霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大内政弘世という人物

2007-03-29 17:07:34 | 歴史/古文書
 この人は大内義隆のように巷間知られていないが、中世・15世紀の歴史上の人物としては有名な人である。応仁・文明の乱の中心人物でもある。

 京都に約10年も過ごし。応仁の乱では西幕府のリーダーであった。足利幕府の将軍・細川側を官軍といえば山名氏側は賊軍となる。将軍・細川側を東幕府・東軍といえば山名氏側は西幕府・西軍となる。

 いずれにしても幕府が二つに割れて争ったのが応仁の乱の始まりでその西幕府・西軍の中心人物が大内政弘なのである。

 なぜ大内政弘(1446~95)は山名氏に着いたかといえば彼の妻が山名氏の出であるからである。それと瀬戸内海の海上権を守るためにも西幕府・西軍につかなければならなかった理由があったのである。

 応仁の乱は結果として大内政弘らが和睦を入れ賊軍という形になり政弘は山口に帰り中国の一部、防長、北九州の大内家の版図を安堵してもらったのである。

 この人物のすごいところは、当時の世相では総領権が子供同士で争われていて強い子供が親の権力を踏襲するといった争いがあったのである。大内道頓の乱など総領権の争いと東幕府が認めた大内家の総領としての主張でもあったといえよう。 

 また在京10年と永きにわたり京の公家・僧侶(禅僧)・学者とも交流をしていた、そこでの文人振りは和歌や連歌を数多く作り、生涯において幾万首も作ったといわれているのである。「拾塵和歌集」、宗祇に作らせた「新撰筑波集」、雪舟を支援して山口に通算30年ぐらい住まわせ数々の大作(山寺図(伊自良村)、天の橋立図、四季山水図)を作る環境を与えている。武家文人の最たる人であろう。

 弓や槍、武術に長けかつ文学の素養も高くなければ権力者になれないのであろう、それに応える能力を持っていた人物として傑出しているのではないかと思える。