カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

怨霊(おんりょう)

2016年07月26日 09時05分03秒 | 社会

夏向き?の

こわ~い「怨霊(おんりょう)」のお噂をば一席聴いていただき、「おあと」と交代させていただきます。←どこかで聴いたようなセリフ 

とはいえ現代の「怨霊」には、昔のような怖さは、見られません。

しかし日本でも、昔

  • 権力に振り回されないために政敵を滅ぼさねばならなかったようです。やられる前にやる、という、まるで現在の「アメリカ銃社会」のようです。
  • 上では、「滅ぼす」という無難な言葉を使いましたが、当時の人々は、感情のもつれが大きく対立した場合、不法な手段を用いて身を守り、それでもって出世したのでしょう。
  • いわば、自分の身を守るために銃を携帯するのですが、それが銃乱射事件を誘発している、ようなものです。
  • その不条理な恨みを描いた話なら、講談や落語にたくさん残っております。
  • 考えてみると、5花街の近くとは言わず、街中に「寺」がある京都。男性もたしかに不可解な運命を強いられたことでしょうが、「駆け込み寺」の意味もあり華やかな所作振る舞いの裏でどれだけ多くの女性が理不尽な仕打ちを受けたか分らない、という面からも京都の寺を理解できそうですね。
  • 寺院などには、増え続ける皇族や為政者たちの落胤(らくいん:おとしだね)を受け入れる役割もあったでしょうが、それさえほんの一部であり、多くは悲惨な運命をたどったであろうことは、想像に難くないところです。
  • 怨霊を鎮めようとしたので一番有名なのが、菅原道真を神として祀った北野天満宮ですね。天変地異・自然災害が続発すると、これは「無実のまま左遷され没した人の怨霊のしわざにちがいない」とされたのでしょう。


今谷: 井沢説に乗っかりますと、特に平安時代には、350年間、死刑制度がなかった怨霊を恐れるあまり、どんな重罪人でも、殺さずに島流しにした。それが公家社会に定着したわけです。保元の乱(1156年)後、武家が登場してから死刑は復活しますが、公家の社会では人を殺してはいかんということになっていた。室町・江戸時代でも人を殺した公家は勅勘(ちょっかん)、つまり御所の出入り差止めということで……こういう観念は朝廷公家社会、つまり京都にずっとあったと思います。

半藤: 古代天皇の時、やたらに殺し合って怨霊が跋扈(ばっこ)いたしまして。

井沢: そうです。跋扈ですね(笑)。

半藤: これを非常に恐れ、平安時代に怨霊説が日本人の中に定着した。

:P.55-57 井沢元彦「激論 歴史の嘘と真実」祥伝社黄金文庫(対談集) 


日本でも古代など

権力争いゆえでしょうか、親子・兄弟などの肉親同士に限らずおぞましい殺りくが無数に見られました。そういう記録が残っているだけでもすごいことで、国によっては、武力で政権を奪うと、前政権のほとんど全ての関係者が斬殺され、文物が破壊され、書類も焼却されたようです。よって残っている歴史著述の多くは、勝者に都合のいいものでした。

それを嫌った一時期、日本の貴族社会ではしばらく死刑がみられなかったのでしょう。これは、いいも悪いも、「怨霊」を恐れたものと思われます。

怨霊思想 末法思想 


歴史家の間では、長岡京を捨てて平安遷都を敢行したのは怨霊によるものだといわれているが、私はまさにそのとおりだと思う。

長岡京は正式には延暦三年(784)に造営されたが、事件は翌四年(785)9月に起こった。長岡京造営の中心的人物藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたのである。

記録によって若干の違いがあるものの、事件のあらましはこうだ。

桓武天皇が平城京に出向いていた留守のある夜、種継が松明を持って長岡京を見回っていたところ、何者かによって弓矢で射殺されたのである。

当然、しかけたのは、長岡京造営に反対する大伴家を中核とした反藤原勢力であった。ところが、この謀略に、桓武天皇の弟(正確にいうと、桓武天皇の同母弟)の早良(さわら)親王が加わっていたということになり、桓武天皇は早良親王を廃太子し、長岡京の乙訓(おとくにでら)寺に幽閉したが、早良親王は無実を訴え、淡路に流される途中、自ら食を絶って死んでしまった。

実はその直後に桓武天皇の周辺の要人が次から次へと亡くなっていき、占ってもらったところ、それは早良親王の怨霊の崇(たた)りだということになり、結局桓武天皇は長岡京を捨てて、平安遷都に踏み切ったといわれている。

この怨霊説は、今の時点で考えれば不思議にも思えるが、怨霊は当時の時代状況では絶対的なものとして受け止められたに違いない。

もちろん真相は詳(つまび)らかではないが、桓武天皇の生い立ちとその生き方に迫る中で見えてくるものから長岡京の謎に迫るのがいちばんだと思う。: P.99-106 谷川彰秀「京都奈良『駅名』の謎」祥伝社黄金ブック


定説に至っているのかどうか分りませんが

  • 短い長岡京時代から平安遷都をさせたのが、怨霊だったとしています。
  • 一見はなやかにみえる平安時代ですが、その仕組みの矛盾が徐々にみられ、「末法思想」に集約されていったのでしょうか。
  • これは、権力志向のおぞましい貴族社会から武力でものごとを解決しようとする無慈悲(どこかの国がよく使いますね)な武家社会への過渡期に見られた「無常観」が支配したからと思われます。

当時としては怨霊思想」が、殺りくを思いとどまらせる一定のブレーキの役割を果たしていたのかも知れません。

とにかく当時の「怨霊」は、「思想」だったのでしょう。

それは、迷信の裏に潜む数々の虚偽・腐敗が暴(あば)かれてきたことを知る現代人には、想像できないほどです。

こうなったのも、為政者が恣意的に禁止できない、一定の「言論の自由」が保証されたからだった、と考えていいのです。


怨霊といえば

崇徳院を避けて通ることはできません。当時の与野党へ顔がきいた出家後の西行が、そこで出てきます。いわば、混乱の時代だったゆえに、この人の活動も認められていた、と言えます。

西行は、23歳の時、突然鳥羽院に願い出て、出家。世を捨てます。その時の心のうちをよんだ歌です。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 
身を捨ててこそ 身をも助けめ(西行)

私がこの世に執着したところで、世の中のほうは私などを惜しむことはないだろう。だからこそ私は身を捨てることで、執着で苦しむ自分を救ってやるのだ。・・・・・・

紀伊半島の山々を巡り、修験道にも会い、衣食住も構わず、宗教者として研鑽を積みました。エリート武士の地位を捨てた西行は、一歩引いた目でこの戦乱の世をみつめていきました。・・・・・・

待賢門院は、西行の仕えた鳥羽院の妃でしたが、院は別の女性を寵愛。待賢門院は、やがて出家します。・・・・・・

不遇に落ちた人の中で西行がもっともきにかけていたのが和歌に造詣がふかかった崇徳院です。崇徳院は、鳥羽院と待賢門院の子。しかし父鳥羽院からはうとまれ、弟後白河天皇が後継者に指名されました。やがて崇徳院は保元元年(1156年)7月、後白河天皇へ戦いを挑みました。保元の乱です。しかし結果は、惨敗、乱勃発の翌日には京の仁和寺に逃れ出家しました。

絶望の淵になった崇徳院。そのもとを月夜ひそかに訪ねた人物がいました。西行です。西行は寺の僧侶に1首の和歌を託します。

かかる世に 影も変らずすむ月を 
見る我が身さえ 恨めしきかな(西行)

あなたさまの身を案じているのに、いつもと変らず済んでいる月を、美しいと認めてしまう。そん自分がわれながらうらめしい限り。

敗者となった崇徳院を見限らず、むしろ悲しみに共感する和歌を送ったのです。・・・・・・

西行が讃岐へわたり、崇徳院の墓の前で歌う。なくなった人が怨霊となって害を及ぼす時代

よしや君 昔の玉の 床とても 
かからん後は 何にかはせん(西行)

陛下、もうやめませんか。崩御された今となっては、たとえ昔のままの玉座にあられたとしても、それが何になりましょうか。

古から和歌には鎮魂の霊があると信じられていました。保元物語には、西行の歌によって崇徳院の怨霊は鎮まったと記されています。

知恵泉「西行の人脈力」NHK総合 2014/10/21


詳しく述べる場所ではないので、略しますが

配流先でなくなった崇徳の怨霊を鎮めたのが西行だったようです。ここには当時の人たちの後白河に対する反発さえ感じられます。


京都では・・・・・・次のような別の歌詞が存在する。

京の京の大仏さんは天火で焼けてな
三十三間堂が焼け残った
アーリヤドンドンドン コリヤドンドンドンうしろの正面どなた

・・・・・・この歌詞の「京の大仏さん」が、前述(118ページ)した、秀吉を豊国廟に葬るために造られた方広寺大仏殿を指すことはいうまでもない。大仏殿は1600年に建立され三十三間堂を取り込んだ大伽藍を誇っていたが、1798年(寛政10)に落雷によって焼失した。この歌詞がその事件をうたったものであることは明らかだ。

1800年頃より「かごめ」の歌が流行しはじめ、続々と史料に記録されはじめるのである。つまり、「かごめ」の歌は秀吉の豊国廟について歌ったものではないだろうか。 :P.134-135 宮元健次「日光東照宮 隠された真実」祥伝社黄金文庫


京都の人々にとっても、豊臣秀吉が大人気であったことは想像に難くない。また、その秀吉の墓が徳川によってあばかれたことを、京都の人々は悲痛な気持ちで見ていたことは『京童』や『東海道名所記』など多数の史料が物語っている。

そこであの北野神社の祭神で怨霊と化した菅原道真について「行きはよいよい帰りはこわい」と童歌にうたったように、豊国廟の悲劇についても、秘かに童歌に託したのではないだろうか。 :P.136 宮元健次「日光東照宮 隠された真実」祥伝社黄金文庫


時代は下って、秀吉~徳川幕府の時代になりました。

幸か不幸か、戦乱に明け暮れる京都でしたが、近年はそれからまぬかれたようで、「京都では、先の大戦というと、応仁の乱(1467-1477)のことを指す」という話も聞きます。

そして豊臣家を滅ぼした徳川幕府が、その怨霊を恐れ、徹底的に痕跡を消そうとしたのでしょうか。

  • 現在でも高野山の「奥の院」に、豊臣家ほか多くの敵対する戦国武将たちの墓所がみられ、宗派を超えた空海の教えを暗示しています。
  • 奈良・大阪・京都ではなく、なぜあんな辺鄙(へんぴ)な場所に墓所を作ったのか、と考えてみる価値がありそうです。

とにかくここでは

定説となっていることだけが歴史ではない、と申し上げています。もし余裕があれば、定説を覆す試みにも挑戦してみたいものです。

複雑な現在の「国際関係」では、先がどうなるのか分らないという面があり、変えることができない事実の積み重ねである「歴史」とは意味が違うことを、よく理解しているつもりです。

しかし、定説となっている解釈に洗脳される心配があるという点では、現代の国際社会も、過去の歴史も、同じでしょう。

定説には、大切な一面があるものの、やがてその定説が私たちを悩ませる」とは、つらい現実です。

かつての怨霊と、現在の妖怪では、意味も違うんでしょう。現在では、どちらかというと「かわいい」妖怪を描き楽しむことが多いのに対して、昔の怨霊とは、いい悪いは別として、それはそれはこわ~い存在だったようです。

さてさて、皆様はどう思われますか。


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