霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

天保の倹約令の思う

2008-10-27 20:03:28 | 歴史/古文書
 最近の世界恐慌的な株式市場の動きや金融市場の混乱など国際経済の動きを見ていると天保の大飢饉時代を思い出してみたくなりました。

 先人たちはどのように克服してきたのかまた辛抱してきたのかを探ってみました。

 今をさかのぼること166年前、天保13年いまだ借銀が増えればすれど減らない萩藩財政にたいし萩藩は倹約令を出して緊縮財政を断行したのです。

 一般的には4つ成りといわれて4公6民の配分だと思うのですが、実際には当時の農民は米作1反歩あたり籾殻率0.55の割で出来米を算出しその99.9パーセントを「物成4つ(正租)と付加税や郡村費」で占め租税として収めていたのです。

 農民は米作では食べていけず。裏作として麦を作りわずかばかりの畑で野菜を作り飢えをしのいでいたものと云われている。

 しかし徳佐村史では「物成=4つ成+口米+石貫+延米+種子利米+作飯利米+浮役銀+門役銀+ご馳走米+郡配当米+勘場小貫+地下小貫」と多くの税を負担しているのが分かります。

 貞亨3年(1686)の検地では公5.5民4.5に当たり、小村では公6民4を上回る公の負担があったといわれているが、天保時代は前述のように多くの租税があってそれらをさらに上回る租税負担があったといえよう。

 天保11年(1840)萩藩の仕組み(財政のしくみ)が組直しされ、天保12年には「蔭切り」の沙汰が出て田畑に蔭を作る樹木は神社の樹木であっても南5間・東西3間の間は伐採されて作物の生育に妨げないよう沙汰を出している。

 ついに天保13年(1842)にはお上より倹約の沙汰ありて絹布一切、婦人の髪かざり、簪(さん)、櫛、かんざし、水牛、真鍮、鉄等まで使用差し止めとなる。当然藩主一族に対しても倹約をすることが求められたとは思います。下々の農民たちに対して厳しいことを求めるうえは藩主一族も当然厳しい生活が求められなければならないと思うにですが??どうでしょうか。

 家臣が藩主に対して倹約をせよと言えないですよね。・・・・・それがこの時代いえたのです。すごいですね、藩主一族に対する年間予算を半減にしたのです思い切った削減策を採ったものです。藩主一族たちもよくも我慢をしたものですね。

 しかし下々の農民たちはもっと厳しく、こうした天保時代に大一揆がおこるのもうなずけます。しかし萩藩は「御借銀八万貫余の大敵」と言われながら、借銀帳消しや借銀踏み倒し、延べ払い(37年払いなど)、金利減免などの策を用いて借銀6万貫余に減らしたのです。

 いずれにしても藩士や農民を犠牲にして藩財政を立て直し幕末の戊辰戦争に備えることができる礎となったわけです農民の辛苦の賜物であったことが良く分かります。農民は我慢強いですね。幕末維新は農民の我慢が石礎となっているといっても過言ではないでしょう。

 現在でも一般国民の人々が低い預金金利に我慢しながら金融システムを支えていることとあまり変わりはないのですね????

カンナ

2008-10-27 19:33:49 | 園芸
 日曜日(10月5日)は農園に行きジャガイモの種を植え付けたり、ごぼうの種を補充したりして過ごしました。

その後雨が降り出しましたのでご飯を炭で炊いたり、栗を炭で焼いて焼き栗を作ったり、読書して昼寝をしたり、ゆったりと過ごしました。

 このカンナの花はお隣さんからもらった球根を植えたものです。こんなに綺麗に花を咲かせてくれました。

 嬉しい一日でした。