カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

中国に関する醜聞 398 内藤湖南の100年前の中国観

2018年09月09日 10時47分50秒 | アジア

ここでは「中国の醜聞」を集め、必要に応じて出典やリンクも用意しましたが、そんなに頻繁にリンクを確認できませんので、もしも「既にリンク切れ」となっていたらご容赦ください。


いつから清朝の皇帝なのか諸説がありますが、一説では 

  1. 太祖 1616年 - 1626年 天命 (後金)
  2. 太宗 1627年 - 1643年 天聡(てんそう)崇徳(すうとく)
  3. 世祖 1644年 - 1661年 順治(じゅんち)
  4. 聖祖 1662年 - 1722年 康熙(こうき)史上最長の元号
  5. 世宗 1723年 - 1735年 雍正(ようせい)
  6. 高宗 1736年 - 1795年 乾隆(けんりゅう)
  7. 仁宗 1796年 - 1820年 嘉慶(かけい)
  8. 宣宗 1821年 - 1850年 道光(どうこう)
  9. 文宗 1851年 - 1861年 咸豊(かんぽう)
  10. 穆宗 1862年 - 1874年 同治(どうち)
  11. 徳宗 1875年 - 1908年 光緒(こうしょ、こうちょ)

また内藤湖南(ないとう こなん 1866-1934)

  • そもそも清国皇帝は、満洲という未開拓地からでて、北京ほかを占領しましたが、いつのまにか中国流の豪奢な生活に呑み込まれることが多かった歴代の占領国家とは違い、この罠に陥ることなく清楚な生活をおくった
  • このため康熙~雍正~乾隆のころ、特に財政が豊かだった
  • 乾隆帝のころは外敵を成敗してなおかつ兵士の給料を上げてもびくともしなかった

と言っております。ただし100年も前のことですから、かなり変わってきております。  


統轄の実力 

もっとも支那という国は異種族の領土を統一するについては、どの時代においても極めて寛大な取り扱いをしたものである。ヨーロッパなどの諸国が植民地をもって、そうしてそこの各種族を統轄するのに、自分の本国の利益、すなわち詳しく言えば、本国の経済上の発展などを目的とするとは違って、支那人は異種族の土地を包括してその版図(はんと)とするについては、さらに経済上の利益ということを考えない。いずれ不利益ということを初めから覚悟してやっておる。 

それで外国から種々貢物(こうぶつ)を持って来ると、必ずそれより以上の賞賜と称して返礼のものをやるというような例になっておる。蒙古人でもあるいはその他の人種でも、自分の独立という多少の名誉心を捨てて、そうして支那の封爵(ほうしゃく)を受け、永くこれに服属しておったというのは、皆この経済上の利益から割り出されておるのであって、支那は宗主国としては他の国に見難いほど寛大なる国である。 

それで今日以後西蔵(チベット)がイギリスに支配され、それから蒙古がロシアに追い追い支配されるようになって来ても、それらの国が果して従来の支那くらいに優待をし、永く続き得るかどうかということは疑問であって、あるいはその土地に産業上の利益があるとでもいうことになれば、その土着人にして勢力のある者をば優待して、その土地から利益を収めるということで埋め合わせをしてやることが出来るかも知れぬが、あまりその土地に利益があるというのでもない処においては、昔の支那くらい寛大、むしろ放漫に近い寛大であって、少しも干渉がましいことをしない政策を続けるということは、よほどむずかしいかも知れぬ。:P.67  内藤湖南(ないとう こなん 1866-1934)「支那論」文藝春秋2013年11月25日第2刷発行 


内藤湖南から100年経過した今の中国は、大きく変わりました。

  • 大陸棚に資源が眠っていることがわかると、突然尖閣諸島の領有権を主張しはじめたり
  • 周辺国の反対を押し切って南沙諸島の埋立てをして軍事拠点化したり
  • 年間10万件以上の暴動などを武力鎮圧するのに「共産党政府に異論をもつ者はテロリストだ」と都合よく豪語したり
  • 誰のおかげで世界の工場になり得たかを理解できないまま、強引に世界を支配しようとする
  • 異論を暴力で禁止し、国民を弾圧している

という姿勢なのです。 

いま思うに、内藤湖南の視点にもやや疑問がみられ 

いわば長い目で見た世界戦略は、目前の経済的損失を度外視するだけでした。この点に関して内藤湖南は、時代に合わなくなり大きくずれてしまっています。 


国の初期にはいつでも経済の余裕を生ずるものであるから、漢でも文・景両帝の後、唐でも高宗の頃などに域外征伐をやったのであるが、唐が域外発展のためにどれだけ国力の疲弊を来したかという証拠は、却って漢ほど明瞭に分らない。しかしウイグル族などを兵士として連れて来て、それを利用した結果というものは、随分それらの者が驕慢(きょうまん)なのに苦しんで、あるいは結婚政略を以て慰撫したり、あるいは遥かに吐蕃(とばん:古代チベット)の邏娑(ラサ)へ使者をやったりして、異種族との融和を図っておったのである。:P.69-70 内藤湖南(ないとう こなん 1866-1934)「支那論」文藝春秋2013年11月25日第2刷発行 


今の中国しか知らないと

領土野心は中国特有のものとしか思えませんが、かつての歴史を考えると、今の中国のうぬぼれは、中国を侵略しようとした匈奴などの民族から来ているようで、上には上があるものですね。

ただし漢族にも責任があり、重大な欠陥があったからこそ外敵の侵略を招いたとも考えられ、これは現在中国を理解する上でも重要なことです。

さてさて、皆様はどう思われますか。


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