カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

イランで暗殺

2020年11月28日 17時01分44秒 | 海外

まだ犯行声明は出されていませんが

イランでは、イスラエルの犯行だとみているようです。


CIA元長官、「犯罪」と非難 イラン核科学者暗殺:時事 2020年11月28日09時21分


イランの有力な核科学者が死亡、暗殺か 国営メディア:cnn 2020.11.28  09:45


イランで核科学者暗殺 イスラエル関与か、報復示唆:時事 2020年11月28日10時14分


イラン有数の核科学者、テヘラン近郊で殺害 外相は「国家によるテロ」と非難:bbc 2020/11/28 


イラン人の暗殺は

      • 2020/01/03 イラクのバグダッドでイランの司令官が米トランプの命令で米軍無人攻撃機の攻撃で死亡。
      • 2020/11/27 イランの首都テヘランでイランのファクリザデが死亡。 

昨日の暗殺はトランプを非難してきた元オバマ政権時代のCIA長官ブレナンが、昨日の犯行は「こうした国家によるテロ行為は国際法に著しく反する」とし、イランに対し「信頼できる米国の指導者が国際舞台に復帰するまで」報復を思いとどまるよう言ったといいます。

我が家の古代遺跡から「暗殺」を検索してみました。


ローマ時代、BC49年元老院はシーザーに対して最後通牒をつきつけたが、シーザーはルビコン川を渡った。ガリアとイタリアの境のルビコン川をわたれば、軍指揮権をすてねばならないのに。つまりシーザーはローマの法を破った。・・・・

シーザーはポンペイウス一派を破り、敗軍の将ポンペイウスを追ってエジプトにきたシーザーを待ち受けていたのは、教養豊かな政治家クレオパトラ(この時21歳)で、その魅力にとりつかれた。・・・・

その後暗殺者に狙われていたが、BC44年3月15日、シーザーは元老院の議場で、最も信頼していたブルートゥスにより暗殺される。:P.234 大世界史2 古典古代の市民たち 文芸春秋  


藤原種継暗殺事件

(長岡京への)遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず捕縛され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。

その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。:Wikipedia

奈良から遷都を望んでいた桓武天皇は、藤原種継に任せたらしいのですが、長岡遷都間もなく785/09/23に藤原種継は矢を射られ、翌日死去。その後794年に京都へ遷都したことは知られています。


そして5月15日の犬養の暗殺である。時に、石原莞爾43歳、祖父を暗殺された道子は11歳だった。・・・・

その祖父を殺したのは、誰なのか。道子は「花々と星々と」の続編の「ある歴史の娘」(中公文庫)にズバリと書く。

「祖父、犬養木堂暗殺の重要要素をなした満州問題は、その発生から満州国建国までの筋書き一切を極端にして言うなら、たった一人の右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。『満州問題解決のために犬養がよこす使者はぶった斬ってやる!』と叫んだあの石原莞爾その人である。」:P.11 佐高信「石原莞爾 その虚飾」講談社

なお実際に犬飼毅を暗殺(1932/05/15)したのは軍の若い人であり、石原莞爾(1889-1949肺炎などで死去)ではありませんでした。


1975年3月25日サウジアラビアでファイサル国王が突如として凶弾に倒れられたのは、私個人だけでなく、サウジアラビアにとって、さらにアラブ世界全体にとって、この上ない損失であった。国王に向けて銃弾を発射したのが、サウジアラビア王室の一員だっただけに、国王暗殺はサウジアラビア王室にとどまらず、アラブ全体にいやしがたい傷跡を残した。・・・・

国王は、いかなる状況のもとでも私に多大の支援を与えてくれた。エジプト、サウジアラビア両国の福祉と、アラブの勝利を目指す戦いで、もっとも偉大な盟友であった。:P.72 サダト「回想録」読売新聞社

この著者サダト(ナセルのあとのエジプト大統領)暗殺(1981/10/06)されました。

このほかでも、サウジアラビア(カショギ事件など)やエジプト(ジュリオ・レジーニなど)では、暗殺が決して珍しくなかったようです。


さてさて、皆様はどう思われますか。


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