おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

フライヤーリーディング 

2018-05-31 | Weblog

毎朝、自宅に届けられる新聞に付きものなのが、折り込みチラシである。どさりと束になった日もあれば、ぱらりと閑散とした日もある。新聞販売店にとって収益源の一つである。地方紙や全国紙にはチラシが挟まれているが、なぜか日経新聞には挟まれていない。地域単位で見ると、地方紙や全国紙と比べて部数が少ないため、広告主が費用対効果の観点からチラシを入れようと思わないためだろうか。日頃は見るのも面倒なためチラシに目を通すことはないのだが、読み終えた古新聞を積み重ねた束がなにかの拍子に倒れて崩れ、文字通りチラシが床に散らばった。お祭り騒ぎのような派手な色使いのチラシを目にして思う。最近のチラシの中身はどうなっているのだろう?

チラシの束から何枚かを手にして眺めつつ読んでいく。

「借金問題・過払い金、B型肝炎給付金無料相談会・TVCM放送中」。大きな文字がチラシ最上段で躍っている。在京の弁護士法人が九州にまで出張しての相談会の案内である。スーツにネクタイ姿の男性弁護士6人が整列している。みんな若そうだ。うち5人は健康そうな白い歯を見せた笑顔だが、残り1人は口を結び、運転免許証風の無表情な佇まい。全員スーツの襟元には弁護士バッジをしているが、このバッジがないと紳士服売り場の店員に見えなくもない。ワイシャツの白を着用しているのが5人、薄いブルーが1人。白ワイシャツの1人はボタンダウンでおしゃれだ。ネクタイもストライプで若々しさが漂っている。薄いブルーのワイシャツの男性は深みのある赤のネクタイで、紺色のスーツと相まっていい感じだ。謳い文句が裏面に書かれている。ご相談無料、調査費用無料、完全成功報酬制という3つのポイントが赤文字で浮き立つように記されている。ダメ押しをするように、相談料0円、調査費・着手金0円、弁護士費用の自己負担0円といった同じ内容の別表現を0円で強調している。相談の予約はフリーダイヤルかネットで気軽にできるように工夫してある。弁護士も依頼者待ちの姿勢から、依頼者を発掘するため地方の隅々にまでやって来る時代みたいだ。

小さな小さなお葬式と銘打っているのは家族葬専用ホールのチラシ。字面を追っていく。1日1件、完全貸し切りのプライベート斎場だ。入会金不要。必要なものだけに絞った格安の葬儀プラン。全ての費用(税込)を契約前に提示。過剰な演出をせずシンプルな葬儀を提供。ご遺体安置ホテルも完備。裏面を見る。最安値プランは火葬式で18万8千円。お通夜・葬儀式を行わず火葬のみを執り行う内容。霊柩車をはじめ、安置布団、白木位牌、御棺、骨壺、棺上花束、線香・蝋燭といった消耗品など12項目が掲載されている。祭壇の花や遺影写真、ペンなどの受付用品、遺族控え室などは割愛してある。お通夜を行わず、葬儀式から火葬までを1日で執り行う1日葬は33万8千円。遺族をはじめ親しい方とのお通夜・葬儀式を執り行う家族葬は48万8千円。これには祭壇いっぱいの装花が付く。人生の最期をどんな葬儀で締めくくるのかはお財布と相談ということになりそうだ。

葬儀のチラシで神妙になった気分を少しばかり上向きにしてみよう。お酒のチラシだ。断酒会の方が見たら頭痛がしてくるのではないかと思うほどに、各種ビールのカラー写真満載だ。しかもビール1ケースお買い上げで白砂糖1㎏か、ティッシュ3箱がおまけで付いてくる。なぜ、ビールとこんな組み合わせになるのだろうか。そちらの方に関心が行ってしまう。ワインもあるみたいだ。「常識を覆す! 赤ワインの王道品種・カベルネ・ソーヴィニヨンの黒葡萄果汁から造る白ワイン」。なに、これ? ラダチ―ニ・ブラン・ド・カベルネが品名。確かに常識を覆しているが、どうして、こんなややこしいことをして赤ワイン品種から白ワインをつくらなくてはいけないのか。呑んでみたいという気持ちより、そんな疑問が湧いてくる。奇をてらうのもほどほどにしないワインである。

お酒の後は健康のためのサプリメントのチラシ。最も高齢化が進む日本で1番売れていると豪語している。累計出荷本数1億本突破! まさに行け行けどんどんサプリメントである。セサミン、DHA&EPA、ローヤルゼリー、ノコギリヤシ。これらは健康サプリの常連みたいだ。匿名の利用者の声が紹介されている。「健康と美容はイコールだから、内側からのケアが大事」(60歳 女性)、「この年になっても、健康診断に問題なし」(82歳 女性)、「ずっと健康でいられると過信していたら駄目ですね」(73歳 男性)などだが、出所、真偽、実在などが不明の利用者談が列挙してある。こんな匿名の談話を読んで「よしっ、買った!」などと思って購入する方がいるのだろうか。と思いきや、業者もなかなかな知恵者だった。1カ月分無料お試しセットをちゃんと用意してあった。出荷本数にも貢献しているみたいだ。結局、体験談がいっそう取って付けたような内容に見えてしまった。体験談、なくてもいいんじゃないのかな。「セサミン、ローヤルゼリー、ノコギリヤシ、今のところ不要なほどにめちゃんこ元気です」。これ、わたしの健康サプリ未体験談なり。

 

 

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食事は腹六分、読書は満腹

2018-05-23 | Weblog

体調、健康の良好な維持のため食事は腹六分を心掛けている。お陰でかつて着用したズボンなどは、ズッポンと呼びたくなるほどに腰回りがぶかぶかになる始末。下着という意味でのパンツも、パンスと言い換えた方がいいくらいに腰回りがゆるゆるとなって頼りない。体つきもネコ科の動物に例えれば、でっぷりと太ったライオンから、ややメタボ気味のジャガーへと変貌し、今は見るからに敏捷そうなチーターの体形に向かっている。とは言え、やや長めの胴と、やや短めの足は健在だし、武者の鎧を想わせる大胸筋の逞しさは従来通りである。若いときと比べて運動量がはるかに落ちた昨今の体の状態を考えれば、大食は内臓をはじめ体のさまざまな部分に余計な負担をもたらし、ひいては健康を損なう素をつくりだすことになる。

健康志向という檻に閉じ込められた食欲は日頃従順な囚人ぶりを見せているが、心の奥底ではいつか脱獄して想う存分、欲するものを平らげたいという野心を膨らませている。もしくは、食事は腹六分で十分ですよという笑顔を見せながら、それとは裏腹の想いを貯め込む屈折した模範囚を演じている。なぜ、食欲の精神分析めいたことができるのかと問われれば、先だってわたしは看守の立場でありながら食欲にささやかれ檻の鍵を開けて脱獄を黙認してしまったからだ。食欲が向かった先は焼き肉店だった。黒毛和牛のカルビやロースをはじめ、石焼きビビンバ、クッパ、杏仁豆腐、ノンアルコールビール、ウ―ロン茶、煎茶など、軽く3,4人前を胃袋に納めてしまった。腹六分という日頃の質実剛健、切磋琢磨、謹厳実直な食事作法、いわば修験道の行者やヨガの修行者みたいな生活からは対極にある大食いに走ってしまった。

数カ月にいっぺんくらい、檻の中から解放してあげて食欲を野に放ってあげてもいいではないか。模範囚に2時間ほどの食の悦楽を許してあげてもいい。黙認してくれた看守のこころ優しさに報いるため、食欲は思いっきり食べ終えると、再び扉の開いた檻に戻って来て、看守に会釈して房内の寝床に体を横たえる。翌日からはこれまで通り、腹六分の食事に戻り、チーターの体形に限りなく近づいていく。

食事制限付きの食欲の一方で、読書欲の方は無制限、腹いっぱいの日々である。名付けて満腹読書。食べ過ぎて体調を崩すことはあるが、読み過ぎてこころの調子をおかしくすることは、わたしの長年にわたる経験からだが、多分ないはず。図書館になにかの用で出向いた際―本を借りるか、返す以外にどんな用があるのだろうか―必ず10冊程度を借りてくる。2、3冊の少ない数ではないのは、最低これぐらいは脳味噌と想像力に栄養をつけてあげなくてはという精神の親心からである。先だっても、アメリカのジーンズなどを紹介したヴィンテージの教科書をはじめ、万年筆の教科書、大人の男の上質図鑑「ダンディズム薫る時計、靴、万年筆」、フランク・ロイド・ライト最新建築ガイドなどを借り休日の1日をかけて読み通したというか、眺め通した。カタログみたいな本ばかりだから、さらさらっと頁をめくっての流し読みである。

フランク・ロイド・ライト本は新書をひと周り大きくしたぐらいだが、建物を紹介した写真も概して小さいし、文字はさらに小さくて、ぱらぱらとめくるにしては読みづらかった。まあ、読み物として笑い声を上げたのが「おじさん図鑑」(なかむらるみ)。街中で見かけたおじさんたちの生態を絵と文章で表現している。いるいる、こんな人! あるある、こんなこと! ほとんど北斎漫画並みに平成のおじさん百態、しかも男どもの滑稽さ、けったいさ、不格好さ、変態さ、げびた下ごころなどが満載である。面白うて、やがて哀しきおじさんたち! 武蔵野美術大卒のイラストレーターの著者の観察力の緻密さ、文章の洒脱さに、小さい声でダハハハハである。高級な時計や靴などを紹介している大人の男の上質図鑑の生真面目さ、虚栄さが滑稽に見えてくるほどに、おじさん図鑑は巷で垣間見る普通の男たちを描いている。いわば大人の男の中質以下の図鑑でもある。高級時計を身に付けた銀座の紳士のダンディズムもあれば、気の抜けたビールのような、ほにゃらほにゃらの「だんでぃずむ」(カタカナ表記ではなく、ひらがな表記が似つかわしい)もあるのが、おじさんたちの世界であり生態なのだと気付かされる。

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最期の晩餐はこれだ!

2018-05-13 | Weblog

有名人や無名人を問わず、食事や料理の話題でしばしば挙がってくるテーマに最期の晩餐でなにを食べるか、というのがある。おのおの想い巡らせば色々あるだろう。ミシュラン三ツ星のシェフが直につくったディナ―フルコースや、おふくろの味を偲ばせるお茶漬け、吉野家の牛丼特盛りに生卵プラス豚汁、山形産さくらんぼ佐藤錦1箱まるごと、ウニとイクラの軍艦巻き5人前など、書き出せばキリがないほどだ。わたしも1年に1回は最期の晩餐はなににしようか、という問い掛けを強健な胃袋からなされることがある。最期の状態が寝たきりなのか、腕立て伏せ50回軽くこなせるぐらいに元気満々なのかによって内容が変わって来るが、ここはかぼちゃみたいに硬く考えないで、豆腐みたいに柔らかく対応してみよう。

生まれてこの方、蓄積してきた過去の食事データを脳内で読み込んで呼び出す時間がまどろっこしいので、体と腕を動かしながら最期の晩餐を見出すことにした。こういうのは頭をひねって絞り出すより、口をもぐもぐしながら思案した方がいいに決まっている。食べるという幸福はまさに口福であり、口元にありだ。日曜日の朝だし、朝刊の読書欄を読みながら、まずはボルドーの赤ワインをグラス1杯ちびりちびり。肴は旬のソラマメ(お多福豆)をさや付きのまま数本をオーブントースターでしばし焼く。さやの中の薄緑の豆の温め具合(ほどよく熱が通っているか)を見るため、さやの一端をキッチン挟で少し切って開き、豆を1個を取り出して試食。頑なな硬さがほんのりと熱でほぐれていい感じである。

皿の上にさや付きの豆が並んでいる。さやを開いて中身を1個ずつ口に放り込む。嗚呼、旬の味だよ、新緑の季節だよ、ワインの赤と豆の緑のマリアージュだよ、最期の晩餐の開幕はこれだな! そう確信する。さやを開き、艶やかに潤んだ豆を丁寧に噛みほぐす。赤ワインがそれを包み込み、口福が広がる。豆を味わうと同時に読書欄を読むという2つの行為のさなかにあることのなんという至福感。「パンと野いちご」(山崎佳代子)の紹介記事の各行を視線は追っている。1991年に始まった旧ユーゴスラビア内戦という混乱期に地元民がどんな食事をしていたのかなどを綴った書である。

著者の思いを記事から引用する。「食べるとは、食材を買い、料理をし、誰とテーブルを囲むかを含め、人間にとって大事な仕事。語るのに時間がかかる人も、体を揺さぶって生き生きと話す人もいた」。民族対立で国家が崩壊するという戦禍を踏まえ、著者は語る。「国家や政治など大きなことより、一緒にご飯を食べる日常を大切にしたい」。同感。食事をするということは暮らしや人生の原点であり、毎日のことであり、生きることそのものである。

読書欄をひとしきり読むと最期の晩餐の道へ戻る。行き着くところは、やっぱり自分でつくった料理だなあと自らに言い聞かせる。キッチンに立って、食材を取りそろえ、包丁を振るう。寝たきりなんかになっている場合じゃないな。背筋を伸ばして最期の晩餐を迎えなくては。先ほどの記事の内容の一部が頭をよぎる。一緒にご飯を食べる日常……。そうだな。1人で最期の晩餐は嫌だな。寝たきりだと介助の方と一緒に食べることになるのかな。1人きりの食事じゃないが、こんな連想をしてしまう。つくってもらったものをミキサーにかけて流動食状態にしてスプーンで口元まで運んでもらうという最期の晩餐。やっぱり形のあるものを自分の手で取りたいものだ。

なにをつくろうかと、あれこれ思案することなく、頭の中から出てきた献立がカレーとなった。ご飯にカレー、うどんにカレーと小さい頃から体にしみついたカレー味がものを言ったようだ。食材も冷蔵庫にあるものでつくってしまおう。神戸牛を使ってみたいとか、イベリコ豚じゃなきゃ嫌だとかわがままは言わない。ジャガイモも北海道産じゃなくちゃ、などとこだわらない。あるもので十分だ。

常在厨房の意識で冷凍庫にはジャガイモやニンジン、タマネギなどを事前に刻んだ容器を保管している。取り出して即使える。豆は食べ終えたが、赤ワイン1杯じゃ物足りなくなってきた。きょうは日曜だし、外出することもないし、是非ともするべき業務もないし、最期の晩餐づくりに精をだすだけでいい。そうなればお代わりだ。大きめのグラスに代えて2杯目をそそぎ、ちびりとやりながら、鍋にオリ―ブオイルを引き、九州産若鶏ムネ切り身を4切れと細かく切ったニンニクを入れ込む。IH調理器の電源を入れ、いざカレーづくり開始。ジュッーという食材を炒める音がここちよい。音だけで垂涎が始まる。頃合いを見て食材を継ぎ足していく。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、グリーンピース、コーン。鍋の中で食材が上下左右に混ざり合い、彩りがまた食欲を高めてくれる。タマネギが飴色になるまでしっかり炒めてください。かつて参加した料理教室の女性講師が言っていたのを想い出したが、わたしはじっくり炒めない派である。浅めに炒める口だ。卵は半熟、ステーキはレアに近いミディアムを所望する一派だからね。

炒め終わったら沸騰したお湯と常温の水とを半分ずつ、別の鍋に入れてほどよい温度にしてから、カレー鍋に注ぐ。中火でぐつぐつ煮込んだら、市販の辛口ルーを入れ込み溶かす。後は弱火で仕上げの煮込みとなる。きょうはカレーライスではなく、カレースープにしてみた。ライスをはぶいて、純粋にカレー味に染まり切ったスープを万感の思いで頂くのである。最期の晩餐だからね。

さあ、出来上がった。ワインも体の中をほどよく巡り回っている。スプーンもやや重めの、どっしりとしたものを使おう。ひと口すくって口元へ。言葉は無力とは言わないが、今は無用だ。自分でつくること。今ここにある食材だけでつくること。わが家で、いつもの食卓で、お気に入りのスープ皿とスプーンを使い、自ら口元へ運ぶ。時折、赤ワインが割って入る。豆に代わって葡萄パンをちぎりながら食べている。これも小さいころから好きだったパンだ。葡萄が少ししか入っていない葡萄パンもあれば、どこをちぎっても大きめの葡萄が顔を出す葡萄パンもあった。きょうのはどちらかと言うと、少なめの葡萄だった。

カレースープ、葡萄パン、赤ワインの時間が終わった。堪能、堪能。仕上げはやっぱり珈琲だ。コク深い味わいといった形容詞が付いた深煎り珈琲をマグカップにたっぷりと注ぎ、デザートとしてチョコチップ入りメロンパンを添える。デザートにしては大人の手の平を広げたぐらいの大きさだが、最期の晩餐だから大盤振る舞いでいいだろう。スターバックスで珈琲を飲む時もチョコチップ入りのスコーンが定番だからね。今回は葡萄パンと同じく小さいころよく食べていたメロンパンにも登場願った次第。始まりの赤ワインと旬の豆も最高だが、締めの深煎り珈琲とチョコチップ入りメロンパンも最高だ。最期に相応しい。満足にして満腹である。

最期の晩餐を日曜の朝食と昼食を兼ねて頂いた。ブランチだ。想い残すことを考える余力もないほどにほろ酔いとなり、胃袋に体中の血液が集中し眠気を催してきた。食後の歯磨きを済ませ、足取りは寝室へ。窓越しに外を見ると新緑の景色の中で雨が降り出している。最期の時を飾る静かな日曜日。晩餐を早々と昼前に取り、寝床に入る。おやすみ、世の中よ。このまま目を開けることがなくても、わたしは満足だ。後のこと? 生きている人たちにお任せだ。

 

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里山古民家好日庵にて

2018-05-07 | Weblog

世の中が黄金週間のさなか、緑に囲まれた庵にて巡り会った人たちのことどもを想う。

文芸に通じた、その男性の口癖はいつもこうだった。

わが人生、道半ばですよ。

70代のときも同じ口上を聞いた。

80代のときも同じ口上だった。

90代に入っても同じ口上を繰り返した。

のんびり屋のわたしもさすがに尋ねた。

もう道を極めてもいいのでは? 

いやあ、まだまだ道半ばですよ。

そう言って、まもなくして道から外れて天へ昇っていかれた。

大正生まれの方だった。デカルト、カント、ショーペンハウエルといった当時一世を風靡した西洋哲学の薫陶と、バンカラ気風の旧制高校で学び、常に我が人生の正師を求め続けていた。まさに生涯一書生の気質が「道半ばですよ」の口上につながっていた。弟子であること、私淑すること自体に喜びを、満足を感じるという生き方であった。いつまでも書生や弟子に甘んじることなく、師を超えていこうという気概があってもいいのでは。師を超えることが師に報いること。そんな思いをしていたが、その方に面と向かって言うことはなかった。そうして道を極めることなく、文字通り道半ばでその方は逝ってしまわれた。

その団塊の世代の方は本を読むのが好きで、さらに蔵書を書架に並べるのも好きだった。本で知ったいろんな人物の言動や生き方のことを事細かに、まるで友人や同僚だったみたいに話すのが得意だった。博覧強記とまでは行かないが、読んだ本の内容を記憶し続ける力量はたいしたものだった。伝記作家みたいに人物像を語ることに喜びを感じていたようだった。ただし人物像に対する自らの論評は皆無で、本の記述をまるっきり引用、まる暗記しての語りだった。人物伝を語り通すのではなく、あなた自身の考えや評価を聴いてみたかったのだが。そんな思いをしていたが、その後は疎遠となり会うこともなくなった。

その方は喫茶店の経営者だった。街の中心部で珈琲と食事ができる客席50席以上はあるような店だった。女性従業員を数人雇い、奥様も片腕として店でともに経営に従事していた。その街を訪れたときは必ず立ち寄っていたから、経営者とは顔見知りになった。店内に飾ってあったインテリアでエジプトのファラオ像のブックエンドを、どういう経過だったかは忘れてしまったが、いただいたことがあった。随分昔の思い出だが、そのことが数十年経って、わたし自身がエジプトを訪れる動機づけの1つとなった。その経営者がどこで、どういう風になったのか、雇っていた女性従業員といい仲となり、挙句に心中事件を引き起こした。隣町の山中で自家用車に排ガスを引き込んだ。誰かが山中の不審車両に気付き警察に通報した。経営者は絶命し、女性従業員はいち命を取り留めた。

名物喫茶店だったから街中に顛末が広がった。事件があってからわたしの足は遠のいた。奥様の心中を察すれば声の掛けようもなかったし、顔を合わせるのも辛いということもあった。数年が過ぎて街を通ることがあった。以前と同じように喫茶店の建物はあり、看板も店名もそのままだった。店内に入り、カウンターから離れた席に座り、珈琲を注文した。内装も変わりはなく、お客はかつてのように多く賑わっていた。 カウンターの中には奥様の姿があった。眼の前の客と愉しそうに笑顔を見せて会話をしていた。経営者としての立ち居振る舞いが備わっていた。わたしの記憶はここまでだ。その後会釈をしたのか、カウンターに近づいて言葉を交わしたのか、それとも珈琲を呑んで勘定を払い店を出たのか。まったく想い出せない。想い出せるのはファラオ像のブックエンドをくれたときの経営者のはにかんだような顔と、カウンター内の奥様の笑顔、それも輝くような笑顔だけだ。

さまざまな人々の顔ぶれと想い出が湧きおこり、しみじみとした気持ちとなる。出会う人より別れる人が多くなってきた。10年、ひと昔。20年、ふた昔。30年、み昔。時はどんどん過ぎていくが、想い出の中の人たちの顔はより鮮明になっていく。しかも皆、生き生きとした表情をしている。いい笑顔ばかりだ。

 

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