太郎と言ってもくだんの宰相ではない。芸術家たらんとしたOKAMOTOの方だ。TAROの作品をじかに見るのは大作「明日の神話」が初めてだ。京王井の頭線渋谷駅の連絡通路沿いにそれはある。「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」。太郎の芸術作品観からは逸脱した仕上がりとなっている。人間をちっぽけな存在にしてしまうのがいい。
ケチャップと辛子をたっぷりとかけたソーセージを挟んだホットドッグにかじりつき、スターバックスの大ぶりの紙コップに入ったコーヒーでも飲みながら、痛快なほどのバカでかさにいつまでも見入りたい気分になる。
大作から目を離して真後ろを見ると、渋谷駅前のスクランブル交差点だ。青信号とともにせかせか、だらだら、ちんたらちんたら、ちょこちょこ、みぴょこぴょこ、千鳥、突進、駆け足などホモ・サピエンスの一群が百態の歩行風景を繰り広げる。
「明日の神話」を見てから、あらためてというより初めて太郎の著作を読むことになる。全9巻の著作集をはじめ、図書館にある関連本に目を通す。秘書にして養女であり妻でもある岡本敏子の存在が太郎を際立たせている。それは絵画と額縁の関係、彫刻と台座の関係、外観と内面の関係だ。語り聞かせるような文章の秘密もまもなく解明された。敏子を相手に口述筆記をしていたのだ。存在自体が面白い「岡本太郎」という自らについて、座談の名手でもある「岡本太郎」自身が語るのだから中身が面白くないはずがない。
「岡本太郎」という作品を、日々独創的に創作していった人生に、TAROの真骨頂がある。そう簡単に、やすやすと、他人(ひと)様に理解されるような「岡本太郎」であってはいけないというのが主眼だ。作品もまた然り。漫画家の父一平、小説家の母かの子のことを綴った文章は親子の情愛が感じられて最高だ。
そして太郎と敏子の関係は絶対愛とも言うべき絆で繋がっている。不遇であっても、貧乏であっても、時代が変わっても、名声を得ても、奇人扱いされても、死を迎える間際にあっても、相手を想う気持ち(多分、愛)は不変だった。この一貫した見事さは、太郎が絶賛した縄文土器や光琳の魅力に通じるものがある。なんと独創的なことか。
ケチャップと辛子をたっぷりとかけたソーセージを挟んだホットドッグにかじりつき、スターバックスの大ぶりの紙コップに入ったコーヒーでも飲みながら、痛快なほどのバカでかさにいつまでも見入りたい気分になる。
大作から目を離して真後ろを見ると、渋谷駅前のスクランブル交差点だ。青信号とともにせかせか、だらだら、ちんたらちんたら、ちょこちょこ、みぴょこぴょこ、千鳥、突進、駆け足などホモ・サピエンスの一群が百態の歩行風景を繰り広げる。
「明日の神話」を見てから、あらためてというより初めて太郎の著作を読むことになる。全9巻の著作集をはじめ、図書館にある関連本に目を通す。秘書にして養女であり妻でもある岡本敏子の存在が太郎を際立たせている。それは絵画と額縁の関係、彫刻と台座の関係、外観と内面の関係だ。語り聞かせるような文章の秘密もまもなく解明された。敏子を相手に口述筆記をしていたのだ。存在自体が面白い「岡本太郎」という自らについて、座談の名手でもある「岡本太郎」自身が語るのだから中身が面白くないはずがない。
「岡本太郎」という作品を、日々独創的に創作していった人生に、TAROの真骨頂がある。そう簡単に、やすやすと、他人(ひと)様に理解されるような「岡本太郎」であってはいけないというのが主眼だ。作品もまた然り。漫画家の父一平、小説家の母かの子のことを綴った文章は親子の情愛が感じられて最高だ。
そして太郎と敏子の関係は絶対愛とも言うべき絆で繋がっている。不遇であっても、貧乏であっても、時代が変わっても、名声を得ても、奇人扱いされても、死を迎える間際にあっても、相手を想う気持ち(多分、愛)は不変だった。この一貫した見事さは、太郎が絶賛した縄文土器や光琳の魅力に通じるものがある。なんと独創的なことか。