違うし、話題豊富なママとも違う。それでも客が集まってくる。黒を基調とした内装の静かな店内で、客たちが寛げるような雰囲気をママがもたらしているのかもしれない。それはどんな雰囲気なのかと突っ込みが入りそうだが、雰囲気を言葉で説明するのは案外難しい。スナックの雰囲気―それはママの魅力と同じ―を花に例えるならば、ヒナギクやパンジー、ヒマワリ、桜、梅、牡丹、菖蒲などいろいろあるが、この店の場合は真紅の薔薇だろうか。

知人は映画通であり、わたしは映画好きである。ここに来れば、なぜか映画の話になって、わたしたちの会話を目の前でママは聞く羽目になる。知人が役所広司と知り合いということで、俳優としての彼の話になった。

知人が言う。

仲代達也の無名塾で学んだ後、NHKの時代劇・宮本武蔵に出てから、俳優としてどんどん成長していったよね。今じゃ、日本を代表する俳優だよ。

ママがこの話に加わる。

お店に来てくれたことがあったけど、とっても素敵だったわ。高級そうなブレスレットをさりげなくしていたけれども、それが様になっていて洒落ているのよ。

知人が反応する。

まあ、俳優だからな。

ちょっと妬き気味である。話は続いていき、日本映画を代表する男優は誰なのかとなった。

知人が先発する。

役所広司か、高倉健か。

わたしがボールを受けて投げ返す。

ちょっと違いますねえ。役所広司はどんな役をやっても役所広司でしょう。高倉健も同じで、高倉健は高倉健を演じてますよ。アメリカの俳優でロバート・デ・ニーロなんか、まさに役になりきってて、デ・ニーロだとは感じさせませんね。

知人がわたしに尋ねる。

じゃ、日本には誰がいるのかな。

わたしが反応する。

三船敏郎なんか最高でしょう。戦後の経済復興期、社会の混乱期に登場した三船の魅力は荒々しさと精力的、精悍なところ。敗戦国日本で生きる逞しさを感じさせる俳優ですね。羅生門なんか最高でしょう。

知人が応じる。

そうだな。あれは監督は黒澤明だった。確か、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を取ったんだったよね。

わたしがうなずく。

そうです。

映画通と映画好きの会話はアルコールの酔いにまかせて、いつまでも続く。

話がひと段落した。毎日赤ワインのフルボトル1本を開けるという酒豪のママに尋ねる。来年はなにをする?

そうねえ、やっぱり健康づくりかしら。カーブスにでも通うかなと思っているのよ。男も捨てられる前に、こちらから捨ててやったしね。この業界、健康じゃないと務まらないから。

ワインの量を少し減らした方がいいのでは。口に出そうになったが、ぐいっと呑み込んだ。ワインも男も客あしらいも百戦錬磨のママに野暮な助言は無用だ。知人もわたしもすっかり呑まれたようだ。それもひと呑みで。

 

 

コメント

カウントダウンミーティング 2020年になにをする? 中

2019-12-26 | Weblog

師走に入ってさまざまな機会におしゃべりをしあった知人、友人たちが語る「2020年になにをする?」を綴っていこう。

まずはバイク仲間の男性から。バイクと言っても自転車のことだ。税務会計、管理会計に通じており、税務・財務について質疑すると即答できるのが気に入って親しくなった。趣味も多彩で卓球、ボクシング、縄跳び、横笛、登山、キャンピングカードライブ、サイクリングなど、ばらばらな志向でなんでもかじるところがまた気に入った。体育会系には見えない細身ながら、なにかに憑りつかれたように挑む姿勢も波長が合う。いったい何に憑りつかれているのだろうか。スポーツ万能といった自負心みたいなものを感じさせない自然体の顔つきもいい。

彼がサイクリングをするのを知って、ツーリングを立案し誘った。彼はロードバイク、わたしはクロスバイクである。ロードバイクは長距離を走行するのに適している。車体は軽く、タイヤは細い。ハンドルは競輪で見るようなドロップ式だ。速く走るためのバイクなので必要最低限の部材でできている。一方、クロスバイクは、ロードバイクと山野のでこぼこ道や未舗装路を走行するためのマウンテンバイクの中間に位置する。どちらかと言えば街乗りのためのバイクだ。ママチャリと違って、前部、後部にあるギアを組み合わせて坂道を平気で上ることができるし、ロードバイクほどではないが、高速走行も可能だ。

手前がわたしのクロスバイク、後方が彼のロードバイク。

バイクの魅力はなにか。それは、自分の脚力と体力を使ってペダルを踏み続け、自力で走行し風を受ける心地よさである。長い坂道を上っていく艱難辛苦の後に、一気に駆け下りていく爽快さは快感である。バイクと人がまさに一体となる。あっという間に下りきって平らな道に入り、そのうち再び坂道に出逢うことの繰り返しではあるが。「そんなにきつい想いをするのなら、いっそ電動バイクでツーリングをしたらどうなの」。こんな、いらぬお節介な助言をくれる女性がいたりするが、それは邪道にして見解の相違。自力走行を信条とするわたしは、電動バイクを使ってまでサイクリングをしたいとは思わない。きつい想いをしないという意味ではナナハンを乗り回すね。最近の若いオートバイ乗りの中にはナナハンを知らないのがいて驚いた。「なんすか、ナナハンって?」。道交法違反の走行でかつて悪名を轟かせた暴走族が乗り回した750ccの大型バイクこそ、通称ナナハンである。

道なき道を行くマウンテンバイク並みに話が脱線してしまった。わたしと彼は長崎市南部地区の街中から長崎港沖合に浮かぶ伊王島を目指した。陸地から島へ。海面を走ったわけではなく、島に架かる長い橋を渡って島内に進入した。

ツーリングの下見の際に撮影した対岸の陸地と手前の島を結ぶ大橋。

陸地から橋の前半までは緩やかな上り、後半は右に大きくカーブしながら島内に向かって勢いよく下っていく。海岸線を巡り、島内の小さなトンネルを通って横断し、さらに灯台がある高台まで上っていく。ギアを使ってペダルを踏む負担を最小限にしても、きついものはきつい。この苦行のような時間こそが、ランナーズハイならぬサイクリングハイへの覚醒に導いていく。苦しいことが愉しいという、精神がつくり出した苦境を乗り切る倒錯した感覚。この坂道を上り切れば楽になれる。その一心でペダルをこいでいく。

坂道を上り切った先に白い灯台が見えた。海原が広がり、対岸の陸地を眺望することができる。

ここは高倉健が主演したロードムービー作品「あなたへ」のロケ地ともなった場所でもある。わたしたちは持参したペットボトルから水分を補給しつつ、一帯を散策して憩う。スマホのグーグルアースで現在位置と道路を確認しながら、山頂部の舗装路を2台のバイクで疾走していく。途中、道路沿いに仕掛けられた箱罠にイノシシの子供2頭がかかっていた。近づくと鉄製の檻の中で2頭がなんとか逃げようとして檻の隅に頭を勢いよく突っ込んでいく。害獣として駆除の対象となっているイノシシに対して彼が小さく呟いた。「ジビエとして料理されるんでしょうかねえ」。イノシシに別れを告げ、再び島内から大橋を渡って陸地へ。ここからさらに長崎市南部にあるサイクリング専用ロードへ向かった。森林や竹林の中を緩やかな風を受けながら走っていく。頭の中に音楽が奏でられる。ブレッドが歌う「イフ」の心地よい声とメロディー。サイクリングハイだな。そう想いながら、わたしは無心の境地でペダルをこぎ続けた。

ツーリングが終わり、彼に尋ねた。サイクリング以外で来年なにをする? 彼が答えた。そうですねえ、サーフィンなんかいいですよね。う~ん、ばらばらな志向は止まらないみたいだ。

 

 

 

 

 

コメント

カウントダウンミーティング 2020年になにをする? 上

2019-12-24 | Weblog

平成と令和が交じり合った今年もまもなく終わろうとしている。日1日と大晦日に近づいていく中で、知人、友人らと会食し、おしゃべりし、珈琲を呑みながら新年の目標などについて想いを述べ合った。

まずはわたしからだが、今年2019年の目標から語り始める。書を学びなおすという想いから妙齢の女性講師について半年にわたり教えを受けてきた。瀟洒な建物のホールに月に1度集っての学びの会。書道ではなく書写である。漢字、ひらがな、カタカナの成り立ちや書き方から、毛筆、筆ペン、ボールペン、2B鉛筆など好きな筆記具で書いていく。毎回5~10人ほど集まるが、男性はわたしだけ。紅1点ならぬ白1点である。女性陣は高齢の方から30代の方までで、いずれも字が上手な方ばかり。改めて学ぶ必要があるのかなと思えるほど筆達者に見えるのだが、女性講師が朱筆を入れると、さらに美しい文字が紙の上に現れる。筆先から文字が生まれてくるという感じ。それは生き物、生命の誕生のようでもある。柔らかで、伸び伸びとしていて、見た目の美しさとともに書き手の想い―文字を書くことが好き、文字そのものへの愛情―が伝わってくる。

女性講師は言う。

書道は個性を発揮して字を書きます。書写は原則に従った書き方を知って字を書くことです。

わたしは想う。

なるほど、書家の字は多彩だが、楷書、行書は書き方が決まっている。上手い、下手、あるいは太字、細字の違いがあるにしても、誰が書いても基本の書き方や字形は同じだ。はるか昔の小中学生時代に漢字やひらがな、カタカナの基本を学習したんだろうが、歳を重ねるにつれて我流の書き方が身に沁みついてしまった。長年の相棒として我流の文字や書き方に愛着を持つ一方で、基本の「き」をもう1度きちんとおさらいしたくなった。自由奔放に描きまくる抽象画の魅力に浸るとともに、改めて具象画の描写の基本を知っておくべきだとの想いに通じるものがある。ピカソは具象画も上手いからね。

わたしは同じ生徒である女性たちに尋ねる。いつ、書く練習をしているの?

商売をしている女性も子育てをしている女性も答えは同じだった。

家族が寝静まった夜にします。

夜に? 1人静かに書くの?

そうですよ。

商売をしている女性は語る。

気持ちを込め、集中して書くには夜しかないんです。

子育て中の女性はこんな答えだった。

ヘッドホンをして音楽を聴きながら書きます。曲はロック、それもかなりヘビーですけど。

深夜、物静かそうで品のある顔立ちの彼女がロックをヘッドホンで聴きながら行書を筆ペンでさらさらと書く。その取り合わせの妙に小さく驚くと同時に苦笑してしまった。そうか、わたしがもしかしたら睡眠時無呼吸症候群で「うぐっ」と息を詰まらせているかもしれない時刻に、彼女たちはせっせと書の稽古をし続けていたのか。上手になるはずだ。

この会の愉しいところは講師の指南を受けて、それぞれが書く練習を終えた後、お茶の時間があることだ。クッキーと紅茶が用意され雑談の時間となる。文字や言葉使いなど書写に関する話題が中心。女性講師が手紙の文章の最後に相手を気遣う言葉として「寒さ厳しき折、お体ご自愛くださいね」を挙げた。それを受けてわたしが「最後の〃ね〃がいいですよね。女性からそんな言葉を掛けられると、男は〃よ~し、頑張っちゃうぞ〃って気持ちになりますよ」と発言した。講師を含め、女性たちは〃ね〃の効用に驚いた様子だった。「そうなんですか?」。わたしは応える。「〃お体ご自愛ください〃と〃お体ご自愛くださいね〃は受け手の男にとって天と地ほどの違いですよ。言葉の最後に付ける〃ね〃は殺し文句みたいな効果がありますよ」。女性たち一同、「ふーん、男ってそんなものなのかな」といった顔つきをした。

わたしは心の中で呟く。 そうなんです。男って単純なんです。

女たちも心の中で呟く。男って駄目ねえ、だから女にだまされるのよ。

 

 

 

 

 

コメント

あの日 あの場所 この風景   3

2019-12-13 | Weblog

海行かば、生生流転を感じ、山行かば、諸行無常を想う。

海でも山でも命を落としかねない難に遭遇してきた。救いの神、救いの手が無かったら、水漬く屍、あるいは草蒸す屍となって、仏壇に位牌が置かれていたことだろう。はたまた逆縁の主となることで、供養の節目ごとに「ああ、長寿の運気が無かったんだねえ」と参列者らが交わす嘆息めいたやり取りを聞く羽目になっていたかもしれない。

海にしろ、山にしろ、人々はレジャーやスポーツ、レクリエーションの舞台として友達みたいな感覚で慣れ親しんでいるが、海や山の方では人々のことなんか何とも思ってなくて、気まぐれみたいに命を軽々と呑み込んだりする。実は、海や山は命をあっけなく落としかねない危険な場所なのだ。山では滑落、天候の急変、突然の噴火などがあり、海では深みが人を引き込み、釣り船が高波で転覆し、川では急流に呑まれたりする。だから出向くときは細心の注意と準備をしておくことが鉄則である。のどかさや絶景とは裏腹に、猛威と脅威が潜んでいるのが自然なのだ。海と山は本当は怖~い場所だと心得ておいた方がいい。

海の話をしたから海辺へ向かう。目の前に広がる大海原、ではないね。

干潮で海底が露出した堤防沿いの風景。月の引力によって海は6時間周期で満潮と干潮を繰り返す。潮が引いていくときの驚異。だって沖合まで歩いていけるのだから。潮が満ちてくるときの恐怖。だって干潟に足を踏み入れて抜けなくなったときに潮が満ちてくるのを想えば分かるだろう。海は怖いところと知っていながら、そこに近づいていくのもまた人ならではである。潮干狩りをしてみたいな。アサリがいるかもしれない。たくさん獲れたらいいな。アサリのバター炒め! アサリの味噌汁! いやあ、想っただけで食欲がそそられる。さて、現実はどうか。アサリがいるような海辺では漁業権が設定してあるため、うかつに足を踏み入れると漁業者から怒られる。もちろん勝手にアサリを獲ることもご法度である。

海に行ったのならば、山にも行かなくちゃ。山道を歩くうちに、標柱がいくつか立っていて旧街道であることを教えてくれる。自動車が登場する前の時代から利用されてきた道である。かつて宿場町から宿場町をつないだ細い山道を歩いて行く。

路傍にある野仏である。花が供えてあるから地域の方が祀っているのだろう。どんな因縁で建立されたのかは分からないが、六体の地蔵菩薩が旧道を通る人たちを見守ってきたのだろう。旧道沿いには神仏習合の名残の場所があった。道端からいくつかの石段を上ったところには石造りの鳥居、その奥には馬頭観音を祀った御堂や弘法大師を納めた祠もあった。神であれ、仏であれ、助けてくれるものには何にでも拝みます。そんな素朴な信仰心がつくり上げた場でもある。ここには芭蕉塚もあった。あの俳人松尾芭蕉である。もちろん芭蕉の墓ではなく、芭蕉を慕っていた人たちが功績を讃えるために建立した石碑である。見た感じ、かなり古そうで「江戸時代のものですよ」と言われても、「ほう、そうですか」と応えたくなるほどに古色蒼然としている。

小さな境内を見回すと、こんなものを見つけた。

手水鉢だろうか。カエルかな? なんとも奇怪だなあ。遊びごころか、こけおどしか、それとも悪趣味か。六地蔵に芭蕉塚、観音、弘法大師、妖怪?などなど、予期しないものがいくつも出没する旧街道ウオークである。

 

 

コメント

あの日 あの場所 この風景  2

2019-12-11 | Weblog

書を捨てよ、町へ出よう。ではない。書を閉じて、自然の中へ入ろう。である。

引き籠もり、デスクワークが好きな半面、出ずっぱり、フィールドワークも好きなのである。

帰るべき、引き籠もる処があるから、安心して出ずっぱりができる。飼い犬や飼い猫がある日、犬小屋や室内から姿を消して行方知らずとなり、飼い主の心配をよそに数日後か十数日後に食うや食わずのよれよれにして汚れきって戻ってくるみたいなものである。「ひもじいんです。寒いんです。一宿一飯、暖を取らせてもらえませんか」。ボロをまとって見知らぬお宅の玄関をたたくほど落ちぶれた姿ではないが。

フィールドワークの面白味は、生まれて初めての見聞に出逢うことである。人間、各個人にとって世の中、知らないことの方が圧倒的に多い。だから人との出逢い、物との遭遇、風景との対面は感性への刺激、経験の上積み、生きていること、知ることの妙をもたらしてくれる。

ずいぶんと前の話だが、自転車の自損事故で入院した知人を見舞った際、同室の入院患者にかなり年配の男性がいた。たまさか、その男性と雑談したところ、こんなことを聞かれた。

「牛乳瓶はいつからこんな形になったのですか?」

当初、なんのことを尋ねているのか分からなかった。牛乳瓶? こんな形?

見れば、男性は病院食の献立にあった四角い紙パックに入った牛乳に目を向けていた。

聞けば、ガラス瓶に入り紙の丸い蓋がしてあった時代の牛乳しか知らない方だった。

もう何十年も世の中の動きというか、牛乳瓶の変遷とは縁遠い暮らしをしていたみたいだ。

戦後の高度経済成長期に入る前あたりから世捨て人や隠遁者となったのだろうか。

あるいは、限界集落のさらなる奥地にポツンと一軒家暮らしをしてきたのだろうか。

生活は家庭菜園での自給自足を徹底し、いわゆるスーパーやコンビニがある世の中に出ることがなかったのだろうか。

そんな連想をするほどに、風変わりな男性だった。まあ、日本語を忘れていなかったのは幸いだったが、健康保険証は持っているのだろうかと余計な心配を起こさせる方でもあった。

男性は紙パック牛乳に驚嘆していたが、わたしの方は別の世の中で生きてきた人に出会ったことが驚嘆だった。まっ、世の中と言うか、人間界と言うか、多種多様、いろんな方がいらっしゃいますからね。

さあ、フィールドワークの始まりだ。まずは里山地区を歩いてみよう。

元気もりもり、青々と茂っているねえ。生命力を感じる野菜だ。さあて、この野菜の名、分かるかな? 生産農家の方は「ああ、あれだね」となろうが、スーパーで野菜を買うだけの方にとっては、見知らぬ野菜ワールドとなる。答えはブロッコリーだ。生産農家にとって短期間で収穫できるし、いい値段で売れる、つまり利益が出る旬の野菜なのである。調理も至って簡単。電子レンジでチンするとブロッコリーの緑色が一層濃くなって鮮やかとなる。これに胡麻ドレッシングをかけて、もぐもぐといける。

さあて、こちらの畑には何かなっているぞ。

この一帯は日当たりと土壌がいいのか、どの作物も立派に育っているものばかり。これはなんだろうか、分かるかな。野菜検定なるものがあるのか分からないが、検定に出題されてもおかしくないほどに、あまり目にしない。野菜ソムリエだったら知っているだろうか。正解を言おう。白なすび。そう言われれば、紫色が抜けた、太ちょのなすびに見えてくる。

世の中、知っているようでいて、実は知らないことがいっぱいだらけ。だから面白い。フィールドワークの妙である。

 

 

 

コメント

あの日 あの場所 この風景  1

2019-12-09 | Weblog

1日をかたちづくるものとは何か。

静と動の時間。寝ている時と起きている時。デスクワークとフィールドワーク。肉体労働と頭脳労働。

愛している時と愛していない時。食べている時と食べていない時。考えている時と考えていない時。

陰と陽。プラスとマイナス。男と女。大人と子供。若者と老人。そして生と死。

ある男の行動と頭の中身を観察しながら、考察を深めていこう。

デスクで本を読んでいる。書名は「21匹のネコがざっくり教えるアート史」(ニア・グールド、すばる舎リンケージ、2019年)。古代エジプトから始まって、ビザンティン美術、ルネサンス、ロココ、印象派……途中割愛……フォービズム、キュビズム、ダダイスム、アール・デコ、シュルレアリスム……またも途中割愛……ポップアート……さらに割愛…ヤング・ブリティッシュ・アーティストに至るまでの21のアートトッピクスと代表作家の作風を簡潔な文章と絵で説明している。猫が案内役を果たしているが、アートトッピクスの技法に応じて猫がモデルとなってさまざまに描かれている。猫とアートが好きな人にとっては悦楽の時間を持てること請け合いである。いわば大人の絵本。美術史を語る本はいくらでもある。それだけに新規参入を目論む本は従来のものにはない視点が求められる。そこで行き着いたのが、この本という訳。

ひと通り本に目を通すと、さて、何をしようか? テレビ画面でYouTubeの音楽でも視聴してみよう。

映画「The Way We Were」(邦題・追憶、1973年、米国映画)の主題歌を聴く。ロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが主演した作品。第2次世界大戦後、米ソの冷戦に伴って共産主義への恐怖がハリウッドに「赤狩り」をもたらした頃を主な背景に男女の出会い、恋愛、結婚、離婚を描いている。男女の切ない人生路をストライサンドが語り掛けるように、あるいは自らに言い聞かせるように歌い上げる。いい歌だ。失恋、離別、すれ違い。男と女がつくり出す恋と愛の感情は単純のようでいて複雑で、複雑のようにして単純でもある。嫉妬、過ち、後悔。身に覚えのない男と女はどれくらいいるのだろうか。

 

コメント