おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

Plein soleil 太陽がいっぱい

2012-01-27 | Weblog
前庭の蝋梅、裏庭の満作がそれぞれ黄色い花を咲かせている。冬場の寒さにめげず、葉を落とした枝を彩っている。名前の由来がそれぞれ面白い。蝋梅は花が蝋細工のような質感だからという説があり、確かにそのように見える。満作は早春に「まんずさく」(まず咲くという言い方がなぜか東北弁になっている?)という説がある。健気に咲く小さな花に「ほんなこつめんこい花たいだべな」と東北弁と九州弁の混声で話しかけたくなる。

春夏秋に餌を求めて歩きまわる蟻も冬場には姿を見せない。寒気の日々の合間に気まぐれみたいに晩秋のポカポカ陽気が挟まることがある。そんな時に偵察隊の蟻んこ一行を地表で見ることがあるが、普段は地下の巣穴で寄り添って越冬しているのだろうか。日ごろはピーチク、パーチクと喧しい雀たちも鳴りを潜めている。樹木の中にあるお宿でごろごろして過ごしているのだろうか。

蟻も雀も縮こまる寒い時期にわざわざ北風に当たりに出かけるのが山歩き愛好家である。山に雪なんかが積もっていると、アイゼンを持って欣喜雀躍するのも山歩き愛好家である。「北風が吹く寒い山になぜ登るのか」。こう問う御仁もあろう。なにを隠そう、北風が吹こうが、吹雪こうが、それほど寒くはないのである。衣服の機能の進化で山の服は吸湿保温の素材で作られており、しかも軽い。防寒保温がしっかりしているので冬将軍の家来ぐらいなんのそのなのである。

ひとしきり山歩きをして山小屋に辿り着き、薪ストーブのそばでおにぎりを頬張り、ステンレス製の保温水筒から湯気が立つお茶を茶碗を兼ねた水筒の蓋に注いでゆっくりと味わって呑む。リュックからマカデミアナッツ入りのチョコレートを取り出そうとしたら、いくら探してもない。あれれ、家に置き忘れてきたらしい。脱力した山歩きに対しほど良い抜け具合にわれながら感心する。こんなこともあろうかとズボンのポケットに氷砂糖を入れた小袋をしのばせていた。抜けっ放しではないことにわれながら再び感心する。歩き疲れた体に糖分補給である。氷砂糖を2、3個頬張る。童心に帰って舌で右に左にと転がしてみる。

下山した後はひと風呂浴びる。理想は温泉地だが、我が家の内風呂でも十分満足できる。お湯の温かさが体の芯まで沁みていく。足の指の1本1本をつまみ、伸ばし、ほぐしていく。山という大地を踏みしめた足だ。ご苦労さん。ねぎらいの気持を込めて湯にひたす。風呂場の窓を少しばかり開ける。立ち上がっていた湯気が戸外へ吸い込まれていく。屋外に日差しはないようだ。どんよりとした曇り空だろう。にもかかわらず、わたしの体は陽だまりの中にあるような幸福感で充たされていた。北風の中を山歩きしたこと、温かいお茶を呑んだこと、氷砂糖をしゃぶったこと、風呂で体をお湯にひたしたこと。たったこれだけで、こわばった体と頭がほんわかと脱力してくるのである。いい気分の中に仰向けになってぽっかりと浮いている。そんな感じを味わっている。この味、氷砂糖だな。










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蟹談義 ワタリガニはタラバに勝てるか

2012-01-22 | Weblog
佐賀県太良町でワタリガニの会席料理を頂く。大人4人がむしゃむしゃしながらカニ談義。味覚でカニの王者はどれになるのか。タラバかズワイか、ワタリガニか、これに毛ガニも加わる。北海道産、九州・有明海産、日本海産と地域対抗となり、上海ガニも飛び入り参加した。さあて、4人の判定やいかに。


食卓には刺身や漬物、大根の煮物などがまずは並んだ。メーンはもちろん茹でたワタリガニだ。写真で見ると、皿に描かれた蟹の絵みたいに見える。





蟹は横歩きだが、皿の上のワタリガニは前に向かって歩いてくるみたいだ。





真上からしっかりと見据えてみよう。タラバと比べれば小さいが、中身は味噌や卵が詰まっている。





裏返しにされ、腹の部分を引き剥がされたワタリガニ。旨そうだ!





判定員の手でばらされるワタリガニ。味の評価はどうか。味噌よし! 卵よし! なかなか好評のようだ。




ズワイはあまり食べたことがないということで判定対象外となり早くも脱落。毛ガ二は思ったほどではないとの強硬な意見があり、期待に応えられなかったとして判定打ち切り。上海ガニは写真だけ見ると大きな蟹に見えるが、実際はワタリガニより2回りほど小さくて予想を裏切ったとして除外、追放処分となった。

判定員4人が全員九州出身でもあり、地産地消の立場からしても地元有明海産のワタリガニに有利な判定をしようとの無意識が働いている。それで最後に残ったのが北の大地・北海道産の強豪タラバ。あの蟹刺しの絶品さは他の蟹の追随を許さない。ワタリガニの甲羅に日本酒を注いで呑み干す甲羅酒というひねり技があるが、焼き・茹で・刺身の3冠王を誇るズワイの牙城を崩すのは容易ではない。

判定員の中には公然とズワイの方が食べ応えがあると宣言する者も出る始末。ワタリガニをえこひいきしようとしても、その意図を打ち砕く旨さをタラバは持っていた。4人の判定の結果は、ワタリガニ2、タラバ2で引き分け。地域ナショナリズムがワタリガニの得点を上げさせ、ワタリガニもタラバもどちらも食べたいという政治的思惑が双方同点という絶妙な結果を招いた。まあ、ワタリガニ、タラバ、判定員の3者がいずれも損がないという3方よしだ。グルメは口論ではなく円満でなくては。これを舌妙と言う。
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君の名は

2012-01-21 | Weblog
あなたは若い頃から勤勉だった。


あなたは小柄な体で努力と根性の持ち主でもあった。


あなたは賢いところがあって、教科書の内容に満足するだけでなく応用してものを考える力を身につけることもできた。


あなたは春夏秋冬の花と風物を楽しむ才も持っている。


あなたの周りには書道や茶道があり、剣道や柔道がある。道の名の下に所作の美しさと、逞しく凛とした精神を学ぶ環境にある。


あなたは空、川、山、海といった自然に触れることで人間としての叙情的な素養を広げている。


あなたはおしゃれで小粋でもある。


あなたは時折、自らを省みて成長することを望んでいる。


あなたはお金が少なければ倹約をし、不平をそれほど言うこともなく節電も節水もできる。


あなたは最近、少しばかり元気がない。


あなたは顔のしわやしみに敏感になってきた。


あなたは年を重ねて老いを感じるようになった。


あなたは心筋梗塞や脳梗塞、がんなどを気にするようになった。


あなたは年金のことを考えるようになった。


あなたは結構な借金があることを自覚するようになった。


あなたは今後どんな人生を送るのかなと寝床の中で時折思うようになった。


あなたは定年後の生活を描くことに夢がないと思うようになった。


あなたは余生を愉しむにはお金が足りないような気がしてきた。


あなたは守りの人生を考えるようになった。


あなたの名は、素敵な素敵なニッポン。















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モナ・リザ モナムール

2012-01-16 | Weblog
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」が福岡市美術館で開催中だ。画家とともに訪れる。主役が雲隠れし、脇役や端役たちで構成した舞台劇を見たような印象だった。「物足りないなあ」が画家との共通の思いとなった。

展示された作品や書籍、約80点中、レオナルドの真筆は3点ほど。レオナルドと弟子の共作がいくつかあり、そのほかはレオナルド派や同時代の画家らの作品が並んでいた。真筆の1つ、「衣服の習作」(テンペラ、鉛白、亜麻布 1470-75年頃 28.8×18.1cm)は、フィレンツェの工房で修業していた時の作品だ。「上手な描写だな」と思うが、習作止まりだ。

「モナ・リザはないのか?」。会場の入り口付近で年配の男性が女性スタッフにしつこく尋ねていた。レオナルドと言えば、モナ・リザ、壁画の最後の晩餐、岩窟の聖母などの傑作を年配の男性は頭の中で思い描いたのだろう。会場を訪れた多くの人たちがルネッサンス期の天才画家の作品を直に見たいと過大な期待をして来たはずだ。多分、習作だけに満足した人は極めて少ないだろう。

主役がいなければ、どうするか。準主役級を立てるしかないだろう。それが「アイルワースのモナ・リザ」。レオナルドが1503年に描いた未完成作との説がある作品だ。チラシに「もうひとつのモナ・リザ?」のコピーとともに一番大きな写真で紹介されている。扱いは主役級だ。このほか、準々主役級として、レオナルドが構想し弟子が描いた「裸のモナ・リザ」や、「モナ・リザ」を模写した作品群が会場一角を占めていた。

アイルワースのモナ・リザはレオナルドの未完成作かもしれないというのが見る者を引きつける。もし未完成作ではなく、ただの模写作品だとしたら、完成度において本物のモナ・リザに最も近い作品かもしれない。ただし、今回展示された模写作品の中でという条件がつく。パリのルーブル美術館に展示されているモナ・リザの凄さは、模写しきれない卓越した描写力や表現力だろう。写真やスキャンする技術のなかった時代、画家たちは懸命に模写したのだけれども、やっぱりレオナルドのモナ・リザの域に達していないのである。「この顔は(モナ・リザとは)違うよね」というのが同行した画家との一致した見立てだった。模写作品のモナ・リザたちは、見ようによっては極めて真面目なパロディだ。「違う、違う、違うよ、これらはモナ・リザじゃないよ」。模写作品を1点ずつ眺めながら念仏めいた感想が出てくる。

裸のモナ・リザにいたっては、語るべき言葉がない。女性の肖像画で衣装姿と衣装の下の裸体の2つを描く例があり、モナ・リザにも裸体、すなわち上半身が裸となった作品があるのではという思惑から、弟子が描いた裸体の作品が注目を浴びることになる。現物に接して想うことは、モナ・リザが醸し出す神秘的な女の魅力が漂っていない。裸の姿なのだから衣装姿以上に魅了するものがあるはずなのだが、それが感じられない。レオナルドの描写力にはるかに及ばない弟子の力量を感じてしまった。

予想していた期待外れとは別に、会場で得るものもいくつもあった。レオナルド・ダ・ヴィンチの本名がレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチであることや、生まれ故郷のヴィンチが柳というイタリア語であることから、柳をモチーフにした飾り文様をレオナルドが考案したこと、フランソワ1世に招かれてイタリアからフランスに移った際、モナ・リザと洗礼者聖ヨハネ、聖アンナと聖母子の3点を鞄に入れて持参し晩年まで手元に置いていたことなどだ。まあ、脇役や端役たちが雲隠れした主役への憧憬や期待を高めてくれたという点で、この美術展は十分にその役割を果たしたと言える。どんな場合でも得るものは見つかるもんだ。












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焚火をせんとや生まれけむ

2012-01-14 | Weblog

 ♪かきねの かきねの まがりかど
 たきびだ たきびだ おちばたき
 「あたろうか」「あたろうよ」
 きたかぜぴいぷう ふいている

鼻歌交じりで手作りの炉が完成、枯れ草や枯れ枝を集めて準備完了。




マッチ1本、恋の元! 間違った。間違った。男の子は何歳になっても火遊びをしたがるもんで。




長い人生、くすぶる時期もあるさ。




その気になれば、ほら、この通り。燃えるときは燃えるのよ。




盛りのときを過ぎて、燃え尽きていく残りの人生を想わせる。




火遊びだけで終わっちゃ、人生つまらない。灰の中から何か出てきた。




赤ワインとともに小粋に主賓をお迎えしよう。




包装に使った新聞の記事が目に入る。なになに「食品に含まれる放射性セシウムの規制値はこう変わる」。タイムリーでホットな内容だ。




冬の味覚・焼き芋を威儀を正して頂こう!




まずは2つに切り分けよう。




夕張メロンでも食べるような雰囲気で味わおう。




焼き芋の香り、色合い、味わいは素朴だが素晴らしい! 調味料もスパイスも無用だ。




焼き芋に赤ワインが加わると大人の流儀の食卓となる。ワインのお代わりいいかな?




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冬来たりなば鮟鱇鍋

2012-01-13 | Weblog

食う前に詠む。詠む前に習う。先人たちの鮟鱇鍋への想いをネットサーフィンしてみた。


鮟鱇を ふりさけ見れば 厨かな        其角


鮟鱇の 骨まで凍てて ぶちきらる       加藤楸邨 
   

わが友に 富める者なし 鮟鱇鍋        五味三千歩

   
鮟鱇も わが身の業も 煮ゆるかな      久保田万太郎   


鮟鱇の 腹 たぷたぷと 曳かれゆく      角川照子
    
    
鮟鱇を吊るしてよりは ためらはず       藤田草心


鮟鱇鍋 戸の開けたてに 風入りぬ       舘岡沙緻    


せち辛きことは 言ふまじ 鮟鱇鍋       大山草樹


よく煮えて 煮こぼれてゐて 鮟鱇鍋      島村茂夫 


鮟鱇という字面だけで情景が浮かんでくる。フグの素っ頓狂な風貌に比べ、奇っ怪としか言いようのない鮟鱇。オコゼが可愛い妖怪に見えてくる。魚体のぬるぬるとした感じはオオサンショウウオを連想させる。

なんの因果か、吊るされ、ぶった斬られ、大身・皮・肝・あご肉・ひれ・卵巣・胃の7つにばらされ、鍋で煮立たてられ、ヒトの胃袋に納まる。シロウオの踊り食い、アジの活き造り、茹でる前にワタリガニを〆る作業、人だかりの中でのマグロの解体、サザエの壺焼き。そこには生き物を食べて命をつなぐヒトの業がある。

合掌で始まり 合掌で終わる 鮟鱇鍋

これは5・7・5の俳句じゃないよの声あり。

わかってないなあ。

鮟鱇を ロックで詠めば 煮こぼれる

こういうこと。お分かりかな?

   



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朝陽と月夜の間

2012-01-10 | Weblog
ほぼ365日、朝のウオーキングをしている。雨降りや寒風吹きすさぶ日以外は歩きながら移り変わる風景を楽しんでいる。最大の楽しみは坂から海を眺め、雲間から上がって来る朝陽を浴びること。朝陽の中でストレッチをして体をほぐしていく時間は最良のひと時の1つだ。体の筋肉に血が巡ったところで深呼吸を1,2,3,4,5回……と繰り返し、肺腑の中に新鮮な朝そのものを注ぎ込み、吐き出していく。わたしたちは空気を吸って吐く生き物であることを実感する。

朝陽を見る日と見ない日の割合はどんな具合だろう。朝陽を仰いだ数分後に雲に隠れて出てこないときもあれば、曇間からいくつもの光の足を海上に差し出すこともある。いわゆる天使の階段ってやつだ。朝陽という意味では同じものだが、その形態は1つとして同じものがない。きょうの朝陽は横山大観の絵にあるように、絵筆で描いたような見事なオレンジ色だった。毎日眺めていながら見飽きることがない。それと朝陽は心身に活力をもたらしてくれる。

昨夜も今夜もそうだが、夜の月が美しい。月に向かって両手を広げて深呼吸をし、なにかしら祈願をしてみる。かぐや姫ではないが、見る者をして物語を作りたくなるような心境に誘う。闇夜の蝋燭の火のような安堵感を月光はもたらしてくれる。地上を照らす灯明のような月。朝陽のような力強さはないが、月光は智慧の深さのようなものがある。あるいは慈愛みたいなものか。

随分と若いころ、太陽の光を浴びるのが好きだった。夏の海辺でサングラスを掛け、サンオイルを体に塗りつけて日光浴をしていた。陽に焼けた姿が健康的と信じていた時代だった。そして今。紫外線よ、さようなら。日光浴は過去の歴史となってしまった。年に数回だけど、月光浴を楽しんでいる。ムーンオイルも要らないし、皮膚がんの恐れもない。なにを想うでもなく、黙って満月を眺めながら時を過ごすのだ。

朝陽は昇り、沈んで、月夜がやってくる。この間にわたしたちは、起きて、食べて、寝るという時間を繰り返す。仏像の崇拝や神社での礼拝もいいけれど、朝陽や月光を拝するのは宗教的なものを超えた密かな愉しみをもたらしてくれる。光は地上を照らし、存在という陰陽を浮き彫りにする。ホワイトハウスを描き、クレムリンをなぞり、皇居を浮かび上がらせる。四万十川の宙空の満月、万里の長城を照らす朝陽……。これぞ最高最大の立体的な芸術じゃないか。

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虎だ、福だ、トラフグだ!

2012-01-09 | Weblog

仲居のミタの証言

ええ、お2人でお見えになりました。映画カサブランカのハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの雰囲気がありました。もちろん和製カサブランカですから、お顔はボガートにも、バーグマンにもまったく似ておりませんでした。

個室の7号室にご案内いたしました。山頭火の「南無地蔵尊 こどもらがあげる 藪椿」の俳句に、画家が絵を添え書きした色紙が掛かっております。色紙は季節に応じて取り替えます。赤い椿の花が地蔵尊の頭の上に乗っている図柄でございます。4畳半に満たない小部屋に小窓が1つあり、障子の中央にガラスがはめ込まれてあります。ガラス窓から赤い実をつけた小ぶりの南天を眺めることができます。

料理の注文を頂く前に飲み物をお尋ねいたしました。品書きに目を通されていた女性が答えられました「純米吟醸の八海山を頂こうかしら。この300mlのでいいわ」。新潟県南魚沼市にある八海醸造の名酒でございます。米どころと名水のある処に名酒は生まれます。美貌のバーグマン嬢にふさわしい清酒かと思われ、さすがの選択眼でございます。

料理はトラフグのコース料理を所望されました。カニ料理と併せて当店の冬場の人気コースでございます。「時間が少々かかりますが、よろしいでしょうか」と申しますと、「はい、お願いします」とボガート様から丁寧な快諾のご返答を頂きました。

取り皿やぽん酢などの配膳で何度かお部屋に伺いました。料理が出始める前にお2人は八海山をグラスに注いで乾杯をされました。「ことし1年の健康と福を祈って」。Simple is bestのお言葉でした。聴き耳を立てたわけではありませんが、お2人のやり取りの1部からボガード様が年末ジャンボ宝くじで1等2億円の当選番号に三千番違いだと分かりました。わたくしも宝くじを買い求めましたが、1等にはかすりもしない番号でした。さらに驚いたことに、バーグマン嬢はなんと1等と3百番違いだったということでした。「そのうちどちらかが当たるだろう」などと淡々とした表情で杯を重ねておられました。

板長がさばいたトラフグが料理となって運ばれていきます。まずはてっぴ、皮刺しでございます。トラフグの皮を湯引きしてせん切りにしたものを自家製ポン酢で頂くものです。それと、ぶつ刺しも。ぶつ切りの刺身は、薄造りとはまた違ったフグの旨さを味わうことができます。八海山の肴に遜色ない献立でございます。

続いてはてっさ。ふぐ料理の華とも言える刺身となります。薄造りの刺身が有田焼のお皿に載せられていますが、皿の絵柄がうっすらと透き通って見えます。旨みの花弁のように並べられた刺身を目で楽しみ、薬味の刻みネギに巻きつけて、もみじおろしを加えたぽん酢を少々つけて頂けば、口中は極楽の味わいで満たされます。刺身、ネギ、もみじおろし、ぽん酢の四重奏にお2人は感極まったご様子でした。ボガート様が「日本人に生まれてよかったね」とおっしゃり、バーグマン嬢はうなずくことしきりでございました。

てっさを皮きりに、トラフグの旨さを堪能することになるお品が怒涛のように出てまいります。片栗粉の衣をつけて揚げた唐揚げの出番でございます。これを頂きますと、鶏の唐揚げを召し上がる気がなくなるほどの美味しさです。どうぞ、熱々のうちに上品にかぶりついていただきとうございます。葛きりを揚げたものを添えておりますが、これがまた絶品のお味です。もっちりとした唐揚げをぱりぱりとした葛きりの味わいが引き立ててくれます。

お次はてっちり。水炊きの鍋でございます。てっさが東の横綱ならば、てっちりは西の横綱となりましょうか。昆布だしのつゆに骨付きの身から入れます。次いで豆腐、白菜、春菊、人参、生椎茸などの野菜と乾燥葛きりを加えていきます。しゃぶしゃぶの感覚で身とあらを頂いてくださいまし。もうコラーゲンたっぷりで、めくるめくような絶品でございます。お2人も召し上がることに心をそそがれ会話も途切れがちと言うより、ほとんど会話なして頂いておられました。

鍋の後は仕上げの雑炊でございます。身とあらから出た旨みを生かしてつくります。1杯分のご飯を入れて炊き上げます。溶き卵を落とす必要もありません。刻んだネギをまぶして召し上がれ。雑炊をいただくことで幸せを感じるはずでございます。海の幸トラフグの旨みと、山の幸お米が見事にマリアージュしたと言えばよろしいのでしょうか。健やかなるときも、病めるときも、雑炊は日本人を本当に元気にしてくれます。食べる有難味、食べることができる幸福を、雑炊は教えてくれます。命がいっぱい詰まった食べ物を、有り難く頂く。トラフグの命を頂いたお2人は、それぞれの命の中にトラフグの福を注がれました。

デザートに信州リンゴ2切れと真っ赤な苺1つをそれぞれお出ししました。お2人はこれまでの料理を1品残らずきれいに召し上がりました。お食事を終えたボガード様が、皿などを引きにきたわたくしに声を掛けてくださいました。「きょうは本当においしいものを頂いた。ありがとう」。バーグマン嬢も声を掛けてくださいました。「こんなにおいしいフグ料理を頂いたのは久しぶり。ごちそうさまでした」。こうしたお礼の言葉を掛けられるだけで、わたくしも嬉しい気持になりました。

ボガード様はご愛想を済ませた後、板長やほかの仲居たちにもお礼を述べておられました。こんな心遣いが宝くじの1等に近づいていくんだなと教えられた次第でございます。命を頂いたら感謝の言葉を述べる。カサブランカの主人公たちはやはり、最初から最後まで格好よかったのでございます。














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塩鮭を肴に屠蘇を呑む

2012-01-05 | Weblog
1切れ半の塩鮭をレンジで温めて食卓に置く。晩酌は作りすぎた屠蘇だ。そこそこの日本酒で作ればいいものを、間違って大吟醸を使ってしまった。もったいないほど高級な屠蘇となった。しかも、たっぷりとある。元旦以降、毎夕の食卓の友となった。ぐい呑みに1杯、2杯とたっぷり注いで、ぐびりとあおる。

3杯目をいきたいところだが、なにせ大吟醸で作った屠蘇だから、気持ちの赴くままに呑み干してはいけない。しかしながら、このぐい呑み2杯で終わる呑み方は、満員御礼と言うか、売り切れ御免と言うか、ほとんど呑んだ気がしない。ほろ酔いの「ほ」にもならない。ほとんど寸止めと言える呑み方である。腹8分にならえば腹0・8分である。

真水を呑んでいる感覚だ。屠蘇の効用は健胃、吐き気止め、利尿、抗菌、咳止め、風邪予防、血液浄化、発汗促進、下痢止めなどだそうだ。毎夕、ぐい呑み2杯ずつ呑んで、あと4,5日分はありそうだ。元旦から数えれば、通しで10日間にわって呑み続けることになる。これだけ呑めば効用のいくつかを実感できるだろう。

肴も日替わりだ。元旦はお節のあれこれだった。2日目はかまぼこ、3日目はチーズ、4日目はアーモンドやピーナッツ、ピスタチオなどのナッツ類、そして5日目が焼いた塩鮭が冷えたので、レンジで温めなおしたものとなった。呑みつけると薬用養命酒の弟分みたいな感じがしてくる。どちらも生薬で深酒するような代物ではない。養命酒や屠蘇でアル中になる人もあるまい。善男善女のための良いお酒が屠蘇だ。

屠蘇の意味は、悪鬼を屠り、死者を蘇らせるとか。ほふる! それも鬼を! 凄いね。蘇らせる! しかも死者を! そんなバナナ。呑みすぎると前後の見境がつかなくなり、生者を屠り、悪鬼を蘇らせるとなるのだろうか。

日本酒、ウイスキー、ワイン、ビールにしろ、深酒して長生きした人を知らないが、屠蘇だけは深酒しても長生きしそうな気がする。たった5日間呑み続けただけで、血液浄化のせいか顔の色艶がいつもに増して良くなるし、健胃で食欲も旺盛、抗菌で風邪知らず。効用の1つひとつを確認する日々だ。塩鮭を食べても利尿効果でたちまち減塩体質に。こんなにいいことづくしなのに、なぜ正月だけの酒で役目を終えるのか。それに呑み屋の品書きにも屠蘇を見たことがない。「屠蘇、熱燗でね」「あいよー」」。こんな掛け合いをする日は来るのだろうか。残りの屠蘇を呑み干す間に考えてみよう。いやいや、それよりは3杯目を呑んでほろ酔いを味わってみたい。せめて、「ほろ」でもいいから。

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そこのけ、そこのけ、左馬が通る

2012-01-04 | Weblog
初詣で神社を参拝する。拝殿や本殿に老若男女が列をなし、賽銭を上げ、鈴を鳴らして神様に祈願する。商売繁盛、家内安全、志望校合格、就活・就婚成就、病気快癒などなど、頭1つにつき少なくとも1つの願いが光線のように社殿の中に発せられる。




わたしの番が来た。粛々と2礼―2拍―1礼をする。柏手もパーンと明瞭に響き渡った。ここに在ることに感謝したい想い。作法と心身が一体となった。祈願は無心そのものだった。そう、無念無想、なにもお願いしなかった。しようとも思わなかった。いつになく不思議な経験をした。祈願の中身は真っ白だったが、祈願をしたという充実感はあった。知人に贈るためにお守りや破魔矢をいくつか買い求めた。祈願するために集まった多くの参拝者の中にいるだけで、わたしは十分だった。新春の風物詩を堪能している自分がいた。


境内を巡る。お札やお守り売り場がにぎわっている。おみくじにも七福神などのおまけがついて1つ200円となっている。お守りも種類が増えて「勝守」「うまくいく守」「金守」など詣でる人たちの想いを見事に形にしている。左馬の看板もでかでかと置かれてたり、掲げてある。パワースポットブームを意識してか、「運気向上」の文字が躍る。商売繁盛や運気が最も向上しているのは神社そのものだ。参拝者は神社の運気にあやかるだけでも嬉しい限り。






参拝を終えて田舎道を車で流す。暦が替わったことで2012年の風景として眺めていく。フロントガラスの向こうに黄色い塊が見えた。なんだい? もしかして……。そのもしかしてだった。菜の花が咲いている。年が明けたばかりというのにもう春本番かい! 彩りが乏しい冬場の風景に華を添えている。いや、脇役ではなく主役だよ。





車から降りて菜の花畑に近づいていく。どういう想いで植えたのか。冬の朝夕の冷気や霜などにめげずに咲いている。春本番の菜の花と比べれば、やや精彩を欠くが、その健気さに感じ入る。

菜の花は 冬の星座を 見て育つ
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24時間の形

2012-01-02 | Weblog
世界中の表現者に告ぐ。

「24時間を形で表してくれないか」

どういう意味だとの質問あり。

「ミッションは述べた通り。解釈は自由。ウィキペディアなど、なにを参考にしてもいい」


じゃ、これはと即答あり。






「太極図だね。それは既知だよ」


2番手の回答あり。


1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24


「なるほど。整然としている」



3番手の回答は。

    


「腕時計のフレームになっちゃうよね」



4番手はどうか。


    


「24時間をはるかに超えた時間になったみたいだ」



5番手はどう。


  ↑
←  →
  ↓



「少し面白くなってきた」




次の作品どうぞ。



「おっおー。これは著作権違反か商標権違反だな」


このミッション、24時間で打ち切りとなる。名回答は多分、60数億のだれかの頭の中に潜んでいる。



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希望と静謐の味

2012-01-01 | Weblog
2012年最初の朝は薄曇りながら穏やかな日和となった。

寝床で大きく伸びをし、肩甲骨をほぐす。窓のカーテンを左右に開ける。

池の水もぬるんで緋ブナたちは出来たてのパスタの湯気みたいに帯となって泳いでいる。

静かな朝、洗面に立つ。手にすくう水も柔らかい。白湯を湯呑み1杯あおる。

玄関を出て初歩きに出かける。誰にも会わない。黙々と歩み、道祖神に黙礼。

落葉した柿の古木のたもとから山鳩が飛び上がった。羽ばたく音が力強い。

遠望する山の峰々はぼんやりと霞んでいる。いつものコースを外れて森の中を歩く。

なんの音も、なんの動きもない。落葉が敷き詰められた土の上を歩く。ふわふわとした感触が伝わる。

鴉の群れが電線に止まっている。元旦ののんびりとした世界を知っているかのように悠然としている。

いつもは野球、陸上、軟庭の部員が早朝練習をしている中学校のグラウンドもひっそりとしている。

初歩きが済むと、初風呂を浴びる。湯煙を鼻腔に満たす。両手で湯をすくい顔の形を確かめるように何度も洗う。手のひらが瞼や鼻筋、頬と触れあう。両耳たぶをびよーんと引っ張ってみる。

体の芯まで温もる。髭に剃刀を当てる。毎日毎日しつこく生えてくる髭を、飽きることなく剃っていく。

寝床に戻り、敷布団の上で柔軟体操。前屈開脚に前後開脚となんでもござれ。

別刷りとチラシで膨らんだ朝刊に目を通す。福島原発事故で避難を余儀なくされた人たちの故郷喪失の記事を精読する。故郷に未練を残す人、移住を決断せざるを得ない人など、理不尽さに直面した人たちの現実に暗澹とした思いとなる。読みたい記事は他にはもうなかった。紙面を繰るだけで読み終えたことにした。

初朝食は刺身とお節料理にお雑煮。お屠蘇の後は吟醸如水を冷やでいただく。いい味だしてる。

賀状を1枚1枚めくる。手書きの添え書きに書き手の顔立ちや笑顔、横顔、声が浮かんでくる。肉筆が多弁であることをあらためて知る。


静かな朝、穏やかな気持ち。

静かな昼、和やかな気持ち。

静かな夜、温もりのある気持ち。

このように元日は始まり、終えようとしている。

















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