おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

遷ろいゆく春の花々をどっしりと構えて眺める

2013-04-25 | Weblog
新年の開花の1番乗りはロウバイだった。ロウバイ科ロウバイ属だが、北風に全然狼狽することなく、目にも鮮やかな黄色の色彩が景色の中に浮き出てきた。中国が原産だったのか。


2番手は白いウメの花だった。葉に先だって開花し芳香を放った。奈良時代に中国から渡来した。バラ科サクラ属という。初めて知った。樹木を1周りして開花の様を眺め回したが、バラにも、サクラにも思いが至らなかった。


すっかり忘れていたのがあった。ツバキ! 白、ピンク、赤のトリオ・ザ・パンチョス。咲き終えると、花びらを散らすという軟派なことはしない。介錯されたようにポトリと花ごと落ちる。地に落ちて、その艶やかさでもうひと花咲かす。ツバキ科ツバキ属。まさに本家本元である。


ツバキが出れば、サザンカにもお出で願わなくては。こちらも白、ピンク、赤とツバキと同じトリオ。葉はツバキより小さくて細い。花の散り方は1枚ずつはかなげに落ちていく。ツバキ科ツバキ属だが、分家のようだ。


ここからは思い出し先着順でいこう。まずはレンギョウ。春の到来を告げる黄色い蝶のように枝にまとわりついている。その色彩はお日様に照らされて、ほのぼのとした温もりと、取り立てて理由もなく小さな幸せをなぜか感じさせてくれる。眺めていると微笑みを返したくなる。


しっかり者なんだけれども、なぜかネガティブな名で呼ばれるボケ。鳥で言えばアホウドリ、4つ足で言えばナマケモノみたいに、選挙では連呼できない名前である。漢字で書けば、木瓜。木と瓜でボケと無理やり読ませられるとは。ここまでボケられるとツッコミようがない。バラ科ボケ属とか。バラ科として誉れ高く、威勢良く胴上げされて、ボケ属として無慈悲にして、冗談抜きに地面に落下させられる運命を辿る。白、ピンク、赤と花の色合いはボケてはいないのだけれどもね。この言い方自体がある種のハラスメントか。名誉棄損で訴えられる? そのときは、とボケるか。


コブシの白い花が青空を背景に風に揺れる様はなかなかいい。モクレンよりひと周り小さめの花たちが鈴なりになって大きな白い花の塊へと化ける。早春の白昼に照り輝く花火のようだ。


優勝パレードで撒く小さな紙吹雪か、あるいは小雪の舞いのようなユキヤナギ。原産地は日本! メード・イン・ジャパ~ンだ。長く伸びた枝に覆いかぶさるように咲き誇る。風に吹かれて揺れている。なんと素敵で爽やかな春のスイングなのか。


春の季節にだけ存在感を誇示するのがヤマザクラ。緑の山の中にあって日ごろはからっきし目立つことがないが、開花のときだけは山の中の王様か女王様となる。ソロでよし。デュエットやトリオもいい。さらにオーケストラで春を奏でる様は壮観でもある。


ゴールデンウイークと言えば、九州じゃツツジでござる。白、ピンク、赤とはじけるような咲きっぷりは行楽気分も盛り上げてくれる。絵具で染め上げたようなとはこのことか。かき氷にかける蜜の彩りを連想してしまう。


ツツジの高揚感を上から目線で静かに見下ろしているのがフジ。行楽客の騒がしさとは別世界の佇まいを見せている。世の中が浮き足立ってもけっして熱することもなく、いつも冷静沈着にして、はしゃぐことはない。平安時代の楚々たる貴婦人のようでもあり、アジアン・クール・ビューティーのようでもある。


人知れず静かに咲くのはヤマブキ。日差しの弱い木陰でヤマブキ色としか言いようがない印象的な色合いを見せている。新緑の葉の中で3Dのように色彩が浮きあがっている。前後左右を見渡して誰もいなければ、そっと唇をよせて軽くキッスをしたくなるような魅力を持っている。










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赤福餅

2013-04-20 | Weblog
詣でるという本題からこぼれ落ちてきた余談。


伊勢神宮を詣でて宇治橋を渡り終えて右手にある商店街へ足を運ぶ。おかげ横丁につながる通りには参拝を終えた人や観光客、食いしん坊たちがそぞろ歩きしている。


目指すは赤福本店。餅の上にこし餡を乗せた名物菓子・赤福とわが舌とがお見合いする場所だ。立ち会うのは唇とナマコのように無口な胃袋。


もぐもぐ。むしゃむしゃ。ほとばしるような出会いか。あるいは音もなく舌の上でとろけて胃袋に収まっていくのか。どんな進展になるのかワクワクドキドキである


どっしりとした赤福本店の前に着いた。畳敷きや縁側は赤福餅ファンでいっぱいだ。満席の居酒屋のようにも見えるが、大きな声はしない。入口付近で好みのセットを注文する小さな声が時折聞こえるだけである。取り立てておしゃべりするわけでもなく、みんな静かに赤福餅を味わっている。


この静かな佇まいは茶会のようである。野卑な高笑いや放歌高吟する無粋者はなく、「いや~、競艇ですっちゃって」と場違いなぼやきもない。茶を喫し、お茶菓子の上品さに感じ入る。赤福餅を食すことは、なんの不安や迷いもない時間のただ中にいることである。


伊勢神宮そばを流れる五十鈴川に面した縁側に座る。赤福餅とお茶をいただく。お店の説明では「形は伊勢神宮神域を流れる五十鈴川のせせらぎをかたどり、餡につけた三筋の形は清流、白いお餅は川底の小石を表しています。名は赤心慶福の言葉から2文字いただき、赤福と名付けたと言い伝えられております」


音もなく流れていく清流を眺めながら、赤福餅をますらおぶりで頬張る。なんという、たおやめぶりな味わいか。まったり! おっと、感嘆符をつけては軽薄になってしまう。まったり。うん、句点がキリリとしてて、これでいい。声には出さないが、唇も胃袋も妙なる味わいに歓んでいる。脳内はこし餡がもたらす幸福感で満たされている。名称、姿、形、風情、味わい、感触、余韻、残心、後味、すべてに丸である。

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高野山 奥の院

2013-04-16 | Weblog
高野山大学に6年間いましたという坊主頭の案内人が先導していく。参道沿いには杉の大木と多くの供養塔や霊屋が並んでいる。その数、20万基を超えるという。織田信長に明智光秀、武田信玄に上杉謙信、法然と親鸞、ニッサンやシャープなどの企業が建立したものもある。句碑や歌碑もある。芭蕉、高浜虚子、与謝野晶子などなど。高野山と言えば、小津安二郎が最愛の母の分骨で訪れた際の思いを表した詩がある。題名は高野行。小津自身が亡くなる1年前のことだ。

                       
 ばばあの骨を捨てばやと 高野の山に来てみれば 折からちらちら風花が 
 
 杉の並木のてっぺんの 青い空から降ってくる

 太政大臣関白の 苔のむしたる墓石に 斜にさしこむ夕日影 貧女の一燈またたいて 去年に焼けたる奥の院

 梢にのこるもみじ葉に たゆとう香華の煙にも 石童丸じゃないけれど 

 あわれはかない世の常の うたかたに似た人の身を うわのうつつに感じつつ 

 今夜の宿の京四条 顔見世月の鯛かぶら 早く食いたや呑みたやと 高野の山を下りけり

 ちらほら灯る僧院の 夕闇迫る須弥壇に 置いてけぼりの小さな壺 ばばあの骨も寒かろう



御廟橋を渡って燈籠堂へ。香のついた粉を両手にすりつけてお清めして堂内へ。堂内での合掌はなく、案内人は燈籠堂の裏手へ進んでいく。弘法大師御廟がそこにある。835年3月15日、弘法大師は弟子を集めてこう述べたという。「われ、入定の期近づけり」。6日後の21日、入定。62歳。即身成仏である。よって、ご詠歌の「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる」となる。御廟の奥の岩室で今も生きて瞑想を続けているという意味である。


姿が見えない弘法大師への想いを見透かしたように案内人が囁いた。「特別にお姿を見せてあげましょう」。案内人の後に続く。燈籠堂の横にある小さなお堂の扉が開いている。「どうぞ」。入口から中をのぞき見る。たくさんの燈籠にろうそくが灯っている。なにがあるのか、よく分からない。「目の前のずーっと先をごらんなさい」。言われた先に目を凝らす。肖像画のようなものが掲げてある。距離があるのと、ろうそくの弱い光の中ではっきりしない。「大師さまです。肖像画のことを御影と言います。ほら、言うでしょう。おかげさまでって。あれですよ」。おかげさまは弘法大師への感謝の言葉だった!?


聖地でありながら、高野山・奥の院が伊勢神宮や熊野那智大社と大きく異なるのはただ1つ。供養塔が示すように、そこが死者たちの世界であることだ。もっとも、信者にとっては弘法大師は生きているのではあるが。さわやかでも、すがすがしくもない死者たちの世界。そこは古事記にある黄泉(よみ)の国である。手を合わせ冥福を祈ったら、さあ、帰ろう。黄泉から帰る。すなわち黄泉帰る。こうやって、わたしたちは現世に蘇えるのである。


小津安二郎のように思う。「早く食いたや呑みたやと 高野の山を下りけり」。バスで新大阪へ向かう。到着後、駅ビルの飲食街でお好み焼きの店に引き寄せられる。店内は仕事を終えた若い男女でいっぱいだ。ジョッキでビールを呑み下し、お好み焼きを頬張りながらおしゃべりしてにぎやかだ。なんという活気と活力に満ちた空間だ。生者たちの極楽がここにある。カウンター席に座る。隣の浪速娘が「生ビールとねぎおこねえ~」と注文している。ねぎおこ? お好み焼きの上にネギをトッピングしたものらしい。作っているところを眺めていると、うまそうだ。浪速娘にならって注文する。「ねぎおこねえ~」。しばらく待つうちにお腹もいっそう空いてきた。湯気を上げてねぎおこが目の前に置かれた。箸を握る前に手を合わせる。いつもは「いただきます」だが、今宵は違う。高野山帰りにして黄泉帰りだ。もちろん、「おかげさまで」でしょ!
























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熊野古道

2013-04-13 | Weblog
フニクリ フニクラの替え歌を声に出しながら熊野那智大社がある山上を目指す。

♪行こう 行こう 那智の滝

♪行こう 行こう 山の上

♪まだか まだか 那智の滝

♪まだだ まだだ 山の神






世界遺産となっている熊野古道・大門坂を老若男女が歩いていく。登る人あれば、下る人あり。





四国の金刀比羅宮の階段ほどではないが、山の上に向かって階段が続いている。トレッキングの経験を活かしゆっくりとした歩みで進んでいく。朱色の大鳥居が見えたら、あと少しだ。





あと少しながら階段はまだ先へ延びている。





またまた鳥居が見えた。最後の心臓破りの階段へ。





ゴールとなる社殿!





観音様がお出迎え。疲れも吹っ飛ぶ、とはいかないが、辿りついた達成感で身も心も軽くなる。





境内の一角から青岸渡寺と那智の滝を遠望できる。





滝を背景に桜が開花している。絵になる日本の風景だ。





青岸渡寺の三重の塔にも桜花が絡む。





お名残り惜しいが、聖地を後にする時間がやってきた。心境を映像にすると、しんみりとした寂寥感ただよう画面となる。





登ってきた階段を下っていく。神さまはなんとも言ってくれないが、人間さまは横断幕を掲げてねぎらってくれる。「また、来てくらんしょ」。熊野弁だろうか。ほのぼのとした言葉を熊野詣での手土産にして帰路に就く。さてと、お礼参りはいつになるのだろうか。

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お伊勢さん

2013-04-11 | Weblog
羽衣姿のお伊勢さんは言う。

参拝の順路は多くの場合まず外宮からというのが古来からのならわしです。外宮は伊勢市駅から歩いて7分ぐらいです。 その後内宮ヘとお参りするのがよいでしょう。

お伊勢さんの言うとおりにしよう。まずは外宮へ向かう。正殿は板塀に囲まれている。





次いで、少し離れた内宮へ。お清めの水は自然の川である。境内を流れる五十鈴川のほとりへ。冷たくもなく、温かくもなく、ほどよい感触の清水で手を清める。ハンケチで手を拭う。日ごろなんでもない所作の1つ1つを丁寧に意識しながら行う。





お伊勢さんの声の導くままに樹齢5百年以上の巨木に囲まれた参道を歩む。声と言っても、「こっちよー」などと叫んで周りの参拝者を驚かしたりしない。わたしの心の中に聞こえるだけである。


正殿へ至る長い石段を登りつめた地に天照大御神が鎮座しておられる。参拝者は賽銭を上げて黙って神頼みするのみである。静かにやって来て、静かに参道を歩み、静かに参拝し、静かに本宮を後にし、静かに境内を去る。語らずして祈り願う。以心伝心である。





新しい正殿が、今秋にお役御免となる現正殿の左手側に造営中だった。屋根の1部が見える。静寂にして薄暗い界隈の中でひと際、輝いてみえる。昇りたての朝陽のような輝き。新たな生命体の誕生のようでもある。





20年に1回行われる遷宮。なぜ11年とか、19年ではないのか。ガイドによれば、きりがいいのだそうだ。それに神明造りをする宮大工の養成と技術の伝承のためにも20年毎に新しく造営をしていく必要があるとのこと。老朽化した社殿は新しくなって蘇り、人々の気分も一新され、宮大工の技術も伝承されていく。すべてが理にかなっている。





内宮の入り口に架かる宇治橋。五十鈴川は大きすぎず、小さすぎず、実に品のいい流れをした川である。





この川には見覚えがある。大学生の頃、気ままな1人旅で訪れた地だ。あれから幾星霜。境内の風景で記憶に残っているのは、この川の風景と流れだけだ。「ああ、うつくしい川だ」。若き日とまったく同じ思いが蘇えった。未来にではなく、過去に蘇生するということ。不思議な体験をお伊勢さんは授けてくれる。















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聖地日誌 

2013-04-09 | Weblog
インディージョーンズの聖杯日誌よろしく、わたしの聖地日誌にはさまざな資料の挟み込みがあり、現地踏査の順路などの書き込みがいっぱいだ。モレスキンをお手本にしてA4判で革張りの手製本で中味は2百頁はある。ちょっとした辞書みたいでもあるし、秘密めいたハンドブックでもある。聖地と神々に関する、あらゆる資料集となっている。

さて、聖地日誌をぱらぱらとひもとこう。南紀の頁に目が止まった。ここは聖地の宝庫でもある。伊勢神宮、熊野、そして高野山。平安の世から近世の江戸時代を経て、今日に至るまで人々を引き付け、神秘と信仰、祈願、神頼みの地である。伊勢神宮の外宮は衣食住の神を、内宮は天照大御神を祀っている。2013年は20年毎に巡ってくる御宮の建て替えの年でもある。いわゆる式年遷宮である。内宮(皇大神宮)や外宮(豊受大神宮)の2つの正宮の正殿をはじめ、14の別宮の社殿、宝殿外幣殿、鳥居、御垣など65の殿舎、装束、神宝、宇治橋、石段に至るまですべて造り替えをする。神宮の永遠性を保ち、継承するための儀式である。

そして熊野の山中に鎮座するのが熊野那智大社に熊野本宮大社だ。いずれも世界遺産となっている。古の巡礼者が辿った道が熊野古道と呼ばれる山道である。複数の経路があるが、熊野那智大社に至る大門坂はポスターやパンフレットの表紙を飾って有名である。列車も自動車もバスも電気もなかった平安時代、都人たちは京都から約1カ月をかけて聖地を目指してきたという。核心的な理由はただ1つ。熊野の地が蘇りの地であり、極楽往生を祈願する場でもあったからだ。天災、動乱、飢饉、疾病などで無力さと不安が襲いかかる時代にあって、頼りにできるのは神に祈ることしかなかった。信仰の力は瀑布にさえ神を見出すことになり、それゆえに那智の滝そのものが神として崇められることになった。

伊勢、熊野詣での仕上げは高野山である。空海こと弘法大師が真言密教の道場とすべく探し求めた地である。世俗を遠く離れた海抜約1000mの山上に空海は眠っている。伽藍と奥の院をはじめ、117の寺がある宗教都市である。現在、約4000人が暮らし、肉食禁止ゆえに肉屋と魚屋を覗いたあらゆる商店があり、教育機関として高野山大学もある。伝統の味はもちろん精進料理だ。定番は荒野豆腐。じゃなかった。正しくは高野豆腐である。不信心なコンピュータは時としてふざけた変換ミスをする。ご容赦あれ。

聖地日誌の南紀の頁を眺めたのが運の尽きと言うか、縁と言うのか、聖地の巡礼と探訪がここから始まることになった。桜が満開となる一瞬を狙ってタイムスリップではなく、ワープする。開けー、護摩!





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