カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

「中心主義」いろいろ

2014年07月31日 15時25分36秒 | 笑い

島倉千代子(1938-2013)は1987年の「人生いろいろ」で

人生いろいろ ♪
男もいろいろ ♪

と歌いました。「おちよ」さんの世界でしたね。

そういえば今の相撲界に「千代~」というのが多すぎると思いませんか。相撲部屋のことを詳しく理解しておりませんが、いろいろあったものの、千代の富士〔現在の九重親方〕の元で育った力士につけられた名前が{千代~」なのでしょう。 

じんせい~いろいろ~ ♬
せきとり~いろいろ~ ♬

千代鳳 (ちよおおとり)  東前頭五枚目
千代大龍(ちよたいりゅう) 東前頭八枚目
千代丸 (ちよまる)    西前頭十六枚目
千代皇 (ちよおう) 西十両七枚目
千代の国(ちよのくに) 西十両十一枚目

:2014年07月31日相撲協会

 

千代丸と千代鳳は兄弟らしい。私は先日見た取り組みで、はたかれても、はたかれても、前へ落ちなかった弟の千代鳳を、勝手にひいきにしております(笑)。

そういえば過去の人になりますが、とはいえ健在の人が多いのですが、千代の山・千代の富士・千代大海・千代天山などが思い出されます。


さて今回は

ちゅうしん いろいろ ♪

といきましょうか(笑)。 

みんな好き勝手に、いろいろ主張しておりますが

聞いてみると、

いずれも自国中心・自民族中心

ただしこれらのすべてが悪いというわけでもありません。それはそれでいいのですが、

他の人たちも自分と同じ、自国中心・自民族中心

ではないか、と考える余裕があれば、少し違った展開になろうかと思うのです。

 

ロシアの「ロシア中心思想」や、アメリカの「アメリカ中心思想」に比べて、中国の指導者たちはさらに「中華思想」に色濃く染まっているため、よりいっそう「自閉症的」だ。理由は単純で、なによりもまず中国の国内問題は、他国のそれよりも規模が大きく、非常に不安定だからだ。中国では毎日国内のどこかで最高指導者の決断を必要とする緊急事態が発生している。

それは地震、洪水、民族間抗争による暴動、食料価格の突然の高騰のような急激な経済情勢の変化、そして国内政治(実際のものか想像上のものかは別として)における脅威の発生などだ。

多くの証拠から明らかなのは、中国共産党の指導者たちは政治上の脅威の重大さを、一つの非常に慎重なやり方で判断しているということだ。つまり、彼らは上がってくる報告を、「体制の安定にとって取るに足らない脅威を、どれだけ大げさに表現しているか」という点や、「それが国内の脅威を誇張する、地方の(省)という巨大な政治組織によって発せられたものなのかどうか」という点で判断するのだ。

いずれにせよ、中国共産党のトップはこうした脅威に簡単に関心を奪われてしまうし、さらには彼ら自身が過剰に抑圧した結果として引き起こされる、その後の連鎖的な反応にも対応せざるをえなくなつてしまうのだ。

例えば、2011年の春には、ソーシャルメディアによって引き起こされた北アフリカの反政府運動(チュニジアのジャスミン革命)にならつて、中国でもほんのわずかにデモの呼びかけが行われたが、結果としてこれは大きな社会的混乱を引き起こすことになつた。

この運動は、実際にはわずかなソーシャルメディア上のやり取りの範囲を超えなかったにもかかわらず、中国中心部の重要な地域、特に北京の繁華街である王府井の周辺に、物々しい様子の圧倒的な数の機動隊が、実際には発生していないデモに立ち向かうために現れたのだ。その結果として、その当時にこの周辺にいた何も知らない通行人や旅行中の中国人の家族たちが強制退去させられてしまっている。

また、実際にはデモが確認されなかったにもかかわらず、中国の至る所で著名な人権活動家、法治主義の推進運動家、自由貿易主義の運動を組織する可能性のある人々、そして政治の自由化を求める人々など、いつもの「怪しい人物」たちが次々と逮捕されていったのだ。

この結果、今度はこうした「怪しい人物」を(いつもは失敗するのだが)守ろうとして法律家たちが本格的に行動を起こすことになり、権力側もこれに対抗してこの法律家の多くを逮捕している。さらに加えて、トラブルの発生を防ぐためにありとあらゆる人々にたいして厳しい警告が発せられることになった。:エドワード・ルトワック「自滅する中国」奥山真司(翻訳)芙蓉書房2013年11月15日第4刷発行


アメリカもかつては重度の自閉症だったし

今でもロシアは深刻な自閉症に陥っていますが、現在中国の自閉症ほどひどくはなさそう。まぁどっこいどっこいとも言えますが・・・・

でもロシアのほうがひどいではないかという意見も見られます。一面ではそう言えますが、中国の場合は、「開かれた風を装っているだけで、実は中国共産党の利益のみを考える集団を中心とする独善的な組織の集合体」であるという特色があり、より敵をあざむき易いのでした。

かたち程度に欧米風の法体系を導入しているように思われますが、それはとんでもない外国人の勘違いで、最上位に位置するのは法律ではなく、中国共産党。

この中国共産党の支配下にあるのが裁判所であり、政府であり、地方の行政府。ですから外国がいくら中国の憲法やら法律を研究しても、中国共産党の機能を解明しなければ、ほとんど意味がないと言えます。・・・・まぁ解明する価値があるかどうか分りませんが(笑)。

交代すべき政党が存在しない中国ですから、中国共産党が崩壊すれば、党が建国した中華人民共和国も自然に崩壊。

まずは何よりも、中国共産党の体制にとって利益となるかどうかが最優先の判断基準たるゆえんです。見せかけに過ぎない法律は、最優先基準とはなり得ないのです。これが法体系による民主国家と大きく異なるところ。

民衆の福祉のために、などは、中国ではたわごと。共産党幹部にとって、弾圧体制を維持できるかどうか、これしか念頭にありません。

これが人の話を聞かない独善体質の根源となっております。


とにかく、知識人を逮捕・拘束するという伝統は

毛沢東の頃から一層顕著になっていて、ひとはこれを簡単に「言論の自由がない」といいますが、実際はもっともっとひどい、政府による陰湿な差別行為です。

セクハラ・パワハワなども立派な犯罪だと思いますが、中国では、そんなのは当たり前で、むしろ、それ以前のレベルが低い「生き方に対する差別」が横行しているのでした。公務員であるはずの人たちは中国共産党の支配下にあります。つまり国ではなく共産党の意向に沿わねばなりません。

昨今の日本では、

中国上海にある福喜食品の不衛生な不法行為や、党幹部だった周永康に関する報道が相次いでいます。

一部の人たちは、「中国にも自浄作用が働いた」と好意的に見ていますが、私は、これはとんでもない勘違いだと思っています。

一番あり得ることは、これら企業や人物が、中国共産党の主流派と対立する非主流派に関連していた、ことでしょう。

周永康〔しゅうえいこう〕に関しては、かつて元重慶市党委書記だった薄熙来〔はくきらい:胡錦涛時代の2011年に全公職から追放された〕と共に国家転覆を企てた、という疑惑があることからも、これがわかります。

中国共産党としては

談合癒着でもって維持された組織運営でしたが、党内部の不正を減らさねば持ちこたえられなくなったという「つらい時代」?を迎えました。

しかしあくまでも主流派の基盤を危うくする非主流派重要人物の摘発が目的でしょう。ないよりましとも言えますが、こういう裏舞台を知っておかねば、とんでもない判断を下しそうです。

主流派では許される行為であっても

非主流派の場合、いきなり「国家転覆罪」「クーデター疑惑」「蓄財容疑」「脱税」などの濡れ衣が待っています。

そして恣意的に摘発するこういった共産党主流派の横暴を誰も止めることができないのでした。裁判所などは飾り程度に過ぎず、弁護士なども、何かあればすぐに資格を剥奪されるもので、これと戦い続けなければなりません(笑)。

 

今日の米国に「同盟」とは道徳や価値のような情緒ではなく国益だ。「失望」という声明に喜んで米国が安倍首相の日本を嫌うことを望んだが、その米国防長官が長い間の悩みだった普天間基地の移転問題が解決されるやいなや「強い日米同盟」に言及した理由だ。私たちが重視する韓米同盟も米国の国益の中にある時が安全地帯だ。米国の財政赤字は11月基準で1352億ドル、韓国ウォンで142兆ウォンを超える。米国はこの赤字を埋めるためなら何でもする態勢だ。米国中心主義時代を脅かす中国に対抗しなければならない米国は、依然として安倍首相の日本を必要とするしかない。米国の本音を直視しなければならないのはそのためだ。: パク・スンヒ・ワシントン総局長  2013年12月31日14時07分 [韓国中央日報日本語版] 

こちら韓国紙では、韓国世論に配慮してか隣国の中国中心主義には触れることなくず、ひたすら「米国中心主義を脅かす中国」ととらえ、米国が対抗手段を取っているとします。

中国になびいている韓国の読者からすれば、わかりやすい筋道ですが、やはり中国に甘すぎる論調と言え、その甘さが「甘さ」ではなく「自然なとらえ方」とするのが、韓国特有、あるいは中央日報特有の見方なのでしょう。


もちろん私たち日本人は「日本中心主義」に立ち向かわねばなりません。 

戦時下の最終段階の教育を受けて、国民学校を卒業した私は、日本中心主義的な思想のあり方を見届けたいと思っていたために、日本思想の文献に否定的な眼差しを向けるのが癖になっていた。『愚管抄』を読み、現代語訳の仕事を終えた時も、その根底に流れているものが、天台座主慈円の拠り所である仏教思想などではなく、普遍的な世界としての中国に対して、日本の特殊性に固執しようとするものであり、それが『日本書紀』の神話に通底することを確認し得たと考え、この古典もやはりそうなのかと思った。
:大隈和雄「愚管抄を読む」講談社学術文庫 学術文庫版まえがきより 

 

大切なのは、「日本中心主義」を全面的に否定する立場ではなく、自分の考え方が日本中心主義」ではないかどうか、そしてそれは、他の国の「~中心主義」と比べてどうなのか、を考えること。

日本の薄っぺらい左翼主義者のように「日本を否定することから始める」のではなく、日本の薄汚い右翼主義者のように「日本が世界最高である前提で物事を考える」のでもなく、堂々と世界全体を見渡したいものです。

慈円〔平安末期~鎌倉初期〕が中国におぼれることがなかったのは立派ですが、その著書「愚管抄」がやや日本中心主義に陥っていると思われのは、時代を考えるとやむを得ないところで、それ以上に明晰な頭脳を感じさせる人の一人です。

最後に、その「明晰さ」を示していると私が思っている一節をご紹介します。

  

謹慎中の定家が慈円に2首送り、慈円が2首返した歌

  • 「くだりはつる 世の行く末はならい也 のぼらば峰に月もすみなん」
  • 「はててまた はじまる世とや照らすらん さらばたのもし秋の夜の月(秋の夜の月は、いったん終わってしまって、また新たに始まる世を照らすのであろうか、それなら頼もしく思われる)」 。

慈円のこの2首は、史書愚管抄の歴史観、世界観を実に簡潔に言い切っている点で注目すべきものである。:P.129 堀田善衛「定家明月記私抄(続編)」新潮社 

 

行き詰まった平安貴族政治の末期は、武士という名のヤクザが横行した混乱の時代でしたから、不安をかかえた庶民のなかでも末法思想がはやったのは、当然でしょう。

僧籍にあった慈円でさえ、その政治の仕組みの限界を感じていたに違いありません。それゆえ新しい鎌倉幕府にいささか期待するところがあったはずでしたが、その鋭い目は新幕府の限界さえ感じ取ったらしく、そのうんざり感をみごとな歌として残しました。

さらば頼もし、秋の夜の月

とは、決して風流な花鳥風月の世界ではなく、現実の世界をぐさりと切り取った一首だと思いました。 


それこそ、頼もしい「中心主義」を構築したいものです(笑)。

 

 



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