コロナ禍渦中の2020年晩夏、日本の最高権力者こと内閣総理大臣が辞任を表明した。総理としての連続在職日数が歴代最長を記録して4日後の、突然の出来事である。これには既視感がある。第1次内閣時の2007年9月、国会で所信表明演説をした直後に退陣したときと同じ理由、同じ光景である。辞任を表明する虚ろな表情がテレビ画面から流れてくる。在任中の国政選挙6連勝という実績を上げた輝きは無く、力のない眼力と覇気の失せた顔色、放たれる言葉はどれも任期半ばに降板せざるをえない無念さに覆われている。
当人としては任期満了となる来年9月までに、コロナ禍克服と落ち込んだ経済の復興に道筋を付け、東京五輪・パラリンピックの開催に立ち会い、総理の伝家の宝刀を使って衆院解散、総選挙完勝で仕上げをし、次期総裁候補にバトンを渡すという花道を描いていたかもしれない。しかしながら、難病とされる持病が総理としての輝くようなレガシーをつくらせなかった。政権ならびに与党の頂点に立つ者として、政治的、経済的、軍事的な功績はいろいろ列挙できるのだろうが、いち国民としての印象は憲政史上最長政権を仕切ったという記録としての栄誉と、病による辞任という無念を併せ持った総理となる。
国会議員、知事、県議、市長、市議、町長、町議。過去、いろんな政治家たちに出逢い、話を聞くことがあった。語る理念はさまざまだ。国家国民のため、県民市民町民のため、地域と住民のための政治を皆が掲げる。こんなの当たり前だけれど。美しい理念、元気が出る言葉の一方で、私利私欲、党利党略、義憤、うっ憤、立身出世などが政治活動や選挙活動の推進源となる。それに権勢欲。政治家としての階段を上がっていくのに必須なものかもしれない。国会議員ならば一度は夢見るのが内閣総理大臣となる。なにをしたい、これをやりたいといった理念、信条は後回しか後付けで、「総理大臣になりたい! 最高権力者になりたい!」が真っ先に出てこないと、政権の座は取れないみたいだ。信なくば立たず、という名言があるが、現実には信なくても立つ、である。
政治とは権力闘争そのものである。どんな闘争にも、人と資金が要る。それに勢力を拡大し、権勢の階段を上がっていく戦略、言葉を換えれば策略。数は力。金は力。金権政治家の金言みたいな言葉だが、民主政治であれ、共産政治であれ、独裁政治であれ、いずれの政治勢力の心棒を貫く言葉でもある。数は力だから、政治家の離合集散は常である。与党ならば派閥の興亡史であり、野党は分党、新党の歴史を今も継続中だ。金は力は買収、賄賂が付きまとう。
政治家としてのし上がってくる人物は概して興味深い。話が面白い。裏話、噂話、先読み話など、聞いていて飽きない。誰が味方で、誰が敵かにも敏感だ。味方とは票を入れてくれる人、敵とは票を入れない奴となる。政敵側陣営の中枢部にスパイを送り込んでいたり、後援会事務所に盗聴器を仕掛けたりといったことが現実に起きている。選挙に勝たなきゃ政治家になれないんだ。できることはなんでもやる。それが違法であっても。そんな言葉が垣間見える世界でもある。
小さな土建会社社長から国会議員になった人物に尋ねたことがある。
―なぜ、政治家に?
小さな民間会社の人間だとね、いろんな申請なんかで役人は蔑んで威張ってるんだよ。くやしいだろう。それで思ったんだ。ようし、議員になって、こいつらを見返してやるんだ。偉そうにさせないぞってね。
県民や地域住民のために何かをしようという発想は後回し。役人を念頭に復讐するは我にありの闘争心が選挙活動(事前運動もたっぷり行ったかもしれない)に邁進し当選を果たした。今日では役人が平身低頭する政治家となっている。
現役の内閣総理大臣の辞任表明後は、後任の総理は誰に?となる。これまでメディアが伝えるところからは、3人の国会議員の名前が有力として挙がっている。選出の方法、自民党幹事長とのつながりなどの報道から筋読みすると、ほとんど答えは出ているようだ。9月中旬、その男は記者会見場に登壇し従来と同じ顔つきで語り始めるだろう。違うのは最高権力者の肩書が付いていることだ。語る内容も想像できる。前任総理が無念にも実現できなかったレガシーの数々を仕上げていく。それが総理となったわたしの使命であり、国民のために全身全霊で取り組むべきものです。