おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

極楽浄土の熟柿を食す

2022-03-23 | Weblog

福岡のうきは市はくだものの産地にして王国である。完全無農薬栽培を謳う生産農家が手掛けた柿を知人からいただいた。昨年の晩秋の頃である。けっこうな量だった。毎日1個食べても2カ月はかかりそうだった。

粛々と食べる日々が続く中で、柿は次第に熟れていく。その熟れ具合が最高な状態を食していく一方で、取り置きの熟柿はさらに熟れていく。貴腐ワインと違って、熟れ過ぎの行く先は消費期限を超えて腐敗の世界に入り込んでいく。ならば冷凍保存してその旨みを永続させよう。そんな想いで冷蔵庫の冷凍室の中に食べきれない熟柿を入れ込んで保存した。

晩秋から歳末を経て、新年となり、1月、2月が過ぎて3月に入った。3日に1度の割合でコチンコチンの熟柿を解凍して食卓に載せるようになった。アイスキャンディーみたいにしゃりしゃり状態で食べるのも良し、フローズンスムージーみたいにどろりとした状態で頂くのも良し、そんな解凍熟柿の魅力にすっかり虜になった、とある1日を再現してみた。

 

冷凍室に保存していた熟柿を取り出して皿の上に置くと、表面が次第に白い霜で覆われる。冷たいことを除いては常温に置いてある柿とまったく同じ姿が一変する現象である。

 

しばらく時間が経過していく中で、表面の白い霜は少しずつ薄くなっていく。まさに解凍されていく過程を観ることができる。熟柿下方の楕円形の地肌は、試みに指で押してみた際に霜が取り除かれた跡である。

 

霜はどんどん減少していって北極と南極の氷を残した火星といった感じとなる。表面と中身がカチンコチンからやわやわが増していき、熟柿ならではの熟熟どろり、果てはどろっどろといった状態へ向かっていく。

 

霜がすっかり取れてしまうと、しゃきしゃきか、どろりんことした状態のいずれかを選択できる。霜が取れた直後はしゃっきりシャーベット、しばらく時間を置けばどろりんスムージーとなる。今回はどろりん状態を選ぶ。

 

食べ方はいろいろだが、まずは頂き部分を匙でつついて皮を少しばかり破る。ぐちゃりぐちゃりとした感覚が匙を通じて伝わってくる。

 

どろっとした旨みを匙ですくい上げて口元へ。濃厚な旨みを幾重にも折り重ねたような、まさに旨みのミルフィーユ状態とも言える味わいが口中にじゅわ~っと広がる。濃縮糖分ゆえ糖尿病の方は食べ過ぎに注意である。

 

とは言え、あまりのおいしさに糖尿病患者でも4の5の言ってられないのである。匙で旨みをすくって口元へピストン移動となる。これを味わって糖尿病が悪化し、あの世に早々と行くことになっても本望だ。そんな錯覚、勘違い、イケイケどんどんをもたらし、暴食の魅力に捕らわれること請け合いの極上の旨さである。

 

熟柿の旨さを独り占めしていては罰当たりだ。7割方頂いたら、残りは屋外の鳥たちに喜捨するのが良い。ヒヨドリ、スズメをはじめ、もろもろの小鳥たちがごちそうに気付いて、あっという間に平らげてしまう。残るのは種だけである。熟柿の旨みを堪能する一方で、小鳥たちにおすそ分けをしたという積善の想いが脳内に満ちて、なんともいい気分となる。解凍熟柿、お試しあれ。これ、味覚の極楽浄土である。

 

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春はこのようにしてやって来る

2022-03-21 | Weblog

3寒4温の合間を縫って、春は忍び足で田園のあちこちに近づている。

スマホ片手に冬の名残りと春の訪れを感じさせる風景を捜し歩いてみた。

ススキの枯れた一団に遭遇した。おお、ブロンド色! まあ、なんと美しい色合いの枯れ具合だろう。生き生きとした彩さえ見せてくれている。こんな風に年齢を重ねて枯れていきたいねえ。

 

元気はつらつに歌い上げる合唱団みたいな水仙の一群。彼ら、彼女らの歌唱の舞台は墓地の一角だった。素敵な供花とも言えるね。

 

冬場の田園という茶色のパレットに色合い異なる緑の絵の具を広げてみた。これだけで春の訪れを表現できるね。風景に生のきざしがいっぱいだ。

 

こちらは茶色のキャンヴァスを緑色に塗り込めて仕上げた。題して緑の春。いやあ、スキップしながら横切ってみたい。

 

春の雑草、仏の座が一斉に紫色の花を満開にしてパレードだ。サンバのリズムでも聞こえてきそうだ。思わず腰をふりふりだねえ。

 

「芸術は爆発だ!」。TARO OKAMOTOがそう叫べば、わたしはこう叫ぶ。「春は爆発だ!」。純白の花火のように四方八方に春の賑わいをまき散らす雪柳。見ているだけでうきうきしちゃうよね。

 

これもまた2022年の春の風景に入れなくてはね。ワクチン3回目打ちました。副反応まったくありませんでした。友人、知人らが副反応談義で盛り上がる中で、ひとりぼっちな孤独を感じております。わたしは本当に地球人なのだろうか?

 

この黄色い花は菜の花ではありませんよ。とくとご覧あれ、白菜の花なんですねえ。知ってたかな? ほとんど見ることがないという意味合いでご紹介してみました。

 

本番までにはちょっと早いが、様子見で撮ってみました。ソメイヨシノでございます。逆光でよく見ませんねえ。それじゃ、こちらへ。

 

朝早くに撮ったから鮮明ではないが、いくつか咲き始めていますね。「さくら、咲く」。そんんな吉報が多くの方に届く春でありますように。

 

締めの風景は定番ながら、この花でしょうね。いい気分にしてくれる色合いだ。淡い色調の空がもっと青みを増せば、この景色はウクライナの国旗になり替わる。彼の地の平和に想いを馳せる風景でもある。

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今ハマダ 終活ヲ 語ラズ

2022-03-20 | Weblog

心身が縮こまる冬場の景色の中に、少しずつだが春の感触が目の前に見え始めてきた。枯野に雑草の緑が立ち上がるように、まずは心を縮みがちの状態から、背伸びするような心地よい伸びへとストレッチしていこう。マスメディアでは近年、人生百年時代を踏まえて終活、断捨離、人生の棚卸といった記事や放映が増えているが、そんなに早々と片付けをしてどうするのだろう。余命を知った上での覚悟の取り組みなら分かる。後世に残しちゃいけないものや不要な品々は、日頃、都度都度処分をして、お気に入りだけを回りに置いて心の安寧を維持すればいいだけだと想うのだがねえ。

エンディングノート? 書きませ~ん。それこそTO DO LISTの最終項目に指定しておこう。

断捨離? しませ~ん。捨てるようなもの、買いませんのよ。

人生の棚卸? 税務署に申告する決算書づくりじゃあるまいし、これって要るのかな。資産はないが、負債はあるなあ。そんな感じが分かっていればいいんじゃないの。負債があれば、どうやって返そうかなと考えるしかないよね。借りたお金は返さなくちゃいけないが、万事休すとなる前に無料法律相談の弁護士に電話1本だ。

一方で、断捨離しないと言っても、ゴミ屋敷の主になれという訳じゃないよ。これは、捨てていいものを捨てずにいることを日々積み上げていって完成するものだよね。コツコツと不要品が溜まっていき、その混沌、乱雑としていく状態の中に身を置くことが快感になったりするんだろうねえ。風呂にも入らず、下着も替えず、異臭を放ちだしていく自らの身体に精神が寄り添い同調して「その調子だ。もっと頑張れ。限界を打ち破れ」となるのかなあ。その寄り添いが、不要品の片づけ、ごみ出し、体の清潔へと向かってもらうと、「ああ、なんて立派な精神だ」と花丸を描いてあげるんだけど。

人生の折り返しを過ぎると、定年を迎えた大方の人たちは日々の暮らしの中でひと工夫が要るかもしれないね。

例えば健康の維持、あるいは一病息災で体へのいたわり。健康優良児(者)だった人も加齢に伴って、あちこちにガタがやってくる。

春が来たの替え歌じゃないが、こんな感じかな。

♪ガータが来た、ガータが来た、どこに来た~。お目目に来た、腰に来た、膝に来た~。

美男のアロン・ドロンも、筋肉隆々のアーノルド・シュワルツェネッガーも、おじいさんになるんだよ。

わたしも各種クリニックを受診するごとに「ああ、これは加齢ですねえ」「加齢に伴う症状です。今は特に治療は要らないですね。安心してください」「加齢だから様子を見ておきましょう。お薬も出すことないでしょう」。お医者さまたちは加齢、加齢っておっしゃいますが、わたしの想いとしてはボンカレーじゃないんだけどねえ。安心していいけど、歓べないという宙ぶらりんの健康状態に今はある。

次いで人脈。かつては仕事の関係で毎年山みたいに名刺の束が積み上がっていたが、今はそんな世界から1歩引き下がっている。住所録からは物故者が毎年出て、その度に当時の風貌やともに語り合ったことなどを回想することが常となってきた。会うは別れの始まり。そして永遠のお別れのときが最後に控えている。縁とも呼ぶべき人たちとは交友が続き、気の合う友とは軽く1時間以上の電話でのおしゃべりをしてしまう。男であれ、女であれ、語り合える友がいるのは大事なことだ。いや、貴重だね。

 

書斎の机の一角を陣取るフィギア。宇宙飛行士、エンパイアステートビルに登るキングコング、ツタンカーメン。ゴミ屋敷みたいに雑然としているが、わたしにとっては整然とした一角である。

 

部屋の一角。お気に入りのアートを毎日眺めて暮らす。いやあ、アートって最高! わたしにとっては心の健康食だね。

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キーウ・ウクライナ・2022春

2022-03-13 | Weblog

プーチンの号令一下、ロシア軍がウクライナに侵攻して2週間以上が経つ。日々のテレビニュースで戦況と避難民らの現況が刻々と伝えられる。スパイ上がりの大統領が武力に物を言わせて要求を呑ませようとすれば、コメディアン出身の大統領は徹底抗戦を主張して一歩も譲らない。第3次世界大戦に至るとしてロシア軍への直接的な軍事作戦を取らない欧米は、経済制裁という非軍事的なやり方でロシアへ打撃を与え、ウクライナを支援する形となっている。世界の経済を混迷に巻き込む事態が今、繰り広げられている。

さまざまな想いが浮かんでくる。ロシアの戦車が欧州の独立国に乗り込んで政権を転覆させる。この光景には既視感がある。1968年、チェコスロバキアでの民主化運動プラハの春。ドブチェクという人物の名前と風貌が蘇る。20年後、戦車に押し潰された自由と歴史を踏まえた小説を題材にした映画を観た。チェコ出身でフランスに亡命した作家ミラン・クンデラが書いた「存在の耐えられない軽さ」。ポスターはエロチックだったが、中身はシリアスだった。

ロシアが兄で、ウクライナが弟、両国は同じ民族で同じ宗教という「兄弟国」の隣国同士だという。かつて書いたことがあるかもしれないが、この兄弟国の人を今わたしが住んでいる古民家で接待したことがある。ずいぶんと昔のことだ。経過は割愛するが、ウクライナの女性1人にロシアの男性2人。いずれもウクライナのチェルノブイリ原発事故があって来日した医療関係者だった。米軍の原爆投下によって被爆者への放射線の影響や治療、研究で蓄積のある長崎大学医学部に学びに来ていた。チェルノブイリでの被曝者治療などの知見を深めるのが目的だったのだろう。

床の間と畳と障子がある和風の部屋での宴。彼らは座布団に座り、箸を使って和食を召した。男は胡坐、女性は正座だったか。日本酒を出したかどうかは記憶にないが、フランスの赤ワインを出したことは覚えている。ボトルを見て彼らの表情がぱっと明るくなった。1人ひとりのグラスにソムリエよろしくワインを注いで乾杯の音頭を取った。わたしは彼らを駅まで送る役目もあったので、ひたすらワインを勧める役回りだった。彼らとはもっぱら英語でやり取りし合ったと思うが、内容はこれまた覚えていない。ウクライナの女性は亜麻色の髪をしていて穏やかな方だった。ロシアの男性のうち1人は髭面で陽気だったが、もう1人はその上司のような感じで厳格そうな表情をして寡黙な方だった。

和風の家で和食とおしゃべり?を愉しんだ彼らと記念写真を撮った後、車で30分ほどかかる駅までわたしの車で送る時間となった。助手席にウクライナの女性、後部座席にロシアの男性2人。走り始めてしばらくして後部座席の2人はワインの酔いもあってか寝込んでしまった。けっこうお勧めしたからね。ウクライナの女性と英語でなにやら話しながら運転をしていた思うが、覚えていることが1つだけある。「この車と同じ車にウクライナの母も乗っています」。故国から遠く離れた日本の九州の片田舎で、母が乗る車と同じ車に同乗するという体験に小さな感動をしている様子だった。

わたしは今、想うのだ。愉しい時間をともに過ごしたウクライナの女性とロシアの男性2人はその後どんな人生を過ごし、存命であれば今回のロシアによるウクライナ侵攻をどう思い、どんな状況にそれぞれあるのだろうか。戦争か平和か。1国の指導者の決定によって国民はその運命を左右される。それは悲嘆と笑顔ほどの深い落差がある。今回の戦争を止めることができるのは、たった1人の人物しかいない。そして、その人物の末路に想いを馳せる。

ウクライナへの侵攻があって数日後、知人の女性からラインでメールが入った。

プーチン、なんとかならないかしら? 許せんね。

返信を打つ。

欧米などと協調して失脚させるしかないね。1917年のロシア革命とは違った、もう1つのロシア革命が必要かもしれません。

 

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