霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

クラインガルテン記54

2008-12-17 09:53:12 | 園芸
 昨日もガルテンに行き、農作業を行いました。特に果樹の堆肥やりのため果樹の根周りに穴を掘って鶏糞と米ぬかを混ぜて施肥しました。柿、梅、ミカン、ナツメ、ポポなど約11本の樹に施しました。

 ツルハシなどで穴掘りですから今日は腰痛です。分かっていても無理をするのですねいい加減にやるのことをマスターしなければと思いました。

 冬場の畑地の深耕による細菌の消毒など畑地の深耕も4畝も行い大変疲れました。

 また果樹もそれぞれ整枝選定をしたりしましたのでこの1週間は結構忙しく過ごしました。これも一つの運動やと思いながら身体に鞭打っているのです。

 家庭菜園用の耕運機がほしいな!!!!。

プレゼント

2008-12-16 09:27:07 | 交流/講演
 12月10日の送別会では皆さんから花束と女性陣からはマフラーを戴きました。マフラーは早速翌日まいていきましたら女性陣が喜んでいました。

 花束は家庭のテーブルに飾って細君の長年の労をいたわっているようでした。皆さんに感謝します。

ハッピーリタイヤ?

2008-12-15 08:57:30 | 交流/講演
 12月10日は忘年会を兼ねて私の送別会も催されました。車えびバイキングといって車えびの活きた物を網ですくってその頭を生きたままちぎって胴体の皮をむいて生で食べるのです。

 一見残酷な食べ方ですが、これが生物・動物としての自然の行為なのです。皆さんがスーパーで完成した食品を買って食べているのですがそれもみんな動物・植物を殺したものを食べているのであった直接手を下していないだけのものです。そういった原点を考える場でした。

 車えび(おどり、塩焼き、フライ)とあわび、さざえ、ふか、いさき、などの活魚船盛、かに、貝柱、や季節の鉢盛、生野菜、フルーツとお酒の飲み放題でした。

 私としてハッピーリタイヤかどうか、今まで毎日時間で拘束されたデスクワークから開放はされのんびりはしますが体が規則正しく動かなくなることが生じて来るのです。いかに規則正しく一定の運動をしながら自分なりの生き方を確立するかこれから思案のしどころです。

 自分としては今までのリズムを保ちながら新しい趣味や勉強をしていきたいと心に決めているのですが・・・・・まず動くことです。無言実行。

周防国分寺金堂

2008-12-14 10:28:46 | 歴史/古文書
 国指定の重要文化財です。この金堂ははじめは聖武天皇の勅願で全国に設置されたものが営々と連なっているのです。創建は天平8年(756)以前ではないかといわれています。境内の敷地や田畑は61町歩余りもあったそうです。

 建立当時は10坊、享保・寛延年間は6坊あったのですが現在は現存していません。

 現在の金堂は安永4年に着手し安永8年に上棟、天明8年ごろに完成したものだそうです。これは平成9年から16年までの解体修理において判明したのです。この解体修理のときも見学してその遺構を確認しました。

 この中には須弥壇があってその周りには数々の仏像が安置されていますが皆重要文化財となっています。解体修理期間の一時期、その仏像展が県立美術館で催行され多くの人が入場しました。私もその一人です。

 古式以来の由緒を伝え創建当時のところに現在もたっている金堂は全国で数少なく貴重なものだそうです。一度散策されてはいかがでしょうか

観光案内板参照

春風楼

2008-12-13 19:35:57 | 歴史/古文書
 この建物は防長藩主毛利斎熙(なりひろ)が社頭に五重塔を建立しようと発起し文政5年6月大専坊において起工式を行い、文政7年2月に資金調達を開始したが天保2年の3万人による大一揆のため建立を断念することになったのではないかと思います。

 その後氏子や世話人、元締めらの発起で明治元年に写真の状態の建物を完成させた.

 この楼の床下の木組みは文政年間着工当時の塔の一層軒下に使用すべき組み物をそのまま床下に組み込んだもので、当時の豪壮な面影がしのばれるところであるとのことです。

 今は二層の建物で一層の階しか登れないです。

以上防府天満宮に関する記事は観光案内板と同天満宮しおりを参照  

防府天満宮3

2008-12-12 18:50:08 | 歴史/古文書
 本宮の前で若い2人が祈願していました。毛利氏時代は毛利隆元が修復を施しています。寛政元年(1789)には毛利重就が造り替えをおこなっている。この年毛利重就は亡くなっている。

 しかし昭和27年3度目の火災にかかりその全てを失ったのです。全国から寄進を募り1億円余りで再建したのが写真にある天満宮です。

防府天満宮2

2008-12-11 18:48:19 | 歴史/古文書
 この回廊と楼門奥には本殿がありますが、鎌倉末期の元徳2年火災にかかり焼失。正平19年(1364)大内弘世が再建に着手。翌20年(1365)に本殿。天授元年に拝殿を再建造営した。

 天授4年(1378)に大内義弘が楼門・回廊を建立し、応永8年(1401)には大内盛見が三重の塔婆と鼓楼を建立寄進しています。しかしこの三重塔と鼓楼は今は存在していません。大永6年(1526)再度火災にあったので享禄3年(1530)大内義隆が再建しています。・・・・大内氏時代の天満宮に関することです。

防府天満宮1

2008-12-10 18:46:51 | 歴史/古文書
 この写真は正面からのものです。この社殿は何度も火災にあっています。建久6年(1195)周防の当時、国司であった俊乗坊重源が東大寺落成の御礼として朱塗りの本殿・回廊・楼門を建立しています。おそらく老朽化していたので再建したのでしょう。

防府天満宮

2008-12-09 19:21:03 | 歴史/古文書
 防府天満宮は日本で最初の天満宮として有名です。日本3大天神というと北野、大宰府、防府をさします。

 この天満宮は菅原道真公が左遷をされ大宰府へ赴任の途中、周防の国司土師信貞を訪ねてて立ち寄られしばらく国司の館で滞留されていました。
 
 道真公は酒垂山に登られこの地が山秀水麗で美しいことを気に入られ、また国司土師氏と同じ同族でもあって大宰府で身は果てようとも魂はこの地に帰りたいとお申しになったと伝えられています。

 国司土師信貞は公の訃報に接し、翌年延喜4年(904)8月にこの松崎の地に社殿を建立し松崎社と称して祀りました。

 これが日本最初の天満宮の始まりです。でもそれは全国に余り知られていないのですよね・・・・???

防府天満宮大専坊

2008-12-08 18:08:45 | 歴史/古文書
防府天満宮境内には、明治維新まで社坊が9坊ありました。

 主な社坊は年中行事や祈祷を管掌した大専坊、造営、営繕を管掌した執行坊である園楽坊これらは草創時の904年から存在していた社坊です。

 この坊は天満宮草創の当時からの社坊です。昔は神仏混交でしたので酒垂山萬福寺といって多くの社坊を持っていたといわれています。大専坊はその別当ということで筆頭の役職を任っていたのです。

 この大専坊は弘治3年(1557)毛利元就と隆元親子が大内義長を攻めてきたときここが元就たちの参謀本部となって大内義長を長府に追いやり自刃させて防長両国を占領した本部として有名です。

 また幕末にはこの地方を警護する諸士の屯所としても使用された歴史が残っています。近代はここで結婚式の披露宴会場として活用されています。もちろん挙式は天満宮にきまっています。