そろそろ村上春樹の番だなと思っていた今年のノーベル文学賞、蓋を開ければ、あのボブ・ディランという意表をついた発表となった。当日夜のニュース番組でコメンテーターの報道関係者が驚きながらも「そう来たか、という感じですね」と思いもしない人物、しかも歌手が本業のディランを選んだスウェーデン・アカデミーの「英断」にしてやられたとのコメントを述べていた。
その後の新聞の文化欄などにはディランの歌詞の文学性を評価し、文学賞妥当とのエッセーが幾つも散見され、しかも書き手はディランファンであることが見え見えの文章がだらだらと綴られていた。欧米の作家の中からは「ノーベル音楽賞ならともかく、文学賞にディランというのはおかしい」「富と名声を既に得た歌手ではなく、賞を得ることで本がやっと売れる作家に贈るべきだ」といった趣旨の正直な声を上げる者があったが、日本の作家から異議ありの声は今のところ寡聞にして知らない。
ディランが風に吹かれての歌い手であることぐらいは知っていたが、それ以外の歌はそれほど知らない。風に吹かれてにしても以前からPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)の歌い方の方が断然いいなあと個人的に思っていた。素朴な想いとして、ディランが文学賞を取るのなら、ビートルズこそ受賞者にふさわしい感じさえしている。まさに文学性を感じさせる歌詞がいっぱいある。こんな私見をある会社の社長にふっかけると、こんな返答だった。
「ビートルズ? メンバーのうち2人は亡くなっているからなあ」
「でも残り2人は生きているでしょう」
「うーん」
また別の会社役員に同じことを指摘してみると、返答はこうだった。
「まあ、なんだな、さだまさしが芥川賞を取ったみたいな違和感なんだろうなあ」
スウェーデン・アカデミーによる予想外の受賞者ディランは、アカデミーの予想を上回る意外な対応を取る。授賞を伝えるための電話連絡が本人に取れない。受賞するのか、しないのか。本人の意思が不明でなしのつぶて。アカデミー側がしびれを切らして「こちらから授賞通知の連絡はもうしない」とおかんむりの声明を出す。その後、しばらくして受賞の意思があることをディラン当人が連絡をする。ところが授賞式への出席については触れない態度。出るのか、出ないのか。ディランが黒の礼服を着て、スウェ―デン国王から恭しくアルフレッド・ノーベルの肖像が記されたメダルを受け取る姿なんて想像できないし、それはディランらしいのかと首をひねる光景だ。まして、正装して王族と一緒の晩餐会でにこやかに歓談するのかい、あのディランが?
授賞式への出欠の問い合わせへのディランの返答がふるっている。「先約がある」。よって欠席との意思表示。ノーベル賞の授賞式を欠席するほどの先約ってなんだろうかと思うほどの返答じゃないか。「飼い猫の誕生パーティーでね」「小学校時代の友達と鱒釣りに行くことになっているんだ。月に3、4回は行ってるがね」「サンドイッチを頬張りながらポーカーを目いっぱいする日になってるんで。12月の恒例だよ」。へんてこりんな答えがいくつも思い浮かんでくる。
ノーベル文学賞に対する、なんという文学的、しかも散文的な振る舞い。世界最高峰にある権威をこんなにも振り回すなんて! ほとんどディラン劇場である。慇懃無礼風にして不敵な態度をぬけぬけとやりまくる文学者の顔を持ったボブ・ディラン。改めて注目するようになった。武器ともなるダイナマイトで財を成した富豪ノーベルへのディラン風の意趣返しなのだろうか。
授賞者は半年以内に記念講演することが条件ということで、スウェーデン・アカデミーはディランの演奏公演を期待しているようだ。はたしてディランはどんな振る舞いをするのであろうか。公演をする意思を示すことなく期限が過ぎ、授賞取り消しといった事態があるんだろうか。なんとも目が離せないディランのノーベル文学賞騒動が展開中だ。まあ、来年以降、歌手のノーベル文学賞は多分ないだろう。スウェーデン・アカデミーもディランの不測の対応に懲りただろう。ビートルズをいち押ししているのだが、受賞はちょっと難しくなってしまったなあ。でも、もしスウェーデン・アカデミーが性懲りもなく、ミック・ジャガーとかマドンナとかを来年の文学賞に選んだならば、これはこれで大したもんだ。まさに文学的、散文的な、懲りない「英断」じゃないか。
その後の新聞の文化欄などにはディランの歌詞の文学性を評価し、文学賞妥当とのエッセーが幾つも散見され、しかも書き手はディランファンであることが見え見えの文章がだらだらと綴られていた。欧米の作家の中からは「ノーベル音楽賞ならともかく、文学賞にディランというのはおかしい」「富と名声を既に得た歌手ではなく、賞を得ることで本がやっと売れる作家に贈るべきだ」といった趣旨の正直な声を上げる者があったが、日本の作家から異議ありの声は今のところ寡聞にして知らない。
ディランが風に吹かれての歌い手であることぐらいは知っていたが、それ以外の歌はそれほど知らない。風に吹かれてにしても以前からPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)の歌い方の方が断然いいなあと個人的に思っていた。素朴な想いとして、ディランが文学賞を取るのなら、ビートルズこそ受賞者にふさわしい感じさえしている。まさに文学性を感じさせる歌詞がいっぱいある。こんな私見をある会社の社長にふっかけると、こんな返答だった。
「ビートルズ? メンバーのうち2人は亡くなっているからなあ」
「でも残り2人は生きているでしょう」
「うーん」
また別の会社役員に同じことを指摘してみると、返答はこうだった。
「まあ、なんだな、さだまさしが芥川賞を取ったみたいな違和感なんだろうなあ」
スウェーデン・アカデミーによる予想外の受賞者ディランは、アカデミーの予想を上回る意外な対応を取る。授賞を伝えるための電話連絡が本人に取れない。受賞するのか、しないのか。本人の意思が不明でなしのつぶて。アカデミー側がしびれを切らして「こちらから授賞通知の連絡はもうしない」とおかんむりの声明を出す。その後、しばらくして受賞の意思があることをディラン当人が連絡をする。ところが授賞式への出席については触れない態度。出るのか、出ないのか。ディランが黒の礼服を着て、スウェ―デン国王から恭しくアルフレッド・ノーベルの肖像が記されたメダルを受け取る姿なんて想像できないし、それはディランらしいのかと首をひねる光景だ。まして、正装して王族と一緒の晩餐会でにこやかに歓談するのかい、あのディランが?
授賞式への出欠の問い合わせへのディランの返答がふるっている。「先約がある」。よって欠席との意思表示。ノーベル賞の授賞式を欠席するほどの先約ってなんだろうかと思うほどの返答じゃないか。「飼い猫の誕生パーティーでね」「小学校時代の友達と鱒釣りに行くことになっているんだ。月に3、4回は行ってるがね」「サンドイッチを頬張りながらポーカーを目いっぱいする日になってるんで。12月の恒例だよ」。へんてこりんな答えがいくつも思い浮かんでくる。
ノーベル文学賞に対する、なんという文学的、しかも散文的な振る舞い。世界最高峰にある権威をこんなにも振り回すなんて! ほとんどディラン劇場である。慇懃無礼風にして不敵な態度をぬけぬけとやりまくる文学者の顔を持ったボブ・ディラン。改めて注目するようになった。武器ともなるダイナマイトで財を成した富豪ノーベルへのディラン風の意趣返しなのだろうか。
授賞者は半年以内に記念講演することが条件ということで、スウェーデン・アカデミーはディランの演奏公演を期待しているようだ。はたしてディランはどんな振る舞いをするのであろうか。公演をする意思を示すことなく期限が過ぎ、授賞取り消しといった事態があるんだろうか。なんとも目が離せないディランのノーベル文学賞騒動が展開中だ。まあ、来年以降、歌手のノーベル文学賞は多分ないだろう。スウェーデン・アカデミーもディランの不測の対応に懲りただろう。ビートルズをいち押ししているのだが、受賞はちょっと難しくなってしまったなあ。でも、もしスウェーデン・アカデミーが性懲りもなく、ミック・ジャガーとかマドンナとかを来年の文学賞に選んだならば、これはこれで大したもんだ。まさに文学的、散文的な、懲りない「英断」じゃないか。