おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

ハーバーサイド ナイトウオーク トピックス

2022-11-29 | Weblog

秋の宵、どこで夕食を頂こうかと思案しながら、ハーバーサイドに並ぶ飲食店を眺め歩く。

中華あり、イタリアンあり、和食ありの中で、ここに決めた。

まぐろ屋。表看板にマグロ尽くしのメニューが写真で紹介されている。

釣りあげられるようにして店内に入る。

いらっしゃい! 威勢のいい出迎えの声。中年の男性店員が熱烈歓迎の笑顔を見せている。

長崎は対馬産の生きのいいマグロを使ってます! 

そんな講釈に引かれて卓に腰かけてメニューを開く。

わたくしはマグロ尽くしの寿司9貫。食欲をそそる絶妙な色合いなり。

 

相方はマグロ丼ときた。色合いから新鮮さと旨さが香り立つ。

満腹無用、大食無粋。適量絶品の味わいを腹6分で納めて12分に満足である。

 

体中にマグロが行きわたったところで海の香り漂う岸壁をそぞろ歩く。

絵になり過ぎる風景にして、きれいすぎるなあ。ちょっとお遊びしてみよう。

 

かっこいいヨットたちを、漁火灯る漁船群にしてしまおう。

 

色調を少しばかり変えてみよう。だんだんと絵画調になってきた。

 

さらにひとひねりして漁火を強調してみようかな。もうふたひねりしたらどうなる?

 

ここちよい酔い心地みたいな感じになってきた。もっと酔いを効かせてみよう。

 

うん、完成だ。題して岸辺のヨット。具象は抽象化されることによって普遍性を拡張する。

まさに感性のビッグバンである。

散歩の後はカフェで憩いのひと時である。

これまた整い過ぎている。マグロの生きの良さで感性は我流点睛を求める。

 

色彩を抜いてしまうと、世界はこんな感じになってしまう。

色盲の動物たちが見る世界でもある。食うか、食われるか。なつくか、逃げるか。

 

ブレンドコーヒーにマンゴータルトである。

この明るい、生き生きとした色彩がこの世を示している。それじゃ、こちらはどうか。

 

あの世から観た現世はこんな感じだろうか。

全般に生気が失せつつある世界となる。

マンゴーがなんとか踏ん張って生気を保とうとしているのが伝わってくる。

なんて、いじらしい果物だこと。

コメント

柴犬シバ その青老喪の生

2022-11-14 | Weblog

里山での我がウオーキングコースには3つある。ショート、ミドル、ロングを設定し、それぞれ300m、800m、1500mの距離となる。気分と天候など状況に応じて、いずれかのコースを選ぶ。そのいずれもが柴犬シバがいる前を通る。犬種がそのまま名前になっているワンちゃんである。

飼い主の敷地内にある農業倉庫内にシバの居宅である犬小屋がある。自由に動けるようにとの配慮で、行動範囲が広くなる長いリードを付けていた。通るたびに不審者扱いされて倉庫から飛び出して来ては吠えられた。「また来たのか! 家の前を通るな! 何度吠えさせるんだ!」。そんな勢いで通るたびに威嚇されてきた。犬猫の扱いに慣れているわたしとしては全然怖くないんだな。「こいつ、また歩いてるな」。傍観するように目で追うだけのときもあった。

不審者扱いながら、わたしが飼い主と笑顔を交えて歓談する場を見ては、「う~ん、こいつは何者なの? 飼い主と仲がいいのかな。悪い奴じゃないの?」。こんな風に理解しておとなしくしているとわたしに思わせておいて、やっばり思い直したかのように犬小屋から飛び出しては吠えることを繰り返した。

「不審者じゃないの。散歩をしているだけなの」。わが想いは伝わっているようでいて、伝わっていないみたいだった。人の想いと柴犬の想いは交差しそうで、いつもすれ違っていた。我が動物愛がまだ分からないのかい。餌をあげれば敵愾心が薄れるのを知っているが、なにせ他人様のワンちゃんなので、不遜なことはできない。顔と風体を覚えてもらい、安心安全な人物だと分かってもらうしかない。

倉庫が閉まっていれば、元気にしているかなと、ちょっぴり心配となる。倉庫内の入り口近くにある犬小屋で寝入っていれば、横目で静かに見守って通り過ぎる。飼い主と散歩中に逢えば、「シバッ!」と声を掛ける。「なんだお前か!」といった風情でちらりとわたしに視線を流すが、すぐに無関心そうにして散歩にいそしんでいた。

春夏秋冬、わたしは散歩のたびにシバがいる倉庫の前を通り、10回以上の四季を数えた。青年だったシバは老年となり、目が悪くなり、足が弱くなった。飼い主と散歩中のシバが青息吐息の姿を見せるようになった。ある時は後ろ脚を動かすのが大変になったのか、歩くのも止めて座り込んだこともあった。食は細くなり、寝込む姿を見るようになった。

ことし7月末の早朝のことだった。散歩中に飼い犬を連れて小川をいぶかし気に覗き込んでいる高齢者と出会った。何かあったのかと想って声を掛けた。

どうしました?

何か動物が小川の中にはまり込んで動けなくなっているんだ。

動物?

ため池とつながっている小川は周辺の田んぼに水を供給するため増水した流れとなっていた。岩場の合間の深い水たまりに、その動物はずぶ濡れとなって顔と背中の一部を水面から出していた。

狸? アライグマ?

高齢者と会話しながら、動物を見極めようとした。距離にして10数m先、川岸から段差は3mぐらいだろうか。動物が声を上げた。助けを求めるような鳴き声は犬だった。

高齢者が呟く。こんな所で犬を捨てやがって。けしからん奴がいるもんだ。

わたしが返答する。いや、捨て犬じゃないみたいですよ。首輪をして鑑札も付いている。

犬を保護してもらおうと110番通報をする。「すぐ伺います」との返答はあったが、時間は経つばかりだった。犬は体力を消耗して溺れそうな態勢になってきた。

警官の到着を待つ間はないと判断し、川岸から川へ降りていく。

高齢者が叫ぶ。大丈夫か。川に滑り落ちないか。

用心しながら下るわたし。扱い方によっては噛まれる恐れがある。犬の衰弱は見て取れた。長い間、流れのある水に浸かっていたのだろう。

大丈夫だ。今、助けてあげるから。こんな風に声を掛けて川の中に入り、そっと近づいていく。両手を差し出して、なんの抵抗もない犬を抱きかかえた。犬の震えが体に伝わってくる。

高齢者とその飼い犬が、濡れそぼった犬を抱いたわたしを川岸から見下ろしていた。陸地に上がって路肩で犬を横たえた。

どこの犬だろう。高齢者に声を掛けた。痩せ細った犬を見つめていた高齢者が答えた。

こりゃ、あそこの犬じゃないか。近くの住民の名前を上げた。その人は倉庫に犬を飼っていた人だった。

えっ! それじゃ、この犬はあそこのシバ? まじまじと顔を見ると、シバの面影があった。

高齢者がシバの飼い主の家へ伝えに走った。この間、わたしはシバの体をなでながら声を掛け続けた。もう大丈夫だ、シバ。すぐにお父さんがやってくるから。

飼い主が高齢者とともに軽トラックに乗ってやってきた。

シバッ! 飼い主の声で目が見えないシバは尻尾を勢いよく振り続けた。飼い主の娘さんも心配して駆けつけた。パトカーがやっと到着した。通報から30分以上が経過していた。警官2人が降りてきた。通報者のわたしが救助したことを告げると、お礼を言われた。警官の1人が110番の通信指令室へ連絡している。倉庫を抜け出したシバは飼い主との散歩コース沿いの川に、目が不自由なこともあって滑り落ちたのではとの結論となった。

それからシバは食が日に日に細くなり、ついには食べることができなくなった。救助から10数日経ち、お盆に入る前に亡くなった。15歳だった。このことを知ったのは、飼い主とたまたま逢って立ち話をした10月下旬のことだった。この間、倉庫が閉まったままだったので、嫌な予感はあった。倉庫裏の畑に埋葬したという。わたしは参拝をお願いした。長年にわたり視線を交わし合いながらも、すれ違いだったわたしとシバは、あの救助のときに最初で最後の肌を触れ合う交流をした。目が見えなかったシバは、わたしの声を聞いて「あれ、あいつなのかな?」と想ってくれただろうか。

 

4年ほど前に撮影した元気なシバ。「また、お前か!」。そんな顔をしているねえ。

 

「あっちへ行け! 今から吠えてやるからな」

 

「なんだ、もう帰るのか。次はいつ散歩するんだい。待ってるぜ」

どうも わたしは 吠えられて 遊ばれていたみたいだな

 

さよなら、シバ! 長年にわたるわたしの散歩の素敵な相棒よ。安らかに、眠れ。

コメント

蝋燭の炎  Autumn 8 その8

2022-11-05 | Weblog

仏壇に灯した蝋燭の炎を眺める。

上がり始めの朝陽のような、淡い金色が早朝の暗がりの中で光彩を静かに放っている。

毎朝、蝋燭に火を灯し、芯から炎が立ち上がるのを見届けると、合掌して祈りのひと時となる。

マイケル・ファラデーは蝋燭のともしびに着眼し、事実と論理でもって炎というものの本質を説明していった。目の前の事象を迷信や宗教ではなく、科学でもって解明していくという感覚。

残り少なくなった蝋燭の炎を目にしているわたしは、科学ではなく情念でもって炎の世界に浸り、入り込んでいく。

蝋燭が灯されることで光を放つ一方で、炎は自らを支える蝋の柱を溶かし短くしていく。

1本の蝋燭は1つの人生の見立てとなり、炎は寿命の輝きと重なる。炎が燃え尽きるとき―それは、か細く縮こまるようにして消え入る―、命は終焉を迎え、この世から無くなっていく。

蝋燭の炎を眺めながら、いつか見た、同じような炎を想い起こす。

パリのノートルダム大聖堂の中にわたしはいた。2019年春に火災で尖塔が焼け落ちる、ずっと前のことだ。入り口から入って左側の方だったか。たくさんの蝋燭が並び、薄暗い堂内の一角を炎が照らしていた。眺めているだけで、気持ちを穏やかにし、柔らかな安心感をもたらした。敬うという宗教心とは異なる感情、人の精神のどこかに隠れていたものを呼び起こした。電気が無かった時代、夜の暗黒に乗じて魑魅魍魎や妖怪などが跋扈した中世の時代にあって、人々に文字通りの光明を感じさせたに違いない色合いでもあった。

日本では比叡山延暦寺境内にある根本中堂での蝋燭の炎が脳裏に焼き付いている。1200年間もともしびを続けている不滅の法灯の背後に立っていた蝋燭の炎である。静まり返り、薄暗く、寒ささえ感じる御堂の中で、炎は光明を放っていた。ただの炎のようにして、ただの炎のようではない。宙に輝く命のようでもあり、魂魄と言ってもいいような存在にも見えた。炎に想いを入れ込みたくなる。そんな風な蝋燭の灯りでもあった。

ノートルダム大聖堂、根本中堂を経て、今再び、仏壇の前の蝋燭の炎に想いが戻ってきた。それは終焉に近い炎の姿を見せていた。わたしはその消え入る様をじっと眺め続けた。視線と炎は一体となり、無のこころの世界へと入っていった。炎が静かに世界を閉じたとき、わたしは現世にふっと引き戻された。

 

蝋を溶かし、芯だけとなって最期のときを迎えようとしている蝋燭の炎。

 

終焉のとき、人が息を引き取るように、炎もまた、大きく光明を放った後、静かに消滅していった。

コメント

秋花粉   Autumn 8 その7

2022-11-04 | Weblog

それが始まったのは、ちっとも寒くない秋の朝だった。

目覚めて起床の時間となり、寝床で思いっきり背伸びをし、起き上がってベッドに腰かけたときだった。

ハッ、ハッ、ハッ、ハックショーン!

心地よいほどの大音響が寝室に響いた。

くしゃみだな。そう想った途端、2回目のハックショーン。

そこからが数えきれないほどのハックショーンの連続となる。

ハックショーンがひと段落すると、次なる事態のレッツゴー信号が鼻腔内に点滅した。

鼻の奥でツーンとした稲光のような感覚が走った。不吉な予感。

信号を合図に第2幕が始まった。鼻水が止まらない。

ベッドそばのスコッティの紙ボックスからテッシュが何枚も何枚も引き出される。

くず籠にティッシュの山が築かれる。

ティッシュで鼻を押さえながら洗面や食事をする。

風邪? 加齢で体力が落ちた? こんなこと、これまでなかったのに。

まあ、ひと晩休めば治るだろう。

翌日になっても、翌々日になっても、翌々々日になっても事態は続き、鼻づまりが加わった。

1年に1回ほど受診する耳鼻咽喉科を訪ねる。

鼻の奥と喉の奥を診察した医者が言った。

風邪ではないですね。花粉症でしょう。

秋に花粉症? 今まで花粉症になんかなったことないですよ。

ブタクサやヨモギなどのカラー写真が載ったシートを手にして医者が言葉を続けた。

これらの草花の花粉が症状を引き起こします。

これまでは症状がなかったのに? そんな質問への医者の説明を要約すると、こんな内容だった。 

花粉が体内に入ると、免疫システムによって抗体が出来て症状が出るのを押さえます。しかしながら、年月を重ねて抗体が一定量を超えると、発症してしまうのですよ。

人生百年時代の折り返しを回って後半の道のりを軽快に走っていると、いきなり伴走者が現われた。胸のゼッケンには花粉症の赤い文字が染め抜かれている。わたしの周りにたくさんいる花粉症の持ち主たちの仲間入りである。

医者から処方された飲み薬と点鼻薬で、くしゃみ・鼻水・鼻づまりのワースト3症状は改善してきた。長く生きていれば人生いろいろあるし、未知の伴走者―例えば病魔や事故―が背後からしのび寄ってくる。秋は今からが本番だが懸念がよぎる。春の花粉症も伴走するんだろうか。備えと覚悟が要るみたいだ。

 

わが古民家のそばに広がるブタクサの大群落。数年前に自生していたススキの一群を蹴散らして勢力を拡大、秋の花粉症の拡大拠点として日々、風に乗せて花粉をまき散らしている。

 

コメント