霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

ブラックベリー

2009-06-27 21:00:22 | 園芸
 昨日、今日とガルテンに行きました。ブラックべりーが熟していましたので収穫して食べてみました。甘く一見ブドウのような感じもしておいしくいただけました。

 ニンジン、ゴボウ、梅、セロリ、アスパラガス、小松菜、グリーンマスタードなど収穫したり間引き菜を採ったり、野菜への水遣りなど結構忙しいのですが、正午の頃は気温31度と暑く熱中症になりそうなので3時半頃までは昼寝と読書の時間にして過ごしています。

 野菜を送るのに送料が高く送料分のお金を送ったほうがいいのではと運送会社の女性社員に冗談で話すのであるが女性社員は送る人の暖かい気持ちや慈愛の心が入っているのでお金には返られませんよといわれます。そうでしょうかね。受け取ってくれる人も野菜の処理に大変でしょうが。

 いずれにしても余るものは他人へ贈る、これが人としての当たり前のことでしょう。人類共存の精神これはいつの時代も変わらぬことです。

藤波畷の合戦

2009-06-27 15:22:58 | 歴史/古文書
 吉良町を観光貸し自転車でサイクリングしていると東条城の登城道を下って行き田園地帯を横切る途中にこの案内板が目に見える。ここは東条城からおおよそ1キロくらいとお城に近いとこにある。

 松平元康に攻められ東条吉良氏はここに籠城して攻撃を守っていたのです。時は永禄4年(1561)の4月から9月にかけてのことでした。

 松平勢に吉良の周囲の砦を攻め取られ9月には東条城を包囲されたのです。家老の富永伴五郎忠正は手勢を連れて打って出ては松平勢を苦しめていたのです。富永忠正の強力と戦上手がそうしたのでしょう。

 あるとき富永忠正は合戦のさなかに独りになりその隙を攻められ討ち死にしました。東条吉良氏の敗北の一因となった合戦でした。

 今は穏やかな田園の中にあり戦の荒々しさは垣間見ることもない状況です。つわものどもの夢の跡です。

東条城あれこれ

2009-06-27 10:22:57 | 歴史/古文書
 築城年月は定かではありませんが足利義氏が三河の守護職となってこの地を支配したときにはこの城はあったのか新たに築城したのかはっきりしません。一説では義氏が築城したとなっています。承久3年(1221)頃にはお城があったのでしょう。

 この城は平山城で茶臼山(291m)とつながって伸びる尾根の先端にあり、今の県道のところが掘り切りとなって東や南面は沼田であった。

 沼田は藤波畷と呼ばれ矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割をして天然の要害でもあった。

 永禄4年(1561)に松平元康(家康)に攻められて落城し、この城には城代松井忠次(ただつぐ)(後の松平康親)が管理していたが、16年後の天正3年(1575)に松井氏は牧野城に転封となり、この城は廃城となりました。

 今は古城公園となっていて、観光客のために整備されています。また展望もよくハイキングにはいいところです。主郭や曲輪がよく残った中世の城の特徴がよく見れて一度は訪ねてみたいところです。