おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

進撃ノ総大将、軍馬ヲ降リル

2020-08-30 | Weblog

コロナ禍渦中の2020年晩夏、日本の最高権力者こと内閣総理大臣が辞任を表明した。総理としての連続在職日数が歴代最長を記録して4日後の、突然の出来事である。これには既視感がある。第1次内閣時の2007年9月、国会で所信表明演説をした直後に退陣したときと同じ理由、同じ光景である。辞任を表明する虚ろな表情がテレビ画面から流れてくる。在任中の国政選挙6連勝という実績を上げた輝きは無く、力のない眼力と覇気の失せた顔色、放たれる言葉はどれも任期半ばに降板せざるをえない無念さに覆われている。

当人としては任期満了となる来年9月までに、コロナ禍克服と落ち込んだ経済の復興に道筋を付け、東京五輪・パラリンピックの開催に立ち会い、総理の伝家の宝刀を使って衆院解散、総選挙完勝で仕上げをし、次期総裁候補にバトンを渡すという花道を描いていたかもしれない。しかしながら、難病とされる持病が総理としての輝くようなレガシーをつくらせなかった。政権ならびに与党の頂点に立つ者として、政治的、経済的、軍事的な功績はいろいろ列挙できるのだろうが、いち国民としての印象は憲政史上最長政権を仕切ったという記録としての栄誉と、病による辞任という無念を併せ持った総理となる。

国会議員、知事、県議、市長、市議、町長、町議。過去、いろんな政治家たちに出逢い、話を聞くことがあった。語る理念はさまざまだ。国家国民のため、県民市民町民のため、地域と住民のための政治を皆が掲げる。こんなの当たり前だけれど。美しい理念、元気が出る言葉の一方で、私利私欲、党利党略、義憤、うっ憤、立身出世などが政治活動や選挙活動の推進源となる。それに権勢欲。政治家としての階段を上がっていくのに必須なものかもしれない。国会議員ならば一度は夢見るのが内閣総理大臣となる。なにをしたい、これをやりたいといった理念、信条は後回しか後付けで、「総理大臣になりたい! 最高権力者になりたい!」が真っ先に出てこないと、政権の座は取れないみたいだ。信なくば立たず、という名言があるが、現実には信なくても立つ、である。

政治とは権力闘争そのものである。どんな闘争にも、人と資金が要る。それに勢力を拡大し、権勢の階段を上がっていく戦略、言葉を換えれば策略。数は力。金は力。金権政治家の金言みたいな言葉だが、民主政治であれ、共産政治であれ、独裁政治であれ、いずれの政治勢力の心棒を貫く言葉でもある。数は力だから、政治家の離合集散は常である。与党ならば派閥の興亡史であり、野党は分党、新党の歴史を今も継続中だ。金は力は買収、賄賂が付きまとう。

政治家としてのし上がってくる人物は概して興味深い。話が面白い。裏話、噂話、先読み話など、聞いていて飽きない。誰が味方で、誰が敵かにも敏感だ。味方とは票を入れてくれる人、敵とは票を入れない奴となる。政敵側陣営の中枢部にスパイを送り込んでいたり、後援会事務所に盗聴器を仕掛けたりといったことが現実に起きている。選挙に勝たなきゃ政治家になれないんだ。できることはなんでもやる。それが違法であっても。そんな言葉が垣間見える世界でもある。

小さな土建会社社長から国会議員になった人物に尋ねたことがある。

―なぜ、政治家に? 

小さな民間会社の人間だとね、いろんな申請なんかで役人は蔑んで威張ってるんだよ。くやしいだろう。それで思ったんだ。ようし、議員になって、こいつらを見返してやるんだ。偉そうにさせないぞってね。

県民や地域住民のために何かをしようという発想は後回し。役人を念頭に復讐するは我にありの闘争心が選挙活動(事前運動もたっぷり行ったかもしれない)に邁進し当選を果たした。今日では役人が平身低頭する政治家となっている。

現役の内閣総理大臣の辞任表明後は、後任の総理は誰に?となる。これまでメディアが伝えるところからは、3人の国会議員の名前が有力として挙がっている。選出の方法、自民党幹事長とのつながりなどの報道から筋読みすると、ほとんど答えは出ているようだ。9月中旬、その男は記者会見場に登壇し従来と同じ顔つきで語り始めるだろう。違うのは最高権力者の肩書が付いていることだ。語る内容も想像できる。前任総理が無念にも実現できなかったレガシーの数々を仕上げていく。それが総理となったわたしの使命であり、国民のために全身全霊で取り組むべきものです。

 

コメント

イップ・マンはなぜ全戦不敗なのか

2020-08-23 | Weblog

―イップ・マンとは?

実在した中国拳法の達人を素材にした香港映画である。英語表記ではIP MAN、原題は葉問。いずれも主人公である達人の名前である。映画燃えよドラゴンで主役を演じたブルース・リーが、少年時代に拳法の指導を受けた師匠その人と言った方がいいかもしれない。

―イップ・マンの映画を観たのか?

1作目から3作目までをNetflixで拝見した。完結編となる4作目は先頃公開となっているが、未見である。YouTubeで予告編を観ることができる。作品はイップ・マンの生涯を忠実に再現したものではなく、虚実ないまぜにした創作。多彩な技の攻防、きれ、こく、素早さがてんこ盛りで見入ってしまう。

―3作を観た感想は?

イップ・マンは自己修養としての拳法を理念に掲げながらも、そんな理念とは裏腹の、力こそ正義なりを信条としたような人物たちと格闘する事態に毎度巻き込まれる。対戦する相手はいずれも強敵で、憎々しげで、尊大な人物ばかり。善と悪との死闘でもある。1作目は中国本土に侵攻し占領した旧日本軍の将校で空手の達人が相手。2作目は英国統治下の香港での英国人ボクサーとの対戦。3作目は同じ流派の中国人拳法家との対戦が主だが、ゲスト出演とも言うべき元ヘビー級世界チャンピオン、マイク・タイソンとの異種格闘戦がハイライトでもある。

―個別の対戦で印象に残った場面は? 

中国人への圧政者の武道としての日本空手、香港人への抑圧者の拳闘術としての西洋ボクシングに闘いを挑まれるが、最後は完膚なきまでに打ちのめすことで、作品の中の中国人たちはもちろん歓声を上げる。映画に見入る中国人たちも大いに留飲を下げていることだろうと感じる。たとえ中国人でなくても、尊大にして自己修練がまったく出来てない悪役の末路はこうでなくてはと納得するものがある。改めて思う。格闘技を習う者は技とともに人格にも磨きをかけなくてはいけない。強けりゃ、いいってものじゃない、というわけだ。

―マイク・タイソンとの対戦はどうだった?

3作観た中で最も迫力があった。役者ではなく、拳ひとつで大金を稼ぎ、プロボクシング界で一世を風靡した人物だけに、ファイティングポーズをしただけでも迫力が伝わってくる。じりじりと間合いを詰めてくる場面も「殴り倒してやるぜ」といった鬼気迫るものがある。スキンヘッドの上、顔に入れ墨があり、強面の顔つきや猛獣を思わせる目つきは、超が付くほどの怖さだ。素手を固めた鉄拳で殴ってくるから、顔面にまともにくらうと陥没骨折すること間違いなし。脳しんとうを起こしてダウン、頭を床に強打し最悪は心肺停止状態に陥るのではないか。

―それでマイク・タイソンを倒したのか?

それは言えんな……。

―なぜ、言えない?

野暮な質問だから。自分で観て確かめてみてね。

―質問を変えよう。それでイップ・マンは強いのか?

弱かったら4作続かないだろう。主役を演じたダニー・イェンも小さいころから武術の心得があるらしく、動きは俊敏だ。俳優だし、主役だしね。対戦相手が個人であれ、集団であれ、イップマンは冷静沈着にして謹厳実直な表情で拳を突き出し、足を蹴りだす。大声を上げて威嚇したり、感情を制御できずに怒り心頭の表情になることもない。復讐心で狂気に満ちた目つきをすることもない。人の形をした木製の練習具で日々鍛錬しているときのような淡々とした表情、まさに、いつもの練習の時の落ち着いた顔つきで悪人どもを次々と倒していく。息が切れることもなく、唇をきりりと結んでいる。着衣の中国服がぼろぼろになることもない。

―強さ以外のイップ・マンの魅力は?

主演俳優の役割が大きい。まずは顔立ちにアクがない。いかにも格闘技の名手といった風情がない。サッカーワールドカップ日本代表のキャプテンを務めた長谷部誠みたいな顔立ちだ。シフォンケーキづくりが得意な優しいケーキ職人と言っても通じそうだ。体格も筋肉隆々の大男でもない。中肉中背と言うよりは痩身に近いかも。優男風の男性がひとたび格闘する状態になると、超人的な技の攻防を繰り広げるという落差が受けるのかもしれない。

―イップ・マン全戦不敗の秘密は?

いい質問だ。それはねえ、脚本家を味方にしているからだよ。

 

コメント

全裸でひと仕事 2020年夏

2020-08-14 | Weblog

日常のこまごまとしたことから、人生の大局にかかわるような一大事に至るまでを書き出して、実行することを促すTO DO LIST。若い時分は、仕事のスケジュールを記入する手帳は別として、やるべき事は書き出さなくても頭の中に入っていて、事ある毎に片付けてきた。人生も青春篇を遥か遠くに見やる頃合いに至ると、書き出して1つひとつ消し込んでいかないと、やるべきことが居残った上に新しいことが日々積もりあがってくるようになった。

シンプルライフに努めながらも、すぐにすべきこと、しばらく時間を置いてしていいこと、数年単位でやってもいいことなどが春夏秋冬日替わりで人生に絡んでくる。TO DO LISTに載せて、即日処理してしまうものもあれば、5年以上経過しても掲載中のものも幾つかある。暮らしという「気の流れ」の中で動脈硬化みたいに流れを狭め、少しずつだが気分を悪くしていく。「こんなに時間が経っているのに、まだ解決していない!」というわけだ。

コロナ禍と熱中症逆巻く中で、夏休みで家籠りしている今こそ、TO DO LISTの宿主にして不朽の課題をやり抜くことにした。季節が涼しくなってからやろう。なぜか、脳みそはものごとを先延ばしにしたがる。しかし、もう延ばさない。洗面所と浴室の天井に広がる黒い雲。いずれも白い化粧板で、当初は絵を描くキャンバスみたいに白かった。なにかしら天井画でも描いてみようかなと思わせるものだったが、歳月が流れ、少しずつ灰色の暗雲がぽつぽつと現れ、そのうち霧吹きで描いたような薄黒い模様に覆われてしまった。洗面所にも浴室にも窓があり換気をしているが、カビは湿気の居所をよく知っている。かつて建設業者に見てもらったら、「こりゃ、だめだね。張り替えないと」。見積もり無料、施工は有料かつ高い、との判断だった。

DO IT MYSELFとローコストの暮らしを信条とするわたしは業者に発注はせず、TO DO LISTに書き加えて自前でやることにした。それから幾星霜、5年以上は経過しただろう。毎度、洗面所と浴室の天井を見上げて「張り替えなり、塗装なりをやらないといけないなあ」と思うものの、居間に戻ると、その気のスイッチがパチンと切れてしまうのだった。脳みそはいろいろと先送り案を考える。これはこれで自然にできた天井画でいいんじゃないか。果てしない宇宙に広がる星雲としてのアートだよ。それに、今すぐ天井が落ちてくるわけじゃないし。衛生面でやや問題はあるが、まあ、来年の暇な時期にでもやれば。わたしは想う。にんげん、その気にならないと、課題が目に見えていても、ほんと何もしないで先送りだ。

わたしはわたしの性格をよく知っている。ある日突然、その気になるのだ。その気になるまで待つしかないのだ。天井の星雲を見て見ぬふりはしない。見て、眺めた挙句、「ああ、まだあるなあ」と思うだけである。全国でのコロナ感染者数と熱中症の話題がニュース番組の1、2位を競い合う真夏、突如としてその気になった。TO DO LISTから消してやる。赤鉛筆で横線をくっきりと引いて抹消するのだ。決行日の前日、洗面所と浴室に脚立を運び込み、LEDの懐中電灯で天井を照らし、つぶさに現況を確かめた。防火仕様の石膏ボードの上に防水を兼ねた白い塗料が塗られているみたいだ。黒い斑点模様はカビの一種だろう。滲みになっている風でもある。小指の腹で軽くこすってみるが、変化はなし。目には見えないが、経年劣化した塗料の表面の傷の中にカビが入り込んで模様をつくっているのか。現況はほぼ分かった。

対策は3パターン。研磨剤粒子入りのスポンジで表面をこする。これで取れればラッキー。取れなかったらローラーかスプレーを使っての塗装。当面はきれいな状態が続くが、下地に潜んだカビがいつの日か表面に顔をのぞかせる日がやってきそうだ。最後の手段は業者が断定したように張り替え。手間暇かかるが、なんとか自前でやれそうだ。見立てができると、その気とやる気が満ちてきた。研磨剤粒子入りスポンジは半年以上前に3種類ほど既に購入していたから、「いつかはやろう」との思いは密かに育って、その気がついに開花した。夜が明けた。ストレッチを入念にやり、朝食をしっかりといただき、まずは浴室内のボディーソープやシャンプー、浴槽の蓋、滑り防止のバスマットを室外に片づける。天井と浴槽以外は壁も床もタイル張りである。窓を開け、換気扇を回す。午前中の早い時間とは言え、蒸し暑い日だった。Tシャツ、短パン姿だが、じっとりとした汗がにじみ出てくる。研磨剤粒子入りのスポンジを水で濡らして天井を擦るので水が滴り落ちて体が濡れるはずである。

ここで脳みそは考える。服を着ている必要があるのか。作業の立ち合い人や現場監督が脚立の上のわたしを後ろから見ているわけでもない。隣近所との家屋の距離は離れているので、隣人が窓を開けた浴室の中を注目することもない。脳みそはささやく。明確にして、はっきりとした声が聞こえた。服、いらないんじゃない? わたしも躊躇しなかった。そうだな、いらんな。汗がにじんだ衣服をぽんと脱ぎ捨てて洗濯機の中に投げ入れた。前から見ても、後ろから見ても、正真正銘の裸となった。水に浸したスポンジを手に脚立を上がっていく。もし、後ろからわたしを見る人がいたら声を掛けるだろう。「せめて下半身に下着だけでも付けた方が……」。問答無用。裸一貫の身にして一球入魂! 意味不明だが、美体からあふれる、やる気は感じてくれるだろう。

まずは小手調べで天井の隅部分の黒模様を少しばかり擦ってみる。水が含まれているのでスポンジは滑らかに動く。さあ、結果はどうだ? 赤ちゃんの手のひらぐらいの部分が白色に変わっている。黒模様があった部分の地の色だ。本来のあるべき色合いだ。取れている! 脚立を降りて、水道の流水でスポンジに付いた汚れを落とし、再度水を含ませて脚立で上り、スポンジを天井に円を描くようにゆっくりと動かしていく。この作業を繰り返して、少しずつ白い領土が広がっていく。浴槽の上部分の天井は、右足を脚立に、左足を窓の木枠に置いての開脚作業だ。まあ、圧巻の光景だが、当人は心頭滅却、スポンジになりきってカビ落としに懸命にして夢中である。

天井を終えると、ついでに壁と床のタイルも磨いていく。シャワーの水で汚れを落としながら、時折、体の汗も流していく。途中、水分補給と休憩を取りながら、浴室と洗面所の天井をほぼ地の色に戻した。古民家なので、ごくごく薄い灰色の点点模様までしか回復しなかった箇所が幾つか残ったが、仕上がりとしては9割以上の満足度といったところだろうか。不潔感、不快感は消失し、TO DO LISTから懸案がやっと消し込まれた。見積もりの業者が即断した「張り替えないと」は何だったのだろうか。脳みそがねぎらいの言葉を掛けてくれる。裸一貫、その気になれば、なんでもやれる! わたしはうなづき、グラスについだ冷たいミネラルウオーターを飲み干した。もちろん、裸一貫のままで。

 

コメント

夏だ! 麻婆だ! パルメザンだ!

2020-08-06 | Weblog

夏がやって来た。夏日だ、真夏日だ、猛暑日だ。頭上に、屋内に、街並みに、暑さと蒸し蒸しを降り注ぐ。さあ、どうする、霊長類最強の淑女諸兄よ。心頭滅却すれば、なんとかなる。というものでもない。備えを怠れば熱中症を患って初盆を迎えることになりかねない。やはり生き物の原点に戻ろう。食べることこそ生きること、生き続けることだから。食べることができなくなるときが、すべての生き物の終焉のときである。だから、わたしたちは食べて生命力を回し続けなければならない。

食べることは、原初のときからの野性がわたしたちの心身に埋め込まれ育まれているのを想起させる。権力者も経営者も哲学者も、あるいは赤ちゃんも美男美女も百歳越えの長寿者も、口を開けて舌と歯(歯茎や入歯を含む)を使って食べ物というエネルギー体の中に入れ込んでいく。暑気払いの基本にして究極の方法は、暑気に負けない熱量と生命力をもたらすスパイスいっぱいの料理をいただくとなる。それで今宵はパンチの効いた味わいの麻婆豆腐で行こう! と相成った。

厨房を女子たちに独占させるな! がわたしの信条である。男子、厨房の主たるべし。男どもよ、家庭内3つ星シェフとなるべし。食卓に座って、女房が配膳してくれるのを待つ。というのを男子の本懐と心違えしている家庭が少なくないようだが、あ~あ、もったいない! あ~あ、お気の毒! 料理の奥の深さは、ゴルフ、盆栽、囲碁将棋の比じゃないね。頭と舌と手を使う創作行為でもある。奇をてらった言い方をすれば、夜の営みが軍門に下るほどに、料理がもたらす悦楽は際限がない。食べても食べても、時間と日数を経れば、またまた食べたくなるのだ。

さあ、麻婆豆腐をつくろう。絹ごし豆腐1丁、鶏の挽肉入りの麻婆豆腐の素(中辛)、でん粉・生姜粉末・ねぎ・にんにく粉末でつくった「とろみ」を素材にしてフライパンで煮立てていく。中火の勢いでぐらぐらと小さな泡が立ち広がり、あめ色に染まった豆腐が左右に揺れていく。これに大人のこぶし大のトマト1個をひと口サイズに切った断片を入れ込んでいく。赤いトマト片がぐちぐちとよがり、煮汁を麻婆豆腐の中に染み渡らせていく。もう、見ているだけで垂涎ものである。

仕上げはこいつの出番だ。パルメザンチーズだ。注ぎ口からパラパラ、パラパラ降下させていく。丸いフライパンに納まった麻婆豆腐に注がれた黄色い粉雪が瞬く間に溶け込んでいく。きりよく煮たったところで火力を止めて器に移していく。食卓のナプキンの上に器が置かれ、いただきま~す! キュウリの乱切りにゴマドレッシングを注いだ小皿を脇に置いて箸を付ける。大きなスプーンで麻婆豆腐をすくい上げて口中へ。トマトとパルメザンチーズとの三重奏の味わい。やわらかな豆腐と歯ごたえ抜群のキュウリが二部合唱で食の愉しさを脳内に向けて発信し続ける。

動物は基本的に食べることしか考えないという。本を読もうかなあ、テレビを見ようかなあ、部屋の整理整頓をしようかなあ、なんてことは犬も猫も馬も考えないということだ。麻婆豆腐をたいらげて、そのおいしさを堪能して幾時間が経つ中で、ふと思うのだ。さあ~て、明日はなにを食べようかなあ~。わたしの野性味は歳歳年年、先祖返りしていく。食べて、寝て、明日が来れば、また食事の時間がやって来る。

隠し味はパルメザンチーズ。麻婆豆腐のこってりとした色合いと味わいで暑気は逃げていく。

 

コメント