おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

食通のための田園独奏曲

2018-11-14 | Weblog

豊穣の秋に田園路をドライブする。車中の音楽を止めて目の前に広がる景色を味わう。無音の空間に無数の色彩がフロントガラス越しに飛び込んでくる。収獲の秋はさまざまな色でもってわたしを誘う。色仕掛けに弱いのは男の常ならば、車を降りて色香の世界にあえて迷わされようじゃないか。

稲穂を脱穀した後も、捨てることなく、きちんと活かそうというのが田園の伝統であり、常識ということを教えてくれる光景がここにある。

 

自称・野菜ソムリエのわたしからの出題。さて、目の前にある野菜がなんであるか分かるかな? スーパーで売り切るために小分けされた野菜ばかり見ていると、本体そのものの姿を見失ってしまう。野菜が野性の主だってことを忘れないようにしないとね。

 

正解できれば、かなりの野菜通だ。左側がとうがん、右側がかぼちゃだよ。

見れば見るほど、食べ物というより、もそもそと動きだしそうな生き物だ。

 

大地の恵みは野菜や穀物だけじゃない。肉もまた食らう悦楽を人に味わわせてくれる。

さあ、食処の引き戸を開けて足を踏み入れ、いざ注文。美味そうな肉が目の前に運ばれてきた。

地産地消の見本である。豚、牛、鶏の肉切れ、ソーセージ、ウインナがどっさり。

色よし、艶よしで食欲をわきたたせ、口の中が自然と潤ってくる。

 

食の仕方はいろいろだが、田園の中の食処ならば炉端焼きと行こう。

もちろん炭火で鉄板を熱していく。

トングで一品ずつ鉄板の上に置いていくところから食事が始まる。

程よく焼き上がるまでの待ち時間に、舌と食道と胃袋が一体となってうごめき出す。

十二指腸や小腸、大腸までもが、まだか、まだか、とせっついてくる。

 

さあ、どうだ、と言わんばかりにいろんな小鉢、小皿に盛られた小料理が次々と運ばれてくる。

待ち受け状態の食欲を少食、腹八分モードから、大食、無制限モードへ切り替える。

号砲一発、トングが鉄板から肉や野菜をつまみ上げ、箸がそれらを引き継いで口元へ運ぶ。

舌が、食道が、胃袋がぬるぬると動き、目が、指が、腕が次はどれにしようかなと狙いを定める。

 

わたしによる、わたしのための無伴奏田園独奏会が始まる。食べている途中で、ふと目の前に立ち会い傍聴の主がいるのに気づいた。

双葉山がわれ未だ木鶏たりえずならば、当方はわれ未だ木鯛たりえずだ。

とどまることのない食欲の奥義を極めるのは、さて、いつの日か。

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タイムライン 今、ここから始まる

2018-11-03 | Weblog

始まりの前、世界はこのように色のない時間の中にあった。

参列者たちはパイプオルガン、ヴァイオリン、ハープの伴奏に合わせて讃美歌312番を歌いだした。

♪いつくしみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いを とり去りたもう

 こころの嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を

 

歌が終わると世界は瞬く間に色彩に染められた。

 

前列から並んだ木製の長椅子を左右に分けるヴァージンロードを新郎が1人歩み、祭壇の前で新婦を待ち受ける。

参列者たちもまた新郎と同じ思いを分かち合う。

 

輝ける純白の時間がしずしずと通り過ぎていく。

 

同い年の2人は20歳で知り合い、7年間の交際を経て、華燭の時を迎えた。

 

2人が出会って育んだ、若くて小さな福が、親戚、縁者、知人、友人らの集いをもたらした。

父が寄り添う新婦は1歩1歩、新郎に近づき、手を伸ばせば触れ合える所で立ち止まる。

父はヴェールに包まれた愛娘をそっと送り出す。

 

既婚者は自らのあの時を思い、未婚者は自らのその時を想う。

祝福される時を持つというだけで2人は幸せの1歩を踏み出した。

新しい人生が、今、ここから始まる。

 

2人が結ばれたという福を、参列者たちがおすそ分けしてもらう時間になった。

 

卓上のナプキンも、グラスも、出番を待つ料理も、すべてが幸と福の盛り上げ役となる。

 

赤、白、ピンクの生花が参列者を和ませ、祝福そのものを形作る。

 

結婚という門出に立ち会える幸せをもたらしてくれて、ありがとう。

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平成最後の秋12コマ

2018-10-30 | Weblog

時が流れて時代は変わる。時代が変わって時は押し流される。

記憶を記録に留めよう。秋のひと時、ふた時、み時、エトセトラ時を探して。

 

落葉した百日紅の向こうに透けて見える青空と浮雲。

春でもなく、夏でもなく、冬でもない、青色だ。

空を見上げる人は詩人か科学者になれるかもしれない。

詩人は空を詠み、科学者は空を読み解く。

 

青空に気を良くして男の料理に挑む。野菜たっぷり、たっぷり、たっぷりのカレーづくり。

料理をしながら、いつも思う。これって、なんて創造的な行為だろう。

 

料理づくりを愉しむ引き立て役は赤ワインと茹でた塩枝豆だ。

実はワインと枝豆が主役で、カレーはほんの脇役、おまけだ。

 

朝風呂のお伴のバスローブを秋の天日に干してみる。

ざっくりとしたタオル地のもふもふの心地よさ。色は砂漠を思わせるサンドベージュ。

 

砂漠と言えば、アラビア語でサハラ。サハラと聞けば、エジプト。

エジプトと言えば、やはりこれ。

卓上に鎮座するピラミッド、スフィンクス。

時が経過して時代は変わり、今では宇宙飛行士がお目見えする時代だ。

 

廊下を眺めれば、秋の光が影絵を描いていた。

時々刻々と変わっていく一期一会の作品。

 

秋の日差しを浴びるテラスのラブチェア。白い葡萄模様も廊下の影絵に負けない出来だ。

この葡萄はワイン用ではなく、生食用かな? どちらかしら?

 

ほろ酔いになると、なにか音楽でも聴きたくなってきた。

部屋の片隅にある古いオーディオに目をやる。

何十年も前に差したままの配線。裏方ひと筋の役割に徹してきた。

 

音楽と相性がいいものの1つが映画。もしかしたら切っても切れない関係?

そうだ、映画館へ行こう! すたこら、すたこら。

いくつものスクリーンが並ぶシネコンの映画館。メジャー系の作品が闊歩する。

もちろん、個性的な作品を上映する名画座みたいな古びた映画館も大好きだ。

 

つくりものの映画を見た後には現実の景色に目を向けよう。

山の頂上に向かって、せり上がるように立ち並ぶ家、家、家。

現実は映画以上に面白みに満ちている。

 

見下ろせば、路面電車の敷石の側を車が走っている。

ミニカーみたいに見える車の運転手たちは真上から見られていることを誰も知らない。

 

建物を出て外を歩いてみよう。散策逍遥して行き当たったのがここ。

街中に川が流れ、石橋がいくつも掛かっている。

石橋を叩かず、スキップして渡ろう。

そして、どこへ行く? もちろん、手作りにして建築中の未来へ!

 

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カメラを止めるな!

2018-10-24 | Weblog

ホットコーヒーを注文して、プラスチックの蓋をした紙コップを手渡され、チケットをもぎる入り口へ歩いていき、女性スタッフからスクリーン5番ですねと言われて、両脇にスクリーン番号や近日上映される映画パネルが並ぶ通路を進み、J列―9番と印刷されたチケットを再確認して席に着いた。開始5分前ぐらいだった。客席には10数人がてんでんばらばらに着いていたが、わたしは以外は女性だった。男は1人だけかと思いつつ、次々とやって来る客を見れば女性ばかりだった。なんとも奇妙な感じを覚えつつ、オセロゲームで白に取り囲まれて、ただ1個だけ残った黒みたいな心境でもあった。場内の明かりが少しずつ落ちていく中でコーヒーを呑み干していき、上映が始まった時点で紙コップの中は空になった。

スクリーンにタイトルが浮かび上がる。カメラを止めるな! 予告編を見たこともなければ、作品に対する予備知識もほとんどなし。必見だと誰かに言われたわけでもない。洋画はよく見るが、邦画への関心は薄く、ここ数年で見た作品と言えば「君の名は。」ぐらい。それでは、なぜ紙コップに入ったホットコーヒーを手にして、わざわざ映画館に足を運んだのか。それはマッチ1本の灯みたいな作品が、どんな話題故なのかは知らないが、なにかしら評判の火が広がって、北は北海道から南は九州・沖縄まで各地の映画館で上映され、観客動員数が200万人を超えたという、新聞記事か、ネットニュースかをちらりと読んで、各地で燃え上がる熱気とあちこちから上がる狼煙に包まれたヒット作の気配を感じ、どんな作品なの? と思って引き寄せられたためだ。

大手の映画会社が資金力や宣伝力を活かして名のある監督、世間に知られた俳優を起用して専用の系列映画館で上映するという映画界の大勢の中で、新人の監督、無名の俳優たちが自主制作したような作品は、多くの観客の目には届かず、生まれたものの短い上映期間と話題なしとなって消えていく。それはマッチ1本を擦って燃え上がった、わずかばかりの光芒、いわば制作者たちの映画製作への独自独特の思い入れ―観客の思惑や共感とは擦れ違ったりするが―の象徴みたいなものだ。

さて、カメラを止めるな! どんな作品なのだろうか。ゾンビ映画を制作するというのが題材だとか。う~ん、この時点で期待度は限りなく低い。ゾンビ、あまりと言うか、ほとんど好きじゃない。マイケル・ジャクソンのダンス・スリラーだけは例外だけど。俳優たちの、いかにも素人っぽい演技場面から映画は始まる。出演者のシャツに付いた血糊の色が不自然で嫌だなあ。べっとりと血に染まったシャツを着た若者の男性が、同じく血に染まったシャツを着た若者の女性に向かって「風呂に入りたいなあ。一緒に入ろう」と声を掛けると、女性は「嫌よう」といった返答や拒絶の態度もなく、暗黙の同意をうかがわせた。ここの場面は、そういうことか、男女関係の描写としては技ありだなと感心した。他は、ゾンビ映画づくりに絡まるドタバタな展開の流れとなる。

内容は映画制作づくりに挑む監督、俳優たちの偽の血と汗と涙が入り混じった苦闘物語。この作品が200万人を超える観客を集めた秘密が、場面の展開につれて、だんだんと分かってくる。映画づくりの表舞台と裏舞台を喜劇として再構成した点と、前半の観客の視線から、後半に入り制作者の視線に切り替わり、観客たちをどんどん画面に引き込んでいく点。なんだ、そういうことだったのか。手品や奇術の種明かしをしていくように、面白可笑しく軽快に見せつけていく。まさに観客を情景の中に、スクリーンの中に取り込んでいく。そうなんだ、わたしたち観客は、見事に作中のゾンビに噛みつかれて、終映する頃にはすっかり虜になってしまっていたんだ。ゾンビ化した観客たちは映画館を出て、知人や友人らにお勧めすることになる。

カメラを止めるな! って面白いわ。1度見てみい。

かくしてゾンビ映画は北海道から九州・沖縄まで上映館が広がった次第だ。

映画が終わって場内が明るくなった。いつの間にか観客が増えていた。それも女性だらけ。男性はわたしだけ。なぜ? なんなの? 後で分かったが、この日はチケットが安くなる女性優遇デーだったのだ。そういうことか。オセロで1つだけの黒、場内で1人ゾンビ化していたのか。

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Caramels, bonbons et chocolats

2018-10-21 | Weblog

おきまりの日常の暮らしの中からちょっと脇道にそれて非日常の森に通じる小道を歩くことは、心地よい。それは新たな刺激をもたらし、いつもと違う感覚を覚えるから。日本語漬けの毎日から、異なった言葉の世界、つまり外国語に触れるだけでも非日常の小道に入ることが出来る。英語は学ぶべき必須言語として教育、広告、放送、出版という日常の世界にすっかり入り込んでいる。よって除外する。わたしにとっての小道は美しい音楽の調べのように感じるフランス語。吉永小百合にフランス語を教えたという大学教授から習ったというのが、フランス語を第2外国語に選んだわたしの唯一の自慢でもある。とは言うものの、わたしのフランス語力は、コマンタレヴ、ケスクセ、セレレガンス・ドロム・モデレ-ヌ程度の代物で、旧知のフランス人女性からなんでもっとフランス語を勉強しなかったのか、と日本語で甘く叱責されるほどである。

教授の授業での脱線話を今も想いだす。

僕がこうして教壇の机に座っているだろ。目の前の最前列の机に小百合ちゃんが座っているんだよ。他の学生たちは2列目以降に彼女を取り巻くように着席してるんだな。若くて麗しい小百合ちゃんがフランス語を聴きもらすまいとして僕を懸命に見つめるんだよ。授業が終わるとね、他の学生たちが話しかける間もなく、映画会社の人なのか知らないが、お付きの人が教室の外に待ち構えていて、さっさと連れだしていくんだよ。授業が始まる前も同じでね。小百合ちゃんは直前にお付きの人とやって来て最前列の席に座り、そこに僕が教室に入って来るということさ。

吉永小百合とフランス語。ボンジュール、サユリ! どんな感じでフランス語をしゃべるのかしらん。

よし、フランス語で日常を離れて頭の体操、脳みその血流をよくしようじゃないか。今さら生真面目にフランス語の教本なんか読む気もしないし、教科書然とした学習法は卒業だ。シャンソンを愉しみながらフランス語の粋を味わう。教材は甘い囁き(原題はParoles 、 paroles)。ダリダとアラン・ドロンが歌っている。なぜ、この歌を選んだかというと、男と女のやり取り、掛けあいが含み笑いしたくなるように面白いんだ。美男のドロンが美貌のダリダに言い寄り、口説く内容。上あご、下あごの歯があちこちで浮くような言葉―インプラントをしていれば、くるくるとネジが逆回転するようにしてせり上がってくる―をドロンが最初から最後まで掛けまくる。歌うというより合いの手だ。ただし思いは通じない。これに対してダリダは歌いながら、ドロンのすべての言葉をいなし、かわし、はたき落とす一方で、皮肉、拒否、往復びんたの直言を打ち返し、ドロンの面目をまる潰しにする。

女たらしの言葉を連発して焦り気味で攻め込むドロン。ダリダはちっとも慌てることなく、男なんてこんなものという余裕さえ感じさせる堂に入った態度であしらいつつ、つれない言葉でもっていたぶりまくる。下心を埋め込んだ甘ったるい囁きをしまくるドロンが自業自得の結末となる歌なのだ。女の扱いに対して自信満々で自惚れた男が、甘言という神通力を無くし、慌てふためき、焦って顔をこわばらせ、醜態をさらすのを見るのは、男性の立場からしても、なぜか清々しい気分だ。断然、ダリダを支持したくなる。ダリダよ、女たらしを言葉でもって、もっと、もっと張り倒して!

フランス語の学習というよりは、女性への口のきき方、上手な男あしらいの教本にしていいような歌でもあるし、恋愛の失敗、不成立とはこういうことなのかと訳知り顔になることもできる。

Paroles et paroles et paroles

言葉 言葉 言葉

Écoute-moi

聞いてくれ!

Paroles et paroles et paroles

言葉 言葉 言葉

Je t'en prie

お願いだ!

Paroles et paroles et paroles

言葉 言葉 言葉

Je te jure

誓うよ!

Paroles et paroles et paroles et paroles

言葉 言葉 言葉 言葉

Paroles et encore des paroles que tu sèmes au vent

風の中にまき散らされた言葉と言葉

 

ドロンの甘い言葉にダリダは駄目だしをする。 

 Encore des mots toujours des mots les mêmes mots

またなの? いつもそうね お決まりの口説き文句 

Des mots magiques des mots tactiques qui sonnent faux

手品みたいにお上手だけど嘘くさいわ

 

歌を聴きながら、わたしはダリダと同じ心境になって心中で呟く。

ドロンくん、もういいかげん口説くのをやめんか! 黙りなさい!

ダリダのパローレ、パローレもいい感じなのだが、お気に入りというか、いいなあというフレイズはここだ。

Caramels, bonbons et chocolats

キャラメルか砂糖菓子かチェコレートみたいな言葉だわ

キャラメ~ルという声、言わんとする意図、例え、それに個人的にどれも大好きだから、もう最高の表現だね。

 

 



 

 

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ブルックス・ブラザーズの記事を読みながら

2018-10-15 | Weblog

こんがり焼いた食パンにねばねばの納豆を乗せて頬ばったり、マンゴーのスムージーをごくりと呑んだり、ゆで卵の一角を食卓の上でこつんとやって殻を手で剥きながら、朝刊に載ったブルックス・ブラザーズ創業200周年を記念した展覧会(東京・代々木)の記事に目を通していた。記事には年代ごとのスーツやボタンダウンのシャツ、スポーツウエアのカラー写真が添えられている。いい仕立て、色合いの良さ、しゃれたデザイン、丁寧に作られた製品といった雰囲気が紙面から伝わってくる。名は体を表すというが、それ以上に服装、服飾はその人となりの在り様を見事に醸し出す。品性、品格、感性、貧富、凝り性、無関心、暮らしぶり、優雅、貧弱、哲学、美学、無学、見識、非常識、無知、知性、馬鹿っぷり、目立ちたがり。まさに身なりはその人そのものを顕示かつ暗示する。

自らの服飾生活を振り返れば、こうした装いの詩と真実のほんの一端に人生の折々で触れることはあったが、大方は日々の生活の中で関心の度合いが希薄なものになっていた。身づくろいをきちんとするという意識と習慣が定着していなかった。その結果、わたしの服のセンスというものは、時に頓珍漢な色使いの組み合わせであったり、すっかり時代遅れの服飾に気付かなかったり、何十年も着ない服がクロゼットの中に仕舞われて博物館の一品状態になっていたり、服装への敬意をすっかり失くくしてしまっていたようだ。ようだ、と書いたのは、ある女性から注意、忠告を受けて初めて自らを省みて思い知ったからだ。

人と会うときは裸ではなくて、服を着るでしょう。だから身づくろいというのは大事なのよ。お互いに最初に目にする1つが服装なんだから。あなたの良さを感じさせる服装って大切よ。

それは、あなた自身を大事にし、慈しみなさいという友情ある説得、あるいは愛情ある苦言だったのかもしれない。確かにそうだな。これまで歩んだ人生の中で、服の在り様についてじっくりと考えたことがなかった。冠婚葬祭があれば取り立てて考えることもなく定番の装いで十分だったし、春夏秋冬の季節になれば、思い悩むことなく洋服箪笥やクロゼットから、そこに在るものを取り出して過ごしていた。食事に例えて言うならば、なんとなく1日3食を漫然と取って過ごすのと、きょうの気分に合わせてあのお気に入りの料理にしようかなと意識を働かすことの違いだろうか。

日頃の暮らしぶりが顔つきに表れるように、身づくろいもまた同様である。若いときは、その若さが主人となり、どんな服装でも従えてしまう。洗いざらしのTシャツと色あせたジーンズでも違和感なく似合う。あるいはジャージ姿で街中を闊歩しても、それは若々しさの特権とやらで絵になったりする。歳を重ねていくと、服装が主人となり、装った人を従える。くたびれた服装をすると、中身の人もまたくたびれて見える。いや、実際くたびれている。履き疲れたズボンよ、困憊気味のジャケットよ、さようなら! コンマリ流の整頓法ではないが、ときめかない服たちよ、グッドバーイ! 

不用なものと、不用でないものとを分けて、ため込んだ服を整理していく。はちゃめちゃの仮装パーティでも使えそうにないものが結構ある。屋外の作業着用に出向する組、ウエスなどぼろ布行き組、欲しい人があれば差し上げる転出組(好みとサイズの関係でほとんど希望者はいないのだが)、リサイクル組といった具合に仕分けしていく。服は個性を深め、人となりを育てていく。対人関係の中で好印象や信用、信頼に少なからず影響をもたらす。ドレスコードであり、服装観察である。服飾賛歌一色の話になったが、服飾を取り除いた裸身にも個人的に愛着と魅力を感じている。これを言いだすと、ちゃぶ台返しになるので即封印の措置を取るが、誰にも聞こえないように風呂場で小さく呟くさ。

裸身に勝る服装はないんだがな。ミロのヴィ―ナス見よ!

 

 

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もういくつ寝ると1日4時間、週休4日制だろう

2018-10-08 | Weblog

ねえ、パソコンの機能がこんなによくなって仕事がはかどるんだけど、なぜか仕事が減るのではなく、どんどん増えてくるねえ。どうしてだろう。

とある仕事場で傍らにいる女性スタッフに囁きかける。彼女はパソコンに向かって、とあるデータ入力作業の最中にもかかわらず、わたしの方に向き直ってにっこり笑顔で答える。

そうですねえ、確かに仕事の量は減りませんねえ。

やっぱり彼女も同じ思いだったのか。わが意を得たりとの思いで、わたしは語りかける。

ウインドウズ95時代のパソコンの作業速度や容量、アプリの有用性を思えば隔世の感があるよね。さらにパソコンがなかった時代の職場での作業は紙に手書きの時代だよ。毛筆と和紙の違いはあるが、やり方は江戸時代と変わらなかったんだよ。それがディスプレイを見ながら、キーボードを見ずに打ち込むスタイルに一変したんだから。パソコンの業務処理能力は超が頭に付くほどの進み具合だし、アプリも格段におりこうさんになっているよね。宛名書きソフトの筆まめに感激したころを思いだすが、あれは無邪気と言えるぐらいだよ。今の販売管理ソフトなんか、簿記の知識がなくても何とかやれるというか、手間暇かかることはソフトがお茶の子さいさいで処理してくれる。

彼女もうなづきながら応える。

御意。おっしゃる通りでございます。

そうか、そうか、彼女も同感の極みにあったのか。ますますわが意を得たりで彼女に話しかける。

これだけ仕事がはかどると、理論的には週休2日制の労働が、週休3日制とか4日制になってもおかしくないよね。1日の労働時間も現行の法定8時間が6時間、いや4時間ぐらいになってもいいよね。1日4時間、週休4日制、最高じゃない! 仕事が愉しくてしょうがないってなるよね。どうして、こうならないんだろう。

よどみなく、とくとくと語るわたしの意見に耳を傾けていた彼女は、言葉で返答するのではなく、うなづいて応じた。

彼女からのボディーランゲージ。その思いはこんな感じである。

ご高説はもっともでございますが、そろそろ、データ入力の業務に戻りたいのですが。

彼女の仕事を中断していることに気付いたわたしは、語りかけを雲散霧消するように終えて、手元の書類に目を落とした。わたしのボディーランゲージを読み解いた彼女はわが意が通じたという悦びを秘めつつ、真摯な面立ちでパソコンのディスプレイに目を戻し、キーボードを軽快に打ち鳴らしてデータ入力を再開した。

パソコンによる仕事がはかどっているのに、なぜ1日4時間、週休4日制にならないのか。わたしの自問は頭の中で続いていた。簡単ながら結論めいたものを導いた。それは多分、労働生産性の問題に行きつく。より分かりやすく言うと、利益がどれだけ出ているか、あるいは利益率がどれだけ高いかという関門にぶち当たる。1日8時間、週休2日制のときの利益もしくは利益率と同じであれば、1日4時間、週休4日制が可能となる。理論上では成り立つが、現実には、そこまでの利益や利益率を短い労働時間や日数で上げることができる企業はまだまだ少ないだろうし、残業の存在、職種業態の違い、取引先やお客様の都合という条件を考慮していない机上論との指摘もあるだろう。でも1日4時間、週休4日制を考えることは愉しいことだ。だって、朝10時に出勤して、昼休みの1時間を挟んで午後3時になったら、もう退社時間である。月、火、水曜日と3日間仕事をしたら明日から休み! だよ。

人工知能のAIだ、物とインターネットがつながるIoTだと経済の話題が先行しているが、肝心の労働時間短縮の話題は出てないなあ。AI時代、IoT時代になっても1日8時間、週休2日制もしくは隔週2日制なんだろうか。経済学者でも経営学者でもいいが、短時間で労働生産性を上げる奇策をぶち上げる人はいないのだろうか。そんな理論を発表できたらノーベル賞ものだって声が聞こえてくる。だから、わたしはあえて奇策と言っているんだがね。

 

 

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満月の夜に秋風が吹き抜ける

2018-09-25 | Weblog

出来たての金貨のような輝きをした満月が東の空に浮かんでいた。地表のすべてに艶消しの光を注いでいる。暗がりに覆われた世界の上から、ものひとつ言うことなく世界に静寂さを撒いていく。のんびりと宙に浮いた月の世界がある一方で、地上には寒さの季節の到来を早くも予感させるような秋風が黒い影となった木立の枝葉を強く揺らしている。月と地上のそれぞれの別世界がつくりだす、ちぐはぐな世界が目の前に広がっている。

なんだろう、未来の不安と不安定さを題材にした暗い絵画のような、この景観は。

政治、経済の先行きで明るい話題が乏しい。物とインターネットをつないで快適な生活を実現するという薔薇色の世界・IOTが喧伝されているが、まだまだ予告編で終わっている状況だ。関税を報復手段に使った米中の貿易戦争も巨大に膨らみつつある風船爆弾みたいなものだ。経済大国2強が角突き合わせた事態に他のどの国も和解の仲介をすることなく、ただ見守るだけというなんとも異常な構図となっている。翻って日本の高齢化社会の先行きを眺めれば、老前老後の経済破たん、介護難民など不安、懸念、心配のブラックホールが渦巻いているようにも見える。

いろんな意味で世界の落ち着きのなさが津々浦々の国々に押し寄せて、各国の落ち着きのなさが再び世界に引き戻されて拡散されていく。アメーバのような形状をした、未知のもやもやした物体が地球を覆っているような感覚でもある。満月が黄金色に照り輝いても地表にはひと筋の希望さえ届かないような状態だ。月夜に吹きすさぶ秋風がなにやら気落ちしたような気分にさせているのかもしれない。

書店の本棚で背表紙を眺めていると、一生お金に困らない生き方なる本があった。書名に思わず笑ってしまった。それは一生死なないで生きる方法と題した書名と同じぐらいに笑える。あるいは一生めしを食わないで生き抜く方法も追加していい。はたまた一生歳をとらない生き方もいいかもしれない。人の一生は歳をとり、めしを食べ、大なり小なりお金に困って、死んで行くのにねえ。一生なんて大上段に構えるから笑ってしまうんだな。せめて、ここ一番でお金に困らない生き方だったら、真顔で本を手に取ってしまったかもしれない。

満月の前夜、久方ぶりに夢を見た。目覚めてもはっきりと想いだせる夢だった。床入りする3時間ほど前に普段呑むことがない芋焼酎を炭酸水で割って大ぶりのグラスに1杯あおった。芋焼酎1、炭酸水1、すなわち五分五分の割合のところを芋焼酎7、炭酸水3だったみたいだ。なにせ朝から夕方まで家事労働、倉庫整理、廃材焼却などの肉体重労働をした後だった。ひと風呂浴びて、ぐいっとあおったまでは心地よかった。その後、忽然とカウチに寝入って2時間半。体に寒さを感じて目が覚めたのだ。酔いが全身に回っているのが自覚できた。千鳥足で寝室にたどり着き、そのまま床入り。そこで夢を見たみたいだ。あるいは酔い潰れたわたしを脳幹が眺め観察しているような状態だったのだろうか。それは臨終の間際のわが姿だった。寝床の周囲には誰もいないようだった。とにかく死の床にあって体の右半身を下にして横向きになっていた。なにやら末期のつぶやきを繰り返している。何を言っているんだろう。そう思いながら耳をそばだてる、もうひとりのわたしがいた。

みんなには本当にお世話になった。君たちと知り合い、愉しい人生だったよ。

もう1度、生まれ変わったら、また君と一緒に暮らしたい。

あの世で先に行って待ってるからね。愛してる。

借金はないから。資産は全部使い切ってくれ。

よくある、こんな文言なのかと思って傾聴してみると、どうも違う。なんと、数年前に往生した飼い猫の名前をひたすら呼んでいた。それは探し求めているような口調でもあった。臨死の間際に脳裏に浮かんできたのが、生まれてからわが家にやって来て18年と4カ月を共に過ごした猫だった。猫の姿が見えた訳ではなく、名前をたえだえの呼吸に合わせて呼び続けていた。臨死状態であの世に向かっているから、だんだん呼吸の間隔が広まってくる。飼い猫の名前を呼ぶのもゆっくりとなっていく。自分でも分かる。はは~ん、死期がいよいよ近まってきているなあ。こんな風にして、その時を迎えるのか。半ば感心し、同時に観察し続けているわたしがいる。そして最期に飼い猫の名前を呼び、大きく息をした。ああ、息を引き取ったか。そんな感慨に中で意識が途絶えた。

朝が来て、すっきりした気分で目が覚める。今しがた、あの世に往ったはずなのになあ、と思いつつ寝床を離れた。いやあ、変な夢を見たなあ。最期の言葉は飼い猫の名前かあ。大好きだった猫だったもんなあ。食卓の机に遺影を飾っているのが影響したのか。そんなことを考えながら、今宵、満月を眺めた。そうか、月になってこの世に戻って来たんだね。生きているときもそうだったけれど、あの世に往ってしまってからも、お前はわたしのひと筋の希望そのものだったんだな。ありがとう。わたしは満月に向かって飼い猫の名前を呼びかけた。

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秋めいてきたからネパール紅茶・イラムティーを一服

2018-09-08 | Weblog

あの酷暑はどこに行ったのかと思うほどに朝夕はすっかり秋めいた気候になってきた。きょうは土曜日、朝から雨が降ったり止んだり、朝刊2紙に目を通し、空調もいらない。室内は心地良いというほどではないが、心地悪いとは言えない。夏の終わりではあるが、秋に入れ替わる直前の、時の移ろいそのものが季節感ゼロ地帯をちょうど通過している感じだ。1年間の中で滅多に味わえない時間の真空地帯を迎えた朝、なにか呑みものを欲しくなった。いつもの珈琲はありふれた時間に味わえばいい。ホットミルクはもう少し肌寒くなってからでいい。僥倖に出くわしたような朝に淹れる呑みものは何か特別なものがいい。こんなときのための取って置きがあったな。随分と昔、ネパールを旅行したときにカトマンズで買い入れた箱入りネパール紅茶だ。なぜ買ったかと言うと、箱に描かれた絵が気に入ったからだ。真っ青な空を背景に王の中の王、山の中の山とも呼んでいいエベレストが屹立した姿。ネパール旅行の記念品に相応しかった。

お気に入りの木箱の図柄。ネパール紅茶の名品とされるイラムティーが入っている。

 開けてびっくり、調べてびっくりの紅茶だった。茶葉はS・F・T・G・F・O・P(スペシャル・ファオン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコー)という最高級だった。エベレストの絵柄に引かれて買っただけだったのだが。秋摘み1番茶みたいだ。ネパール東部のイラム地方で摘まれた。イラム地方はネパール水晶の産地として知る人ぞ知るカンチェンジュンガ(8586mの麓にあり、谷を挟んで東隣には有名なダージリンティーの産地がある。

最高級のネパール紅茶であるならば、威儀を正していただこう。

 

箱を開け、真空パックされた茶葉の袋から匙1杯分を取りだして紅茶専用椀に淹れてお湯を注ぐ。

 

待つことしばし3分間。当たり前だけど、ダージリンティーとも違うし、烏龍茶とも異なる味わいである。

イラムティーを呑んで、時の移ろいという貴重な時間を十分に味わった。これでよし。

おっと、そんな訳にはいかないね。呑み足りないんだな。やっぱり、これがなくちゃ。

前半がネパール紅茶なら、後半はボルドーの赤ワインとくるみに引き継ぎだ。

ぐびりとやりながら、のどかに新聞に目を通す。いい時間だ。大坂なおみ頑張っているねえ。

赤ワインちゃん、ごちそうさま。1杯目。

 

再び赤ワインちゃん、ごちそうさま。2杯目。

 

三たび赤ワインちゃん、ごちそうさま。3杯目。

酔ってなんかいませんよ。空けたグラスもお行儀よく立てておきましたからね。

うん? キッチンから佳人の声が聞こえた。冷蔵庫の側にいるみたいだ。

介抱してもらおうと思って朝から酔っちゃだめよ、甘えん坊さん。

 

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BOSSと戯れる

2018-09-05 | Weblog

BOSSが男ならば相手は秘書か、BOSSが女ならば相手は若い燕か。そんなたぐいの官能小説や背徳譚ではない。夏の盛りの午睡で見る夢物語でもない。記憶の断片を呼び起こしながら、BOSSのことを探ってみよう。

最初のひとかけらがこれ。

アルミのキャップを被った瓶? 経口補水液なのかな。

 

次のひとかけらはこちら。

緑色の容れ物かい? あっ、分かった! そんな声を上げた人がいるかもしれない。

 

その次の断片はこれかな。

なになに、シャワージェルにシャンプー。これは風呂場で使う物だね。

体を清潔に保つということは、なにをするのであれ大切なことだよ。

案外、官能小説の線も捨てきれないな。

 

次の次の次はこちらみたいだ。

なんだ、銀色仮面と鉄仮面の対面かい?

 

ここまで来たら、かけらを集めて全貌を描き出そう。

まあ、こんな落ちだとは分かってはいたんだがね。

 

夏の休日の午後、風呂場でシャワーを浴びて洗面台に立ち、バスタオルで体を拭う。鏡に映る上半身。生まれてこの方、わたしの行動を支え、実体そのものである肉体を眺めつつ、手のひらで胸元を軽く叩いてみる。パン、パンという張りのある音が洗面所に響く。目の前に緑色の小瓶がある。いつの頃から置いていたのか。香水だ。少なくとも過去1年間は使っていない。2年前も使っていない。うーん、3年前も使った記憶はない。ふと、香りを味わいたい気になった。ヒューゴボス・スポーツ・オードトワレ。黒いキャップを取り、中の銀色のスプレーボタンを押す。プシュッのプの音が無くて、シュッという勢いのある音ともに香水が胸元に小さく噴霧された。香りが広がる。鼻孔が深呼吸をするように吸い込む。香りは電気信号となって脳内に伝わり、これまで生きてきた中で蓄積された膨大な量の香りの記憶と照らし合わされる。

この香りの第1印象は、爽やかなこと。まず濃厚さは感じない。かと言って、軽くはかないものでもない。調香師ではないので、香りを的確に表現する言葉が乏しい。この爽やかさは暑い夏に打ってつけの涼やかささえ感じる。柑橘系? 透明な緑色の小瓶に相応しい香り? いつまでもまとわり付くような香りでもない。口づけなしの軽い抱擁みたいな感触? 小さい粋すなわち小粋な状態にあえてとどめ置いている香り? この香りに触れた女性はどんな印象を持つのだろうか。男性の爽やかな印象がいつまでも残り、何年、何十年経っても忘れることのない香り。いつか、どこかで、女性はかつて味わった香りに再び出逢い、香水の名を初めて知ることになる。香りの記憶から彼のことが蘇える。どこで、どうしているの。そう想いながら、あのときの香りに触れて微笑みが浮かんでくる。ああ、これだったんだ。想いは香水のように広がる。それにしても素敵な彼だったなあ。 

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ケルティックウーマンかヘイリーかマーティンか You Raise Me Up

2018-08-26 | Weblog

酷暑が続く真夏の昼間が宵を迎えて、夜の幕が上がると、心地よい音楽でも聴いて過ごそうじゃないか。設定は休日前にして夕食後。ワインの晩酌が済み、珈琲とオレンジパウンドという締めの飲食を経て、音楽のひと時となる。今宵の選曲はYou Raise Me Upだ。人生の応援歌。いや違うな。人生を応援してくれる人への感謝の歌か。作曲、作詞の主はウッキペデアで調べてもらうとして、曲調はアイルランド民謡ダニーボーイを下敷きにした感じ。歌詞はいろんな意味で力添えをしてくれる人にYou Raise Me Upと何度も呼び掛けて思いを述べる。直訳だと、あなたがわたしを立ち上がらせてくれただが、いろんな訳詞があり、勇気をくれただとか、手を差し延べてくれたなどと、訳詞者の状況把握力と、英語から日本語に紡ぎかえる力によって意訳を含ませて微妙に変わって来る。訳詞者によっては原文の言い回しとは完璧に離れた訳に仕上げている場合もある。まあ、感謝の歌が180度回転して愚痴不平という真逆の歌になった、ということではない。英語原文の意味と表現、言い回しを、訳詞として日本人の琴線にぴたりと触れる意味合いと日本語の言い回しに置き換えるのは、英語と日本語に人並み以上に通じている訳詞者にしても案外難しいと推測する次第。

You Raise Me Upはいろんな歌手が歌っている。主語のYouを神、もしくはキリストのことではとの声もある。作詞者の想うところは不明だが、ここは素直に人間としての男もしくは女と見立てる方がいいみたいだ。その方が歌詞が表現する世界に広がりが出て、聴く人それぞれが自らの想いを歌詞に寄り添わせ、託しやすい。YouTubeで聴き比べる。男性あり、女性あり、ソロあり、グループありだ。歌手だから皆それぞれ個性がある。共通しているのは皆上手いということだ。決定打は聴き手の琴線にどこまで深く触れ共鳴させるかどうか。アイルランド出身の女性グループ・ケルティックウーマン、ニュージーランド出身のヘイリー・ウェンステラ、オランダ出身のマーティン・ハーケンス。ケルティックウーマンは全員美人揃い。映像があると、歌より美貌に眼が行ってしまうという難点が当たり前のように出てくる。歌の世界に浸りたいならば、映像なし、歌声だけをお薦めする。修行中の禅僧じゃあるまいし美女を見ずして何が人生かと思う向きは、歌声だけの後に映像でたっぷりと美貌を堪能するという次善の策を提案しておく。

ヘイリーは天使の歌声である。どうして、こんなに澄んだ美しい声が出るのだろうかと思うほどに美声が極まる。何を歌っても美しく仕上がってしまう。美声の主が自らの美声に酔いしれると、それが鼻についてくるという宿命がある。美声だけが目立ち、歌詞の深みがあっという間に失せてしまうという訳だ。聴く人1人ひとりに語り掛ける歌詞が、上っ面だけ、字づらだけの歌となる。上手に歌っているけど、心に響かない。そんな美声のパラドックスに陥りかねないのが美声の歌手たちである。さて、ヘイリーはどうか。美声の歌姫としてすくすくと育ってきたという風貌である。目が合って、にこっとされたら、好感を持つだろうね。ましてファーストネームで呼ばれたりすると、もうぞっこんなファンになるだろう。地位があろうが、経験があろうが、本当に男というのは馬鹿みたいに単純素朴な精神を脳内の一部に遺伝的に持っているみたいだ。

それでヘイリーの歌声に戻るが、なかなかいい。まず歌に出てくるYouが、もしかしたら、俺のことを言っているのかな、と男性の聴き手たちが錯覚しそうに聞こえるからだ。この状態はファン心理ゆえの、熱に浮かされて想い込みが先行したからかもしれない。彼女への力添え、手を差し延べることに男の矜持をこちょこちょと、くすぐられる。8千m級の山だろうが、暴風吹きすさぶ嵐の海だろうが、この俺が先導して登頂や航海を成し遂げさせてあげるよ。まかせろ! 先の事をまったく考えずに口約束してしまいそう。 この1本気の行為、後先考えない猛進を、人生の中で少なくとも1回はやらかす軽率さを男は遺伝的に持っているようだ。落ち着いて冷静に考えれば決して選択することのない事にも関わらずだ。ヘイリーの場合、歌声だけを聴くのもいいが、ケルティックウーマンと共演した映像版が聴き応え、見応えがあり、いい気分になる。ファン心理は暴走し、単独で歌うスカボローフェアなんかもいいなあ、と話が脱線気味となる始末。

男性の歌い手でいち推しはマーティンだ。プロモーションビデオだろうが、街角での映像がよく出来ている。石畳の路上には投げ銭を入れる帽子が置いてあり、その前で初老風の恰幅のいいマーティンが立っている。美男ではない。風采が上がっているとも見た目は言い難い。身なりも一般人と変わらなく見える。通行人たちが何事が始まるのかと怪訝そうな表情で見守っている中で、マーティンが歌い出す。女性歌手の美声とまるっきり異なる渋い声。人生の艱難辛苦、甘いも酸っぱいも経験してきたような声でもある。歌詞の1語1語を噛みしめるように、自らの想いを託しきったように、窮地にあった自らを救ってくれた人への感謝の念を歌っていく。マーティンを遠巻きにしていた通行人たちの心に歌声とその意味が染み込んでいく。声と歌詞が感動の波紋となって広がっていく、最初はさざ波のように小さく、次第にそれは大きくなって聴く人の心の中に押し寄せる。なんて素敵な声。いい歌詞だな。そんな呟きや想いが通行人たちの表情から見えてくる。プロモーションビデオみたいだと分かっていても、歌手冥利に尽きる路上パフォーマンスの映像である。感謝すべき相手のことを想いながら、気持ちを込めて歌う。歌の上手さに酔うことなく、しかし聴く人に歌詞に込めた想いが伝わるように歌う才を力みなく活かす。いい歌を聴いたなあ。そんな想いに満たされるのがマーティンのYou Raise Me Upだ。

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お盆だから彼岸から現世に戻ってみた

2018-08-17 | Weblog

彼岸に赴くときは西方浄土を目指したけれども、現世に戻るときには東方浄土からって訳で、朝陽が上がる方向から、はい、おはようさん、遺族並びに末裔の皆さま方よ。

わたしはねえ、お墓の中とか、仏壇の前とか、位牌の側にはいないんだよ。千の風じゃないけどもね、ふんわりとした風になって実家の回りを見て回ろう。

まずは朝陽の光線に乗って百日紅(さるすべり)の花の上で寝転んでみよ~っと。

昨年は剪定のしすぎで花が少なかったけれども、ことしは枝を伸ばし放題にしたお陰でたくさんの花が付いたね。花の上で、ごろごろと転がるって最高だ。ウオーキングで通っていた風景を見に行ってみよう。どうなっているかな。

あ~、これこれ、これだよ。いつも歩きながら眺めていた風景。寝ぼけまなこの朝方の青空、2度寝中のこんもりとした森、目は開いているけど寝床から出ようとしない田んぼの苗たち。天気晴朗にして穏やかな夏の朝の始まりだ。

ウオーキング途中の冷やかし相手というか、おちょくり相手にも会いに行かなくちゃ!

お~い、柴~、起きてるか~。

 

うん? 誰か、俺の名前を呼んだような気がしたが……。

 

姿は見えないが、この気配、生気のない香りは、あいつだな、こらっ、出てこい! 

そうか、お前はあの世に行ってしまったんだよな。生きているときは朝早くから俺の家の前を通る、へんな奴だったが、いなくなると、なんだか寂しいもんだよな。吠えていきりたつ張り合いがなくなってしまったなあ。あ~あ、去る者日々に疎しだよ。

柴よ、お前の寂しそうな顔つきを見ると、俺も寂しくなるねえ。姿形は無くなったけど、気配だけで来年のお盆にまた会いにやってくるよ。

水稲の緑が鮮やかでいい。暑い日々の中、水路から存分に水を引いてもらって生き生きとしているねえ。ことしは豊作だといいんだがなあ。

おっと、夏場のイチゴハウスだ。ビニールは取り除かれ、腰までの高さにある苗床も開店休業状態だね。まあ、クリスマスの高値の時期に向かって生産農家は栽培の準備中なのかね。イチゴハウスよ、もう1度。丸丸と大きく育った赤い実で満たされるといいねえ。

さあ、実家の様子はどうかな。あれれ、変なものが廊下の網戸のそばで佇んでいるなあ。流行りのロボット型掃除機って奴かい。現世はどんどん便利になっていくんだねえ。

どれどれ、遺族の息子はどうしているかな。はは~ん、お盆休みは酒と読書の日々みたいだな。ビールはバドワイザー、ワインはイタリアの赤か。いかにも呑んだといったみたいに床に転がっているねえ。ちょっと不自然な構図だがね。本はなんの本だい。ボヘミアンスタイルのインテリアに、ソーシャルメディア四半世紀、それに世界を変えた本か。読むのに体力が要りそうな本ばかりだな。空調が利いた部屋でワイン、ビールを呑みながらの読書三昧か。それで、読み始めて早々と寝入ってしまったんだな。

寝顔も歳を取るっていうのがよく分かるな。現世に在りながら極楽にいるみたいに安心しきって寝入っているお前を見て、元気なのが分かった。こちらも安心したよ。起こしちゃいけないし、長居は無用だな。西方浄土へ戻ろうか。つくづく現世の素晴らしさに感じ入ったね。いやあ、本当にいい所だよ、うらやましい限りだ。生きている間に愉しみな。それじゃ、また来年、ふんわりとした風になってやって来るよ。

 

 

 

 

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バックヤード殺害事件検死ノート

2018-08-12 | Weblog

身の回りにいろんなことが日々起きるのが人生である。わたしの場合も例外ではない。わが家の裏庭がその舞台の1つである。実に眉をひそめるような、猟奇的にして、これほど残虐なことが壁1枚隔てた裏庭で起きていたなんて。そんな驚愕するような事案がここ数年続いている。ずばり殺害事件である。被害の主が人であれば即110番通報となるが、人ではない。とは言え、その現場の悲惨さから公言するのを控えていたが、ひとり頭の中に留めておくには精神的な負担となる故、あえて独白することにした。あらゆる難事件を解決してしまう科捜研の女こと沢口靖子女史の応援を要請したいところだが、伝手がないため自前で思案するしかないのが現状である。

事案を伝える要素として5W1Hがある。When・いつ、Where・どこで、Who・だれが、What・なにを、Why・なぜ、How・どのように、だ。この原則に従って説明すれば、Whenは詳細不明である。Whereはわが家の裏庭、Whoは不明、Whatは殺害、Whyは不明だが事案によっては推測可能、Howは後述となる。それでは事案を振り返りながら、わが検死ノートを開いてみよう。

ことしに入って発生した3事案から始める。

事案1:数日前の出来事である。被害に遭ったのは白い毛の子猫1匹である。早朝のウオーキング後に裏庭に回って横たわっているのを発見した。当初は白いビニール袋が落ちているのかなと思って近づいた。目を閉じ、頭の左側を地面に付けて息絶えていた。体の痩せ具合から野良猫だと思われた。猛暑に伴う病死や衰弱死かなと思いつつ、外傷の有無を観察する。首の部分に鋭利なもので切られたよう傷口が見つかった。カッターナイフで切ったような横一文字の形状で長さ3㎝ほど。首元や体、地面に血の跡が一切ない。外傷はこれだけである。

次の2件はいずれも春先である。

事案2:早朝のウオーキング後に裏庭に回り、書庫と物置き庫の間にあるコンクリートの通路で発見した。こんなところに紐が落ちているなと思って近づいた。白っぽい腹を見せて仰向けになった蛇だった。長さは40㎝ほど。生きているのかなと警戒して棒で静かにつつくが反応がない。棒の先で体を動かしてみる。ふにゃりとして生体反応なし。体を裏返しにして模様を観察する。マムシではないようだが、種類は不明だ。生きていても死んでいても、蛇を見るのは心地いいものではない。死因を詳しく調べる気にならないが、一応外傷の有無を見る。喉元に相当する部分に切り傷がある。カッターナイフで真横にすっと切り込みを入れたような形状である。長さは2㎝ほどか。これ以外に外傷はない。

事案3:これもまた早朝のウオーキング後に裏庭に回って発見した。なぜ、ウオーキングの後にいつも発見するかと言えば、ウオーキングと裏庭回りがセットになっているからである。家の周りや植え込みに異変、異常がないかと日々確認することが習慣になっている。ひとりセコム、ひとりアルソック、ひとり全日警である。その日もひとりパトロールで灰色の鳥の羽毛がいくつか地面に落ちているのに気付いた。冬毛から春毛への毛替わりなのかな。そんな思いでもあった。植え込みのカイヅカイブキに巣でもつくっているのかと見渡すが、それらしいものはない。地面の四方八方を見渡す。屋外に設置された電気温水器のボイラー缶を囲っているコンクリート壁の近くに羽毛が散らばっている。猫や犬の毛替わりの量の多さを知っているが、鳥の場合もこんなに多いのかな。そう思って近づくと、側にある芭蕉の株の裏側に羽毛が大量に散らばっている。羽毛の生え替わりではない! 羽毛の形状や色合いから鳩だ。食い散らかした跡だ。胴体など体つきを示すものはなく、食べることができない羽毛だけが残された状態だった。

事案4:これは1年以上前の出来事ではなかったか。かつて書いたような気もするが、記憶から呼び戻そう。朝のウオーキング後に裏庭に回って、動物と見られる毛が散乱していた。鳥ではなく、猫の毛のようでもある。裏庭の隅々まで目を凝らして探索する。雑木の根元になにやら毛の塊が見える。近づいてみる。狸の背中? それも小狸? 観察すると、かなり悲惨な状態であることが分かった。頭部なし。前足なし。内臓なし。後ろ足なし。要するに背中の毛が生えた部分と短い尻尾が付いた、毛皮だけの姿。毛の色合いや特徴から狸ではなく、キジ猫だと思われた。車にはねられたり、引かれたり、カラスに襲われた動物たちの悲惨な状況をこれまで目撃してきたが、これほど悲惨な状況を間近で見るのは初めてである。まさに食いちぎり方が残虐の限りを尽くした感じである。

裏庭を舞台にした連続殺害事件を引き起こした犯行の主は何なのか。田畑や果樹園などが広がる周辺には野生の動物がいっぱいである。猪、狐、狸、アライグマ、カラス、イタチ、テン、各種蛇などが思い浮かぶ。野良猫、飼い猫、飼い犬などもいる。近隣住民からは「カラスが猫を集団で襲っていた」「カラスに小豚がやられた」などの証言も聞いている。同一犯なのか、それとも毎度異なる殺害犯なのか。事案3と4は弱肉強食の食べることが目的のようにも思えるが、事案1や2は殺害することに悦びを感じる快楽殺害なのかとも思える。あるいは何らかの怨恨に基づくものなのか。俺の縄張りに勝手に入って来たとかね。どの事案も現在のところ未解決のままだ。俺がやりました、と自首してくれるといいのだが。個人的な意見だが、前述の動物たちの中に犯行にかかわったのがいるのではないかと思慮している。裏庭で殺害が頻発している一方で、寝室で安穏として昏睡している自分自身については忸怩たる思いでいっぱいだ。いずれにせよ、亡くなられた動物たちのご冥福を祈るばかりである。それに犯罪に巻き込まれないために、関係者以外、裏庭に立ち入らないことを告知し、この場を借りて書き留めておきたい。

 


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都会の森を訪ねて憩う

2018-08-07 | Weblog

命にかかわるような暑さが猛威を振るう世の中にあって、修験道の山麓にある里山古民家で閉門蟄居、食事は一汁三菜に徹し、こまめ、こまめの繰り返しでまめが発芽するくらいの頻度で水分補給を繰り返すという、品行方正にして瞑想三昧な規則正しい生活を続けるとどうなるか。即身成仏、悟りの境地に達するかと思いきや、朝が来たから起きて、昼になったから食事をし、夜が再び訪れたから就寝するという、ただただ規則正しいだけの生活を繰り返すだけの、普通の人になることが分かった。なにが足りないのか? たえず流れ行く時間が織りなす暮らしの中に綾と彩、ぴりりとした刺激、渋み、酸味、あるいは爽快さをもたらすスパイスなるものが不足していると気づく。それで、暮らしに潤いと艶を加味するスパイスなるものはどこにあるのか。都会にあるという森を訪れて探してみよう。

階下フロアーから吹き抜けの壁面を飾る書棚。本は読むだけでなく見るもの、眺めるものでもあるんだね。

色鮮やかな装丁の本が並ぶ書棚。本の森には知の果実がたわわになっている。

書棚の森の中にある喫茶店のディスプレイ。積ん読も読書の1つだよね。

喫茶店の外観。LPレコードあり、色付きグラスありで、インテリアを活かす才に涼しささえ感じてしまう。

吹き抜けの壁って、いいよね。

そうか、本は手に取って読むだけではなく、頭に乗せて感じ入るものだったのか!

暮らしの中に埋没した歯ブラシも魔法を掛ければアートになる。

歯ブラシがアートになれば、色鉛筆だってアートになるよね。

色鉛筆がアートになるなら、分度器や三角定規もなるに決まってるさ。

苔なんかアートの本家本元の資格十分。額の中の苔が大森林を表す。

絵葉書も蝶ネクタイもキーボードも本の頁もすべてがアートに生まれ変わる。

スパイスなるものとはアートそのものだ。暮らしの中に取り入れておくべきもの、それはアートを創り出す感性。

映画館は身近にある異空間。猛暑の夏の憂さを吹き飛ばすには、空調の利いた真っ暗な空間に腰かけ、大画面で繰り広げられる冒険活劇なんかがお勧め。

清く、正しく、美しく、男どもにめっちゃ強いのが女たちです。

最上のスパイスなるものとは、行き着くところ、くの一だ。

 

 

 

 

 

 

 

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遥か遠くにある月の光を浴びながら散歩をする

2018-08-02 | Weblog

早い目覚めは月明りのせいだったろうか

枕に乗せた頭を右手に動かして窓から差し入る月の光を見る

網戸を通りレースのカーテンを抜けて木の床を柔らかく照らしている

誘われるように起きて外を見て光の源を空に探す

半月よりちょっと大きいぐらいの輝く月が宙に浮いている

夜明けまでまだまだの未明の世界にあって月は灯火のように見える

月の引力は潮の満ち引きだけではなく 人が織りなす時間と想いを引いては戻していく

さまざまな事があった過去 いろいろな事が起きるであろう未来 2つの時間帯の合間に現れた月の光の道

月明かりの下で散歩をしよう 断固たる意志や練りに練った計画とは無縁の 自然と湧いてきた穏やかな思い

真っ黄色のTシャツ 真っ黒のショートパンツ ダークグリーンのスニーカー ムーンライトマンは玄関を開けて外へ

里山を縫って広がる小道を歩む 月光の下でも森は濃い墨で黒々と塗りつぶされている 墨絵の題は妖怪

そこは魑魅魍魎の住みか 百鬼夜行の立ち寄り処か 石器時代や江戸時代の想いに立ち返る

道筋に沿って街灯がぽつんぽつんと立ち並んでいる 

裸電球に丸い笠ははるか昔のこと 今はLED灯で人工光の極致の輝きを放っている

毘沙門天と弘法大師を祀っている毘沙門堂の前まで行く

堂内は蛍光灯で照らし出されている 武者姿の毘沙門天の彩色木像と剃髪した弘法大師の石造りの座像が並んでいる

苗が植えこまれた水田の側の舗装路を歩く 蛙が鳴いている 耳を澄ませ傾聴する 

ゲェコゲェコかな グゥワッグゥワッかな どちらにも聞こえる

遠くで犬が時折吠えている ヴワァン ヴワァン 声量から大型の犬だと分かる 

月に吠えているのか 月夜を歩く見慣れぬ人間に気づいたか

水田や森の合間に点在する住家は寝静まっている ワールドカップサッカーも終わって夜中にテレビ観戦する人はいない

玄関そばに据えられた飲料水の自動販売機の1カ所に鮮やかな黄緑の光が走る

真一文字に輝いて長さは10㎝ほど 硬貨投入口を表示するための光の線 

昼間にはまず気にも留めない緑の光こそ商売と言う名の気遣い

月光に照らされた道と時間を辿る 異界歩むような 夜を題材にした1冊の絵本の中に入り込んだような感覚に浸る 

すべては昼間と同じものなのに 月明りはすべてを異なる景色へと変える 

人が寝入っているとき 月光は不思議な3次元の世界を音もなく創り出している 

 

 

 

 

 

 

 

 

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