酷暑が続く真夏の昼間が宵を迎えて、夜の幕が上がると、心地よい音楽でも聴いて過ごそうじゃないか。設定は休日前にして夕食後。ワインの晩酌が済み、珈琲とオレンジパウンドという締めの飲食を経て、音楽のひと時となる。今宵の選曲はYou Raise Me Upだ。人生の応援歌。いや違うな。人生を応援してくれる人への感謝の歌か。作曲、作詞の主はウッキペデアで調べてもらうとして、曲調はアイルランド民謡ダニーボーイを下敷きにした感じ。歌詞はいろんな意味で力添えをしてくれる人にYou Raise Me Upと何度も呼び掛けて思いを述べる。直訳だと、あなたがわたしを立ち上がらせてくれただが、いろんな訳詞があり、勇気をくれただとか、手を差し延べてくれたなどと、訳詞者の状況把握力と、英語から日本語に紡ぎかえる力によって意訳を含ませて微妙に変わって来る。訳詞者によっては原文の言い回しとは完璧に離れた訳に仕上げている場合もある。まあ、感謝の歌が180度回転して愚痴不平という真逆の歌になった、ということではない。英語原文の意味と表現、言い回しを、訳詞として日本人の琴線にぴたりと触れる意味合いと日本語の言い回しに置き換えるのは、英語と日本語に人並み以上に通じている訳詞者にしても案外難しいと推測する次第。
You Raise Me Upはいろんな歌手が歌っている。主語のYouを神、もしくはキリストのことではとの声もある。作詞者の想うところは不明だが、ここは素直に人間としての男もしくは女と見立てる方がいいみたいだ。その方が歌詞が表現する世界に広がりが出て、聴く人それぞれが自らの想いを歌詞に寄り添わせ、託しやすい。YouTubeで聴き比べる。男性あり、女性あり、ソロあり、グループありだ。歌手だから皆それぞれ個性がある。共通しているのは皆上手いということだ。決定打は聴き手の琴線にどこまで深く触れ共鳴させるかどうか。アイルランド出身の女性グループ・ケルティックウーマン、ニュージーランド出身のヘイリー・ウェンステラ、オランダ出身のマーティン・ハーケンス。ケルティックウーマンは全員美人揃い。映像があると、歌より美貌に眼が行ってしまうという難点が当たり前のように出てくる。歌の世界に浸りたいならば、映像なし、歌声だけをお薦めする。修行中の禅僧じゃあるまいし美女を見ずして何が人生かと思う向きは、歌声だけの後に映像でたっぷりと美貌を堪能するという次善の策を提案しておく。
ヘイリーは天使の歌声である。どうして、こんなに澄んだ美しい声が出るのだろうかと思うほどに美声が極まる。何を歌っても美しく仕上がってしまう。美声の主が自らの美声に酔いしれると、それが鼻についてくるという宿命がある。美声だけが目立ち、歌詞の深みがあっという間に失せてしまうという訳だ。聴く人1人ひとりに語り掛ける歌詞が、上っ面だけ、字づらだけの歌となる。上手に歌っているけど、心に響かない。そんな美声のパラドックスに陥りかねないのが美声の歌手たちである。さて、ヘイリーはどうか。美声の歌姫としてすくすくと育ってきたという風貌である。目が合って、にこっとされたら、好感を持つだろうね。ましてファーストネームで呼ばれたりすると、もうぞっこんなファンになるだろう。地位があろうが、経験があろうが、本当に男というのは馬鹿みたいに単純素朴な精神を脳内の一部に遺伝的に持っているみたいだ。
それでヘイリーの歌声に戻るが、なかなかいい。まず歌に出てくるYouが、もしかしたら、俺のことを言っているのかな、と男性の聴き手たちが錯覚しそうに聞こえるからだ。この状態はファン心理ゆえの、熱に浮かされて想い込みが先行したからかもしれない。彼女への力添え、手を差し延べることに男の矜持をこちょこちょと、くすぐられる。8千m級の山だろうが、暴風吹きすさぶ嵐の海だろうが、この俺が先導して登頂や航海を成し遂げさせてあげるよ。まかせろ! 先の事をまったく考えずに口約束してしまいそう。 この1本気の行為、後先考えない猛進を、人生の中で少なくとも1回はやらかす軽率さを男は遺伝的に持っているようだ。落ち着いて冷静に考えれば決して選択することのない事にも関わらずだ。ヘイリーの場合、歌声だけを聴くのもいいが、ケルティックウーマンと共演した映像版が聴き応え、見応えがあり、いい気分になる。ファン心理は暴走し、単独で歌うスカボローフェアなんかもいいなあ、と話が脱線気味となる始末。
男性の歌い手でいち推しはマーティンだ。プロモーションビデオだろうが、街角での映像がよく出来ている。石畳の路上には投げ銭を入れる帽子が置いてあり、その前で初老風の恰幅のいいマーティンが立っている。美男ではない。風采が上がっているとも見た目は言い難い。身なりも一般人と変わらなく見える。通行人たちが何事が始まるのかと怪訝そうな表情で見守っている中で、マーティンが歌い出す。女性歌手の美声とまるっきり異なる渋い声。人生の艱難辛苦、甘いも酸っぱいも経験してきたような声でもある。歌詞の1語1語を噛みしめるように、自らの想いを託しきったように、窮地にあった自らを救ってくれた人への感謝の念を歌っていく。マーティンを遠巻きにしていた通行人たちの心に歌声とその意味が染み込んでいく。声と歌詞が感動の波紋となって広がっていく、最初はさざ波のように小さく、次第にそれは大きくなって聴く人の心の中に押し寄せる。なんて素敵な声。いい歌詞だな。そんな呟きや想いが通行人たちの表情から見えてくる。プロモーションビデオみたいだと分かっていても、歌手冥利に尽きる路上パフォーマンスの映像である。感謝すべき相手のことを想いながら、気持ちを込めて歌う。歌の上手さに酔うことなく、しかし聴く人に歌詞に込めた想いが伝わるように歌う才を力みなく活かす。いい歌を聴いたなあ。そんな想いに満たされるのがマーティンのYou Raise Me Upだ。