ー大宮司職時代と毛利氏の萩移封ー
文禄元年(1592)7月19日毛利輝元より徳佐八幡宮
大宮司宛直書をもらう。
「このたび御渡海祈念において御久米米並びに巻数(かんじゅ)など頂戴仕り悠々と帰朝できたことは祝着の段で御礼す。」
当時は元就から拝領・輝元から直書受けるとか、いかめしかりしものなりしと隆盛を誇っていた。社家にも軍数千騎から数百騎を率いていたと軍籍を見るにあるが、久守氏は大内氏の配下の前から手勢40~50人の郎党を扶持していたものと思える。
また今世の社家は文盲なるが多ければいつとはなく系図も失せて伝えなければならない家筋や来歴、軍功等、自らもであるがひと他人もそのように心得て思い起こすけれど非常に難しいことである往古の史実の事実はつかみにくいという事であるといえる。
文禄2年8月10日(1593)佐世三左より徳佐神主渡邊兵部に書状をもらう。
殿様後祈念湯立ち入り目の銀子召し渡し、持ってご帰朝こそはいかに一昨日到来し釜
山浦に乗船し由、名護屋を経て広島へ到着す。太閤様御上洛の儀も20日頃に差し延
ばすようである。
8月10日
左世 山左 花押(左世三佐衛門)
徳佐神主渡邊兵部殿
慶長4年(1599)小弾正より小目太夫へ書状をもらう。
小笠原小弾正忠元枝は石見国から慶長5年輝元公広島より萩へ退く時、徳佐へ引越した
る人元枝、徳佐にて死す。元枝の長男志谷長正、椿市左衛門と改名、その末裔椿と名乗
る。
「東分鼓職の儀中絶の間預け使いし候こと、裁判所の要にあり安堵。二百疋(疋は織物2
反又は銭十文)本重ねにして相違あるまじきと後日のため一筆申し候置き。」
慶長12年(1607)佐世長門守より徳佐神主渡邊兵部太夫に書状をもらう。
「当郷八幡領のこと、御祈念等の間3石を仰せ付け候。執行事肝要におおせつくこと油断
無きように」
慶長18年(1613)「徳川秀忠の時代」、渡邊兵部太夫より渡邊兵衛太夫へ送りし書に次ぎのこと記されている。
「我等牢人の節、御方才覚を以って公儀内儀に取り拵えもうされ、そのうえ惣鼓頭役中絶仕り候ところを取り続き申され、則(すぐに)この方へ指し返し給い候、この段過分至極に存じ候、この一礼として東鼓職座進み置くそうらえども、談合の上を以って別当座を永代御方へ進み申す候、後日の為両使にて御意得候ところ件の如し。」
慶長18年(1613)
8月8日 渡 兵部太夫 定 花押
渡邊兵衛太夫殿(配川氏の祖・いにしえ久守といい諏訪とも名乗り兵衛の子から配川に家名を替えた)
裏 久守 市兵衛 花押 ○
同日 板懸 作衛門 花押
惣鼓頭職が渡邊兵部太夫に復した。
※進=さしあげる
※御意得[ぎょういをえ]=そちらの意図を了承し、お考えを聞く、お尋ねする、お会いするなどの意味
☐
防州熊毛郡小松原八幡宮再興申し付け候ところ、遷宮の儀その方無事執行神妙の至りに候、徳佐、船路、河内、地福村の神事の儀も先例に任せ、いよいよ相勤めるべく事肝要候、その為一筆件の如し。
元和7年(1621)9月9日
毛利山城守 花押
鼓頭 渡邊左衛門太夫(久守右衛門太夫の嫡子惣領大三郎のことか、その子か?)殿 軍功を挙げ64年後
※件の如し=~のとおりだ
★
尚々(ねがわくは)其元に於いて御隙(おひまなれば)は萩出で候ハゝ御神田忝(かたじけなく)御付成られ候由、仰せあげられるべく候。
熊もうせしめ候 徳佐御八幡宮並びに徳地船路の御八幡宮御神田知行の為 五石御進納成られ候 打ち渡調進候 御請取り有るべく候 此の間弐下り虫入不十分 向候て御座候 その御分別有るべく候 比の為申し候 恐々謹言
「右田の杉の馬場 石井二郎右衛門」(稿本注)
石 二郎 判
「今は直士野尻左七」(稿本注)
野 佐七 判
隙=ひま
渡邊 左衛門太夫殿
元和8年6月3日
☐ 印は柚木八幡宮の古文書にも同じものがある。
★ 印は柚木八幡宮の古文書から引用
元和8年(1622)に代替りし徳佐大宮司渡邊神吉に成っている
左衛門太夫事後に和泉と改名仕り候由に相聞き申し候
文禄元年(1592)7月19日毛利輝元より徳佐八幡宮
大宮司宛直書をもらう。
「このたび御渡海祈念において御久米米並びに巻数(かんじゅ)など頂戴仕り悠々と帰朝できたことは祝着の段で御礼す。」
当時は元就から拝領・輝元から直書受けるとか、いかめしかりしものなりしと隆盛を誇っていた。社家にも軍数千騎から数百騎を率いていたと軍籍を見るにあるが、久守氏は大内氏の配下の前から手勢40~50人の郎党を扶持していたものと思える。
また今世の社家は文盲なるが多ければいつとはなく系図も失せて伝えなければならない家筋や来歴、軍功等、自らもであるがひと他人もそのように心得て思い起こすけれど非常に難しいことである往古の史実の事実はつかみにくいという事であるといえる。
文禄2年8月10日(1593)佐世三左より徳佐神主渡邊兵部に書状をもらう。
殿様後祈念湯立ち入り目の銀子召し渡し、持ってご帰朝こそはいかに一昨日到来し釜
山浦に乗船し由、名護屋を経て広島へ到着す。太閤様御上洛の儀も20日頃に差し延
ばすようである。
8月10日
左世 山左 花押(左世三佐衛門)
徳佐神主渡邊兵部殿
慶長4年(1599)小弾正より小目太夫へ書状をもらう。
小笠原小弾正忠元枝は石見国から慶長5年輝元公広島より萩へ退く時、徳佐へ引越した
る人元枝、徳佐にて死す。元枝の長男志谷長正、椿市左衛門と改名、その末裔椿と名乗
る。
「東分鼓職の儀中絶の間預け使いし候こと、裁判所の要にあり安堵。二百疋(疋は織物2
反又は銭十文)本重ねにして相違あるまじきと後日のため一筆申し候置き。」
慶長12年(1607)佐世長門守より徳佐神主渡邊兵部太夫に書状をもらう。
「当郷八幡領のこと、御祈念等の間3石を仰せ付け候。執行事肝要におおせつくこと油断
無きように」
慶長18年(1613)「徳川秀忠の時代」、渡邊兵部太夫より渡邊兵衛太夫へ送りし書に次ぎのこと記されている。
「我等牢人の節、御方才覚を以って公儀内儀に取り拵えもうされ、そのうえ惣鼓頭役中絶仕り候ところを取り続き申され、則(すぐに)この方へ指し返し給い候、この段過分至極に存じ候、この一礼として東鼓職座進み置くそうらえども、談合の上を以って別当座を永代御方へ進み申す候、後日の為両使にて御意得候ところ件の如し。」
慶長18年(1613)
8月8日 渡 兵部太夫 定 花押
渡邊兵衛太夫殿(配川氏の祖・いにしえ久守といい諏訪とも名乗り兵衛の子から配川に家名を替えた)
裏 久守 市兵衛 花押 ○
同日 板懸 作衛門 花押
惣鼓頭職が渡邊兵部太夫に復した。
※進=さしあげる
※御意得[ぎょういをえ]=そちらの意図を了承し、お考えを聞く、お尋ねする、お会いするなどの意味
☐
防州熊毛郡小松原八幡宮再興申し付け候ところ、遷宮の儀その方無事執行神妙の至りに候、徳佐、船路、河内、地福村の神事の儀も先例に任せ、いよいよ相勤めるべく事肝要候、その為一筆件の如し。
元和7年(1621)9月9日
毛利山城守 花押
鼓頭 渡邊左衛門太夫(久守右衛門太夫の嫡子惣領大三郎のことか、その子か?)殿 軍功を挙げ64年後
※件の如し=~のとおりだ
★
尚々(ねがわくは)其元に於いて御隙(おひまなれば)は萩出で候ハゝ御神田忝(かたじけなく)御付成られ候由、仰せあげられるべく候。
熊もうせしめ候 徳佐御八幡宮並びに徳地船路の御八幡宮御神田知行の為 五石御進納成られ候 打ち渡調進候 御請取り有るべく候 此の間弐下り虫入不十分 向候て御座候 その御分別有るべく候 比の為申し候 恐々謹言
「右田の杉の馬場 石井二郎右衛門」(稿本注)
石 二郎 判
「今は直士野尻左七」(稿本注)
野 佐七 判
隙=ひま
渡邊 左衛門太夫殿
元和8年6月3日
☐ 印は柚木八幡宮の古文書にも同じものがある。
★ 印は柚木八幡宮の古文書から引用
元和8年(1622)に代替りし徳佐大宮司渡邊神吉に成っている
左衛門太夫事後に和泉と改名仕り候由に相聞き申し候
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