暑くもない。寒くもない。湿気もない。4月の或る日のことだ。
青空が広がり、微風が窓から通り抜けていた。
身も心もともに心地よさを感じ入った時候の真っただ中。
靴下を脱いで素足になりたいと思った。
身ぐるみはがされた足に見入る。
血色のいい足の裏を両手の指や掌で撫で、足の指1本ずつを丁寧に揉みほぐす。
足裏の皮膚には艶があり、筋肉にはほどよい弾力がある。
踵にひび割れもなく、水虫も生息していない。
脂ぎってもいないし、汗臭くもなく、蒸れてもいない。
道具を手入れするようにして足先から足首までをいたわることが習い性となった賜物だった。
汗をかけば洗い流し、靴下は毎日替え、冬場には暖かくしてあげ、乾燥には保湿で対応した。
顔や手先の手入れが脚光を浴び、人目にさらされる部位に対し、足先は隠れた存在として生きてきた。
靴のデザインや靴下の素材に関心を寄せるのに、足首から先は脇役止まりだった。
足は靴や靴下の主役もしくは本体でありながら、いつも黒子役に追いやられる。
夏場になれば裸足が主役を張れるのではと思いきや、ビーチサンダルの方に注目が寄せられるのが常だ。
地面に立ち、頭や胴体、両手、太ももなど体の主要部分をたった2つの足の裏で支える重要な役割を担っていながら、栄誉は顔立ちの良さや手先の美しさに横取りされる。
なんでやねん。ホワイ? 私のことを忘れないで! こんな呟きを甲と裏でできた足先はすることもない。ひたすら寡黙に、体の下の力持ちに徹している。
こんな、忘れられた極めて偉大な存在である足先を大事にしようと思ったのにはきっかけがある。
それがなければ、足の手入れに思いを至らせることもなかったろう。手入れをしなければ、藪や雑草で荒れた庭みたいにひび割れ、水虫など皮膚の病を養う場所となっていただろう。
きっかけの1つは新聞の読者投稿欄か短いエッセーだったろうか。
こんな文意だった。
中年となった息子の遺体に接した母親の思いを綴った文章だった。逆縁の哀しみ。企業戦士だったのか、息子は突然倒れてあっけなく世を去った。衣類を身に付けた体の中で足先だけが靴下を脱いだか、脱がされた状態だった。母親は息子の足の裏を目にする。長年にわたり手入れもされず、朝から夜まで使い回され、履き潰された靴のような足だった。
母親の思いはいかばかりだったろうか。こんなになるほどまでにお前は働いて生きてきたのかい。使い古しのぼろきれみたいになった息子の足に、逆縁の悲哀がいっそう募って涙を誘ったのだろうか。赤ちゃんだったころの息子のかわいい足の末路が、冷たく、生気を無くした、くたびれきった足だった。
息子の足の裏に涙した母親の文章はこころに残った。自戒とともに生活信条の1つとして、足を粗末にしないことにした。
さらに足の手入れを大事にする意識を固め打ちしたきっかけの2つ目がこんな経験である。
高齢となり介護が必要となった父親の足を目にしたときだった。足先の清潔を保つためにお湯で絞ったタオルで拭こうとした際に靴下を脱がした。驚いた。高齢からくる皮膚の乾燥で艶がなくて干からびた感じの足だった。さらに、踵にひび割れが走り、汚れたぼろ靴みたいな印象だった。どうして、こんなになるまでほっといていた! 足先をお湯で洗い、保湿クリームを施し、指1本ずつを丁寧に揉みほぐし、足の裏のツボを押すようにしてマッサージをした。皮膚の病を治すため皮膚科へ連れていったりもした。長期間の手入れのお陰で高齢老人にしては艶のある足にまで回復した。もっとも体を支えて1人で歩くには覚束ない状態ではあったが。
足をめぐる2つのきっかけで手入れを怠らないようになった。当たり前のことだが、清潔と保温に留意し、汚れを拭い、両手もしくは足専用ローラー器でマッサージするのを怠らなくなった。なにより心地よいから継続できる。猫や犬を愛玩するように、2足に対しても同じ気持ちになってくる。靴もデザインや素材以上に履きごこちが購入の筆頭基準となった。
素足になったわたしは和室へ向かい、障子を開いて畳の上を歩く。足の裏で感じる畳のさらりとした爽やかな感触がすーっと体の上の方へ上がってくる。足の裏の心地よさ、畳の心地よさの2つを味わう。この感覚は靴下や足袋を履いていては感じることができない。素足だからこそ伝わる絶妙な皮膚感覚であり、暮らしの中で素朴に味わえる幸せでもある。立ち、歩くことを支え、可能にしてくれる最大かつ最良の相棒が2つの足だ。足の甲、裏、踵に目を注ごう。清潔で艶のある足は物語る。見えないところも美しくは美徳の1つであり、体の隅々まで行き渡った品性の良さの象徴でもある。