おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

見参 これにて見納め紅葉狩り

2017-11-28 | Weblog

紅葉狩りの賞味期限は11月いっぱいである。12月に跨ってはいけないのか? いけません。12月は大晦日という新年への関所が末日に控えていて、皆なんだかんだで忙しいからね。紅葉をゆったりと愛でてる時間はありません。ということで末期を迎えている紅葉を求めて彷徨してみた。

花いちもんめの替え歌を歌いながら九州のとある地で紅葉狩りを試みる。

♪紅葉もとめて花いちもんめ

あの子がほしい!

あの子じゃ分からん?

 

この子がほしい!

この子じゃ分からん?

相談しよう! 相談しよう!

 

花子ちゃんがほしい!

 

太郎ちゃんがほしい!

 

じゃんけんぽん!

勝ってうれしい花いちもんめ!

 

負けてくやしい花いちもんめ!

これまでは紅葉篇、ここからは黄葉編で歌ってみようか。

勝ってうれしい花いちもんめ!

 

負けてくやしい花いちもんめ!

太郎ちゃんがほしい! 花子ちゃんがほしい! じゃんけんぽん!

旬を過ぎた紅葉狩りの地はいたって静かでした。他に人がいなかったから。東京・高尾山のように人々が殺到することもありません。映画館を貸し切って総天然色の絵巻物を観賞している気分でした。何度観ても自然の妙に感心させられます。鼻歌のひとつも出ようというものです。

♪眼福うれしい花いちもんめ

 

 

 

 

 

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晩秋の葬送

2017-11-26 | Weblog

山荘のお隣の年配女性が亡くなった。野芝が生えた小道1本を挟んで互いの庭が地続きで顔見知りでもあった。元小学校教諭。同じ教職のご主人を既に亡くして独り身で暮らし、庭いじりが好きな方だった。200坪はあろかという敷地には四季折々に花が咲くようにしてあった。膝を痛めてからは月に1、2回は庭師を呼んで、自分ではできない剪定や草刈りをしてもらっていた。いつも手入れが行き届いた庭を保っていた。庭仕事をしている彼女に挨拶すると招き入れられた。庭に据えた自然石を使ったテーブルでお茶を飲みながら野菜づくりや庭づくりの話をした。手作りの梅干しや大根、ホウレンソウなど野菜のお裾わけも度々だった。お礼に夕食に招いて食事をともにしたこともあった。

年を重ねて、どういう風に暮らしていくかの見本を示していた。1日の日課がきちんと決まっていて、食事の管理、家の掃除、家財の整理整頓、認知症予防のための方策などを規則正しく実行していたことを話してくれた。元教諭とあって知識欲も旺盛で新聞を購読し、テレビでニュースを視聴し、NHKのラジオ深夜便を聴くのが愉しみでもあった。食器棚にはお気に入りの皿や椀類がきちんと並べられていた。小さめのダイニングキッチンは少ない動きでしたいことができるようにまとめられていた。まるで航空機のコックピットのように機能的な空間。1日の大半を過ごすのに快適なようにしてあった。手持ちの可愛いお人形を月替わりで玄関の下駄箱の上に飾って月日の経過を愉しんでいた。春にはお雛さま、冬にはクリスマスツリーといった具合に。遠方にいる独り息子さんから同居の呼び掛けがあっていた。高齢の母親の身を案じての誘いであったが、彼女は「むこうの近隣に知ってる人はいないし、ここでの庭いじりが好きなのよ」と言って断っていたという。

晴れた日に庭師とやり取りをする彼女の大きな声がよく聞こえていたのが、ここしばらくなかた。そのうち雨戸が閉められていたのに気付いた。最初は、旅行にでも行ったのかな。そんな想いだった。日が経つにつれて、膝が不自由な年配者の旅行にしては長期間留守にしているな。ちょっとおかしいぞ。そんな疑念が出てきた。地域の情報通の新聞集金人がやってきたので、お隣のことを尋ねてみた。「新聞を止めておりますよ。なんでも入院したんだそうで。息子さんのところに行ったみたいですよ」。閉め切った雨戸の理由が分かった。わたしと面識がある息子さんの所ならば、彼女も安心だろう。そんな想いだった。

訃報を知ったのは地域をまとめる班長さんからの電話だった。地域で誰かが亡くなったときには通夜や告別式の連絡があるのが習わしの土地柄。電話口で故人の名前を告げられたとき、わたしは思わず声を上げた。「お隣じゃないですか!」。夕方に仮通夜を自宅でするので自治会長らが受付のお手伝いに出るとのことだった。「わたしもお手伝いしますよ」。そう言って電話を置いた。週末の休日ゆえに無精にしていた髭をきちんと剃り、喪服を用意し、紐付きの黒の皮靴を玄関に揃えた。彼女のことを振り返る。最後に会ったのは? 雨戸が閉め切ったままになる1週間ほど前だったろうか。走行中の車の運転席から自宅近くの路上の彼女を見つけて会釈した。擦れ違いざまで見えにくかったのか、彼女が「あれっ、誰だったかな?」。そんな表情をしていたのが、わたしの記憶にある生前最後の姿となった。

自宅から仮通夜のある彼女の自宅まで歩く。1分あるか、ないかの距離だ。庭伝いだったら10秒ぐらいだろうか。自治会長夫妻、班長さんと近所の女性たちが玄関前で受け付けをしていた。香典を手渡し、記帳をし、親族の案内で玄関を上がり、彼女が眠る広間に通された。顔立ちがひと回り痩せて、すっきりした風貌で彼女は目を閉じていた。髪にきちんと櫛が入れられ、唇には赤い紅が差してあった。枕元に息子さん夫婦が正座していた。横たわった彼女のそばに線香、線香立て、鈴(りん)、それに白木の十字架と白菊が載った台が置かれていた。彼女はクリスチャンだったのか? ご冥福の合掌をするために、線香に火を灯して線香立てに置き、鈴を鳴らし、数珠を手に心中で念仏を唱えた。息子さん夫婦もクリスチャンだった。お悔やみを言い、彼女との想い出話をし、息子さんは病状から召されるまでのことを話してくれた。最初の入院先から、終末期医療いわゆるホスピスの専門病院に転院し、そこで息子さん夫婦や孫娘らが歌う故郷(ふるさと)の歌を聴き終えると、「ありがとう、それじゃ」といった風に笑顔を見せて、すーっと息を引き取ったいう。

最初の入院から亡くなるまでの期間は1月半だった。「とっても幸せな召され方だったですね」。彼女の紅を差した顔を見ながら、わたしは息子さんに声を掛けた。「美人だったんですねえ」。化粧をした彼女の顔をわたしはこれまで見たことがなかった。息子さんが応えた。「最初の入院で食事が出来なくなって痩せたんですよ。亡くなった母の姉たちも同じ顔立ちだったです。ああ、やっぱり姉妹なんだなあと思いました」。児童たちを前にして、凛とした顔立ちで颯爽とした振る舞いで授業をしていたであろう若き日の彼女のことが偲ばれた。

仮通夜、通夜が過ぎ、告別式が街中の葬祭場で執り行われた。お隣のよしみで近所の人たちと受付にわたしも立った。受付の前には会場を映し出す大型のスクリーンが壁に掛けてあり様子が分かる。キリスト教式の告別式への参列は2回目となる。牧師が進行役となった。讃美歌があり、電子オルガンの伴奏は彼女のお孫さんの女学生だった。讃美歌を歌う牧師が美声だった。息子さん夫婦とお孫さんの3人が故人に捧げる歌を歌った。アメイジンググレイス。音楽一家ならではの情感が籠もった歌声だった。葬祭場のスタッフに促されて供花の列に並び、遺影を前に手を合わせた。息子さんの喪主としての挨拶があり、出棺の儀となった。黒塗りの霊柩車が待機する玄関先に参列者は集まった。黒地に白い十字架をあしらった布に覆われた棺を親族の男性らが抱えて出て来た。棺が霊柩車に載せられ、運転手の年配男性が留め具で棺を固定するとバックドアをゆっくりと丁寧に閉めた。88歳の生涯だった。

告別式から1週間余り。お隣は雨戸が閉まったままだ。手入れされた庭はそのままである。朝夕の冷え込みがあるため、春先や夏場のように雑草がたちまち伸びることもない。庭いじりが好きだった主がいない中で、よく剪定された楓が紅くなった葉を揺らしている。不在の静けさに包まれた庭を前にして、わたしは目を閉じて再び冥福を祈った。

アーメンも無言になりし秋の庭

 

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インドアでアウトドア風の軽食をしてみたら

2017-11-24 | Weblog

屋外で寒風が吹く中、屋内で片付けに勤しむ。お昼も近くなったことだし、片付け予定の物が散乱した部屋の床に空間を見つけて軽食タイムを取る。あぐらを組んで座り込み、ランチョンマットを敷いて、気兼ねなく、思うままにお気に入りを頬張り、呑んだりする。インスタ映えしない、わが軽食を振り返ってみよう。

シーン1

1000円程度の家呑み赤ワイン、グラスは呑み干して空、フォークとスプーンが乗った皿にはウインナソーセージがあったが、マイユの種入りマスタード(赤ワインの瓶とワイングラスの間にある小瓶)をたっぷりと塗られて、今は胃袋の中に納まっている。

シーン2

ウインナソーセージを食べる前には、カボチャとトマトをレンジで温めたものを食していた。体のために温野菜を! ということ。

シーン3

温野菜の前は何だったかと言うと、こんがりキツネ色の食パンにブルーベリージャムをたっぷりとつけて頂きました。ブルーベリーはお目目にいいとのことで選択と集中の1品に。老眼にも効果はあるのかな?

シーン4

秋たけなわだから旬の果物となると、柿は筆頭格でしょう。左の方の柿は熟れ具合が進み、どろっとしたというか、ぬるぬるした果肉が官能的な味わいをもたらしてくれた。

シーン5

軽食の合間にテレビでも観てみるか。ろくなニュースしかないし、つまらないトークで不要なストレスが溜まるのが昨今のテレビ番組である。NHKのEテレぐらいがまともに観ることができるかな。

シーン6

大の大人が食事をするのにアルコールは赤ワインだけでいい。そんなに大人しくしてていいのだろうか。1次会があれば、2次会があるように、2番手はコロナビールだ。いい気分になってくるねえ。

シーン7

酔い心地がいいとね、眺めるだけで爽快にさせてくれるものはないかと周囲を見渡すことになる。ドロップの缶に富士山の写真が刷り込まれている。霊峰は小さな缶に納まっても、惚れ惚れとさせるものを持っている。

シーン8

話の落ちは、結局お金! ということではない。世界を支配するドル経済について沈思黙考してみただけさ。米国人民の、米国人民による、米国人民のためのドルは世界通貨だけれども、日本のスーパーでは種入りマスタードやウインナソーセージさえも買えないのです。リンカーンが世界に冠たるドル紙幣だぞ! と言ったとしてもね。いやいや、リンカーンはそんな恫喝めいたことは言わないな。トランプなら言うかもしれないが。

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影を慕いて 平成弐拾九年霜月或る朝

2017-11-21 | Weblog

或る朝、いつものように散歩をしていると、見慣れている風景の傍らに見知らぬ風景が寄り添っているのに気付く。う~ん、なぜ今まで気付かなかったのか。そう思ってもう一つの風景を記録する。いや、言い方が固いな。スケッチする。素描する。うん、こっちの言い方がいい。

お伴の与太郎に声を掛ける。

おい、クロッキーブックを持ってきな。

檀那さま、平成の世も弐拾九年ともなりますと、これでございますよ。

なんじゃ、それは?

スマホって言いまして、太郎冠者も猿面冠者も使っております。

そんな邪道の画具なぞ使わんぞ。わしが構図を指示するからお前が使え。

 

与太郎、まずはここだ。パチリと行け!

檀那さま、これは何でござるか? 何かの捜索ですかな。小判とか金印とか?

与太郎、朝が早いから頭の血の巡りがよくないみたいだな。雑草地の草刈り作業だ。

セイタカアワダチソウにススキ、そして林の影、雑草の影、この味わいが分からんのか。

 

与太郎、こっちだ。ここからの景色を撮れ!

檀那さま、影は見えませんが。

稲刈りした後の田んぼに黒っぽい影があるだろうが、見えんのか?

檀那さま、あれは脱穀した後の藁を焼いた跡でごぜいますだ。

ごぜいますだ? それ、どこの方言じゃ? 

檀那さま、都合が悪くなって話をそらしてまするな?

まするなって、言いまするな。

 

与太郎、ここだ、ここだ。さあ、撮れ!

 

農業倉庫と農道と土手ですよね。これって面白いですか?

与太郎、陽の風景の中に陰の風景が入り込んでいるだろう。

倉庫の影のことですかい?

そうだ、この影がいいんだよ。影がないと、つまんない風景になるだろう。

 

与太郎、こっちだ、こっちだ。ここもいいぞ。

檀那さま、どこに影が? 森の影はさっき撮りましたよ。

森を見て影を見ずだな。畑に出来た耕運機の溝の中に影があるだろう。この絶妙さ、分かるか?

分かるような、分からないような。曲線の面白さは分かりますが。

 

なんておいしそうな影! 

白菜畑の影、そんなにいいすかねえ? この影、おいしいですか?

この豊満な影を見よ! 白菜が見事に育ち、盛っているのが伝わってくるじゃないか。

白菜の影も水炊きにできますかね?

できるはずないだろう!

 

影萌えって、これだよなあ。 

黒いアスファルト舗装路に黒い影ですよね。影がないとつまらない風景でございます。

影の魅力が少しずつ分かってきたみたいだな。

 

檀那さま、これもいい風景でございますよ!

楠の大木のすっきりとした幹の影。それに寄り添う黄葉を付けた銀杏の大木だ。

夫婦の大木は影もようございますねえ。

 

檀那さま、これも傑作でございますよ。

与太郎、お前最高! 朝陽に照らされた毛並みと、影が重なった毛並みの対比!

陰と陽、静と動、暗と明、世界はこれらで出来ているんですよね、檀那さま。

与太郎よ、今まで影が薄い人物だと思っていたが、ちと考えを変えんといかんな。

いいえ、わたくし根っからの影のある人物でございます。

それは洒落のつもりか? ダハダハダハ。

檀那さま、影のない笑いでございますよ。

うん? そうだな、クスクスクス。これでどうじゃ?

影に深みがある笑いでございます。

そう思うか、一緒にこっそり笑おうぜ。

クスクスクス、クスクスクスこんな感じかな。檀那さま、最高に影のある笑い方でございますねえ。

 

 

 

 

 

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花も実もある身辺の雑記

2017-11-15 | Weblog

仕事、勉学、家事あるいは世間との付き合いにちょっと疲れた時、どうやって憩いのひと時をつくろうか。

テレビ、ラジオ、ネット、新聞、雑誌、本に憩いの場を求める?

いや、情報の海へ船出するのはよそう。

頭を使うことなく、ただ眺めているだけで憩えるものは?

絵画、写真、彫刻はどうだろうか。

いや、人の手が加わっていないものがいいな。

そう、人の香りがしなくて憩えるものは?

丹精込めて育てていない野の花たちが身の回りにあるじゃないか。

夏の酷暑に耐え、冬の厳寒を忍び、健気に花を咲かせ実を付ける。

そこには野性の逞しさがあり、同時に逞しさとは対極の柔和な美しさがある。

花や実は言葉を持たない。にもかかわらず語りかけてくる。

花と実がもたらす面授こそ、憩いのひと時となる。

緑の葉が茂る中で象牙色をした花が咲いている。

ヤツデの花だ。デザインの妙に感心してしまう。

近づいて目を見開いて鑑賞しよう。

まずは開花前のつぼみの状態。

果物みたいに見えるね。

これが開花すると、こうなる。

さらに目を見開こう。

イソギンチャクか、クラゲか、ウイルスか。

植物って、本当は怖い生き物では?

足下にひと際目立つ黄色い花を見つけた。

あっは~ん、ツワの花だ。

腰を下して、じっくり観察タイム。

幸せの黄色い花びらがいっぱいだ。

周りを見渡せば、なにやら白い実を付けたものがある。

うーんと、これはあれだね。

難を転じるという意味に通じることで縁起ものでもある南天だね。

ワインみたいに赤と白があるが、これは白。

拡大鑑賞してみると、ジャガイモみたいに見える。

紅葉の後を引き継ぐのがこれだね。サザンカだ。

寒さにめげずに色鮮やかに咲くなんて、健気さに頭を垂れる。

温かさを感じさせる色合いに引き寄せられる。

このまま花の奥まで吸い込まれてしまっても悔いなし。

花に包まれ、花そのもとなり、色に溺れて花と散る。

草むらを歩けば、可憐な花が顔を恥ずかしげに覗かせていた。

開花の盛りを過ぎた野ギクだ。

ひっそりとした姿に視線を落とす。

簡素を絵にしたような花だ。

忍びよる初冬の寒さを感じながら、草っ原を見渡す。

いわゆる猫の尻尾たちが風に揺れている。

子猫がじゃれあうような微笑ましさを漂わせる。

花と実に1人静かに対面すべし。

そうすれば言葉なき面授のひと時が訪れる。

なにを教えてくれるかって?

まずは野の花と実を見に行くことだね。

見る人自身の感性を映し出してくれるさ。

 

 

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売り切れ御免 カントリーマシンフェスティバル

2017-11-10 | Weblog

東京モーターショー?  都会で人気があるっていう児童車、いや違った、自動車の展示会なのかな。地に足のついた俺たちに言わせりゃ、まあ、お上品でやわな乗用ちゃま、じゃなかった、乗用車ご一派の集まりってとこだな。なんでも、色っぽいコンパニオンとかいうスタイルのいい若い女性たちが車の側でにっこりとして立っているんだってねえ。彼女たちが会場に花を添え、盛り上げにひと役買ってるらしいとか。アスファルト舗装路や高速道路と無縁の俺たちの仕事場は、農作物の命を育む土くれの世界だ。コンパニオン無用の俺たちは武骨な風体だが、粗野じゃないぜ。質実剛健ってもんだ。まあ、こんな俺たちが一同に集まる秋の展示会に顔出ししてみろよ。名付けてカントリーマシンフェスティバル。東京モーターショーとはひと味も、ふた味も違う世界が広がっているぜ。

よくぞ、カントリーワールドへ。気持ちいいほど新品の鍬がお出迎え。

人がマシンとなって土を耕す道具だ。コンパニオンの代役には無理だがね。

 

茹であがったカニみたいに見えるチェーンソーの一群。

値札が付いているけど、どれもいい値段してますねえ。

 

見ようによっては蟹のシオマネキのハサミみたいだ。

 

整列したコンバインの一群。大型動物の雰囲気あり。威風堂々な光景。

 

トラクターだってコンバインにゃ負けてない。突進直前の猛牛みたいだろう。

  

そこのけ、そこのけ、大型トラクターのお通りだ。

側に立つ人と比べると、いかに大きいかが分かる。

お値段はおよそ2300万円なり。 

ワオ……! こう言うしかないね。

 

超高級乗用車並みの値段のトラクターの面構えをとくと眺めてみよう。

まずは正面からだ。

 

次に横から眺めてみよう。

こんなのがAIを搭載して暴れ出したら手に負えないね。

 

ついでに後ろからの眺めは?

高さ3mのモンスターマシンだ。

牛、馬、豚はもちろん、ゾウ、サイ、カバもたじたじだろう。

 

ワオ! だけで終わらないのがわたし。

乗り込んでみよう。これは誰が見てもハンドルだ。

 

運転席から見た前方の視界。高~い、広~い!

 

タッチパネルと押しボタンで操作する。簡単にして最新鋭。

農機具も日日月月進化していく。

 

ボディーが鮮やかな青色のトラクターは木陰でひと休み。

なにかしらお洒落な雰囲気が漂う。素敵なオブジェにもなりそう。

東京駅に置いてみる?

 

流行りのドローンもお目見えだ。空中から農薬を散布する役割を果たす。

 

 

 コスモス畑の上でデモフライトするドローン。いやあ、気持ちよさそう。

6枚羽の、このドローンの価格はおよそ240万円なり。

操縦資格を取る講習は5日間コースでおよそ29万円。

それなりにお金も要るみたい。

 

 

最後にひと言:カントリーマシンを見て回るうちに、彼らが牛や豚、鶏と同じぐらいに親しめる家畜みたいに見えてくる。いや、農家にとっては家族の一員かもしれないね。

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拝見 全日本剣道選手権をテレビ観戦する

2017-11-03 | Weblog

日本一を目指し64人の剣士が武道館に集結の文字を新聞のテレビ欄で見つけた。第65回全日本剣道選手権がNHK総合で放送される。祝日ながら家事でやるべきことがたくさんある中、時間があればテレビ観戦しようかなと思って赤ペンで丸印を付けた。午前が過ぎ、昼を超え、午後の片付け事で一服しようと居間の椅子に座ったところで時計と目が合った。生中継の選手権が見所に入っている時間帯だった。リモコンでテレビを付けると、準決勝進出の4人が決まったところだった。東京2人、熊本1人、福井1人という構成。うち2人は過去の選手権の優勝経験者。年齢では20代2人、30代2人。若手とベテランとの対決となる。中学、高校時代に剣道で汗をかいた元剣士としては、久、久、久し振りに剣道の試合を観戦することにした。

中学時代の剣道仲間を想い出す。小柄ながら出鼻小手の名手で先鋒の塩屋、中肉中背で小手、面の連続技を繰り出していた次鋒のわたし、抜き胴を鮮やかに決める中堅・桜本、小手、面、胴の何でもこなす副将・原田、中学生ながら180cmを超える長身で上段から面を打ち下ろす大将・畝本。われわれは春夏秋冬、中学校の体育館で稽古に明けくれた。初段昇段試験のときには原田と2人で受けた。筆記、形の披露、竹刀での試合と3つの試験で合否がその場で決まる。発表のときのことは今でも忘れない。わたしと原田の名前が合格者として読みあげられた。2人して道着姿で抱き合い、跳び上がって喜んだ。男同志で抱き合った最初の体験であった。稽古が終わって自宅に戻っても、竹刀や木刀の素振りを欠かさなかった。宮本武蔵ばりの強豪剣士になるつもりだった。結果は夢破れて山河ありだ。

他の中学校との交流試合などもやったとは思うが、今だにはっきりと覚えているのは剣道の上級者に稽古をつけてもらう出稽古だ。相手をしてくれたのは県下の強豪高として知られていた商業学校の剣道部員だった。中学生と高校生だから体の大きさの違いはあったのだろうが、防具を付けて目の前に立たれると、とてつもなく大きな存在に見えた。場数を踏み、稽古を重ね、実力が備わった有段者が醸し出す「威力」「脅威」「殺気」めいたものが漂っていた。相対した瞬間に恐怖の感情が全身を包み、動きは精彩を欠き、発せられる気合いの大音声に圧倒された。相手に何度も向かっていく掛り稽古では、錬達の竹刀捌きでいなされ、面、胴、小手を次々と打ち抜かれる。胸を借りるつもりで挑むがまったく歯が立たない。胸にたどり着く前に道場の板壁まで吹き飛ばされる始末だった。

研鑽、素振り、精進、汗、汗、汗の剣道時代に想い浸っていると、準決勝が始まった。当たり前だが、姿勢がいい。動きが機敏。無駄な動きがない。見ていてここちよい緊張感を味わう。鍔競り合いの際の気合いの応酬も猛獣の獰猛さを連想させるほどの迫力である。屋内で飼われている縫いぐるみみたいな犬ならば、尻尾を巻いて退散すること間違いなし。準決勝ぐらいになると、実力的にはどちらが勝ってもおかしくないレベルだ。解説の有段者も「だれが優勝してもおかしくないですね」と実力伯仲であることを述べていた。勝つか負けるかの試合だから、攻めた方が勝つ。気持ちで押している方が勝つ。受け身に回った方が負け。勝ち急ぐ気持ちがあると負ける。勝ちにこだわりつつ、勝ちを意識しないで、技を繰り出す。相矛盾する言い方が成立する試合の中で、勝ちへの執念が一瞬消えて繰り出した技が相手を打ち負かすことになる。そして背中に付けたたすきの色と同じ旗が審判員からさっと上がったとき、脳裏は勝った! との思いで瞬時に充たされる。

上位の有段者同士の試合はほぼ一瞬の速技で決まるので、剣道経験がない人には「あれっ、今なにがあったの?」となる。または「相手の面に竹刀が当たったのに、どして勝ちの旗が上がらないの?」といった疑問も生まれるだろう。「ああ、あれは有効な打撃とみなされないからだよ」と答えるしかない。打撃として有効とは、真剣に置き換えると分かりやすい。面を打てば相手の頭が割れ、小手では手首が切り落ち、胴では胴体がばっさりと断ち切れる。生きるか死ぬかの真剣での戦いは、これほどの切れ味が有効となる。軽く当たったぐらいでは相手はなんともないのだ。そして残心も大事だ。打撃に手応えがあっても、相手の反撃に備えて油断せず次の打撃がいつでもだせる状態に心身を構えておく。

決勝戦は同じ高校出身の30代の先輩、20代の後輩との対決となった。ともに過去に優勝経験がある者同士。後輩は思い切って攻めに徹した戦法を取った。小手を先取した後輩。先輩は決勝戦に至るまでの試合で相手に先取されながら逆転で勝ち上がってきた。決勝戦ではどうか。先輩は後輩の切れ味のよい小手を警戒し、攻めきれない。相手が攻めてきたところを打ち返して勝ちを取るというやり方があるが、後輩の攻めの鋭さを防御できるか。相対した先輩、後輩。あと1本取れば勝てるという勝ちの思いが消えた一瞬、後輩の竹刀が先に伸び、先輩の小手を鋭く打撃した。瞬く間の速技。審判員の旗が一斉に上がった。後輩が小手を2つ取って2回目の優勝を決めた。試合が終わり、着座した後輩が面を取り、頭に巻いた手ぬぐいを解いた。すがすがしい若者の顔が現れた。玉のような汗が額や頬を濡らしている。この汗もまた日本一の剣士の誉れに寄り添って輝いている。

選手権決勝戦の余韻に浸りながら中学時代の剣士たちのことを想った。高校進学で桜本とは同じ高校だったが、他の3人とは異なる進路となった。塩屋の行方は不明、原田は実家の魚屋で働き、畝本はキリスト教関係の学校に進んだ。桜本は税務署に入り、東京のどこかの税務署長まで上り詰めたところまでは知っている。さて、今頃、みんなどうしているだろうか。今日の全日本剣道選手権を見ただろうか。

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豆男奮闘記

2017-11-01 | Weblog

仕事にマメな人。これは誉め言葉であり、敬意の念さえ感じさせる言い方である。それでは、これはどうだろうか。女にマメな人。女性に対する気配り、心遣いにかいがいしさを感じさせる男への感心しきりの言葉となる。美男とは縁遠いマメなる男の優しく、機転が利いた振る舞いや物言い、熱情にマドンナは心をほだされ、親近と親愛の思いを抱く。高嶺の花を射止めたマメ男への尊崇の念―少しばかり妬みというスパイスが混じっている―が込められた言い方こそ、女にマメな人となる。女のことはともかく、事に当たってマメな気質のわたしは豆にもマメである。豆にマメ? すなわち豆大好き男である。

そんなわたしが女性からどうぞと手渡されたのが、京の豆ジャンボ袋。成人男性の拳2つ分が入るビニール袋がぱんぱんになるほど豆が入っている。うずらの卵や黒糖豆など5種類、いずれも落花生が中に入った豆である。はて、きょうは何の日だったかな? ホワイトデーじゃない。ハロウィンは関係ないし、バースデーでもない。理由の如何にかかわらず、好物だから相好を崩す。ありがとう、最高! 御礼を言いながら想う。これ、食べ始めたら止まらないな。ぽりぽりぽりと歯応え、食べ応えがいいから1袋なんか、直ぐに空にしてしまいそうだ。ワインのつまみによし。珈琲にも合う。緑茶にも茶菓子として最適だ。そんな想いを見透かされたように、女性から注意を受ける。お豆はお腹に入ると膨らむから、1度にたくさん食べちゃだめよ。はい、はい、分かってます。胃袋に入った落花生がお腹をぱんぱんに膨らませるのは実証済みで、その忠告はよ~く分かってます。 

それで時間を置いて1人で京の豆を食べる場面となる。小皿にひと掴み分を出す。緑茶を飲みながら、1つ摘まんでぽり。手元の新聞を読みながら2つ目をぽり。続いて3つ目、4つ目となり、ぽりぽりが連続していく。小皿にひと掴みがあっと言う間にお腹の中に消えていく。ふた掴み目を小皿に置く。全粒がお腹へ直行。食べ応え感にまだまだ余裕がある。まだいける。追加のひと掴みが繰り返される。食べた割にはお腹に溜まった感がないな。そう感じて、さらに食が進むというか、豆がお腹にどんどん入っていく。行きはよいよい、帰りが怖い?

ぽりぽりしながら京の豆の袋に貼られた原材料名や製造者名などを記した紙シールを読む。落花生、寒梅粉、小麦粉、砂糖、黒砂糖、食塩、澱粉、海苔、練乳、脱脂粉乳。読みながら想う。いろんなのが入っているなあ。まあ、5種類も豆が入っているから当然か。読み続ける。植物性油脂、水飴、海苔蛋白加水分解物、調味料(アミノ酸等)、乳化剤、膨張剤、アルコール、増粘多糖類。まだまだ原材料名の列挙が続く。これらがお腹の中で混じり合っているわけだ。膨張剤も入っているんだなと思っているうちにお腹が膨張してきた。袋に半分の豆を残して、ぽりぽりを止める。この間、緑茶のお代わりを何杯かした。練れた落花生と緑茶の融合。それぞれの量もたっぷりだ。胃袋がしっかりと膨張しているのを実感する。滋養たっぷりの落花生の練れものの中から新芽が出てきてもおかしくない。今夜の夕食も翌日の朝食もいらないほどの満腹感が胃袋と同じ程度に広がる。

わたしの血となり肉となる京の豆は誰がつくっているのだろうか。製造者名を読む。株式会社豆富本舗。所在地が記載されている。京都市下京区東中筋通七条上ル文覚町387。目の前のパソコンを開き、ネットで豆富本舗を検索してみる。「豆の匠 創業明治41年 豆菓子一筋108年」。八ツ橋と並ぶ京都の名物菓子でもある五色豆の製造者だった。明治、大正、昭和、平成を生きながらえた百年企業のお店だった。戦前、戦中、戦後という時代の大きな変遷と、景気の大波小波を豆菓子で乗り切って今日に至っている。多くの企業がぶち当たる「庇傾く3代目」を超えて現在4代目が同族経営に当たっている。

経営は人繰り、金繰りの連続である。菓子の大競合時代にあって繁栄継続の秘訣はなんだろうか。五色豆をぽりぽりしながら経営者に伺いたいものだ。まず言えるのは経営者の苗字・冨永がいい。冨が永く続くという訳だ。これが冨梨(冨無し)だったら、はたして豆富の命運は続いただろうか。そして会社名が創業時から変わらずの豆富とくる。豆が富をもたらすということで験がいい。今言えることは、富の味とは胃袋がたっぷりと満たされるということだ。空腹はイライラと諍いの本、満腹は幸福と睡魔の本。ごろりとなって豆牛にでも変身してみようか。夢見つつに浮かんでくる想い。仕事にマメ、社交にマメ、健康にマメ、趣味にマメ、人生にマメ。前向きな気分になってくる。女にマメ。う~ん、これはこう言い換えると誤解がなさそうだ。恋人にマメ、妻にマメ、娘にマメ、母親にマメ。これだったら適法にして妥当だろう。お腹の豆は膨らんだままだなあ。

 

 

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