おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

緑陰の午後 図書750号

2011-08-17 | Weblog
本屋にふらりと立ち寄ったのは、旅行雑誌のインタビュー記事を読むためだった。その人の名は八千草薫。むかし、むかしのそのむかし、わたしは彼女に会ったことがある。正確には遭遇したことがある。場所は大学時代の夏合宿地となった富山・氷見。海岸沿いの高台にあるお堂が舞台だ。猛暑の中で武道の稽古で疲労困憊したわたしたちはお堂の周りでへたっていた。くしゃくしゃにされた新聞紙みたいに憐れだった。日ごろは合理性のあるけいこをしていたが、夏合宿には無理・無駄・無意味を強いる内容もあった。

「全員、お堂の柱にしがみついてセミみたいに鳴け! 夏ゼミに負けるな」。上級生の命令は絶対である。ミーンミンミンミーン、ツクツクボウシ、ツクツクボウシ、ミーンミンミンミーン。姿は人間、動作と声はセミというハイブリッドなわたしたちを遠巻きに眺める女性がいた。笑い声は上げないが、笑みを含んだ特徴のある顔立ちにピンときた。セミ人間ごっこに飽きた先輩が大声で号令を掛ける。「階段を下って校庭に整列!」。わたしたちはその場を離れた。その女性の立ち姿は、からからに乾いた喉元を通る岩清水、いや桃の滴みたいに思えた。猛暑の中の清涼なる存在、それは八千草薫。その夜、宿で語るわたしの遭遇談に他の仲間は取り合ってくれない。「俺たち以外に誰もいなかっただろう」「幻覚じゃないの」「白日夢だな」「禁断症状だね」。否定されて逆に気になる女優となった。旅と山登りが好きというのも指向が同じで好感がもてた。

インタビュー記事にはネパールの話が出てきて「やっぱり指向が同じだな」と悦に入った。いい気分なので書棚の背表紙や平積みの表紙を見て回る。旅、戦争、小説、ノンフィクション、新書、文庫の棚を巡っていく。スティーブ・ジョブスの名言集を手に取る。ジョブス関連はいくつか出ているようだが、著書が本人ではないというのが購買意欲を削ぐ。ぱらぱらとめくって拾い読みをして元に戻す。ターシャ・テューダーの本も人気があるようだ。創作活動に携わる者の理想の生き方の1つを示している。書棚が途切れた一角のテーブルに自由にお持ち帰りくださいと書かれた札が置いてあった。文庫の解説本などが見放されたように積まれている。文庫本より判型が大きい書が目に付き手に取った。表紙には「図書 8 2011 岩波書店」の文字と数字、西洋の木版画の写真があしらってある。

白い簡素な表紙をめくり、目次と巻頭エッセーに目をやる。大江健三郎、丸谷才一、佐伯泰英、高橋睦郎らの名前が並んでいる。書き手は知らないが、「コルトレーンとは何者なのか」「災害と『予言文学』」「大震災の中の読書」「文人の曝書」「神曲<煉獄篇>第八歌」などのタイトルが読む気を誘う。表紙も紙質も書体も編集スタイルも昔のままだ。出版界の生々流転、書籍界の有為転変にもかかわらず不変の体裁を継続している。永遠のスタンダードだ。若き日の意思と体形を何十年経っても失っていない。岩波書店の名刺とも言える雑誌、それは図書。代々の編集者たちの努力と選択眼によって、図書には完成度の高い文章が書き継がれてきた。

紙面の後半は新刊の紹介ページだ。書名を太字でどんと打ちだして、その横か下部分に内容を数行で表すのも昔のままだ。解説は簡にして要を得、それでいて核心の妙を忘れていない。世界で最もちっちゃな書評だ。単行本とは別の次元で図書は読み応えがある。「大震災のなかの読書」(野家啓一)は3・11の体験談とその後の日々を本と絡めて描いている。最後の部分を抜き書き。「停電のため蝋燭を灯し、眠られぬ夜に開いたのは、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対話『すぐ絶滅するという紙の書物について』(工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ)である。カリエールはニ〇〇六年のニューヨークの大停電に触れながら、電子メディアについて「電気がなくなれば、すべてが失われ、手の施しようがありません。それに対して、たとえ視聴覚的遺産のすべてが失われたとしても、本だけは、昼間なら太陽光で、夜だって蝋燭を灯せば、読むことができます」と述べている」

営々と刊行されてきた図書は8月で750号を迎えた。各月発行で1年で12号とすれば、750号の歩みの大きさが伝わってくる。執筆者と編集者が豊かな知性を駆使して作り続けてきた雑誌を知り得ただけでも、読書好き冥利に尽きるというものである。図書が醸し出すもの、それは1ページ目から最終ページまで貫かれた編集の丁寧さと品格である。品格のある雑誌なんて、そうそうお目にかかれない。
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