誰にも醜聞があります。本人が否定しようが、肯定しようが(笑)。
ここでは最近の「中国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示し、あればリンクも用意しています。
「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みは息(や)む。
:P.10 中村元訳「ブッダの真理のことば感興のことば」岩波文庫 2010年07月26日第53版発行
ブッダが2000年以上も前に
まるで現代の中国社会のことを予言していた、と言うべきでしょうか。
中国共産党には
自分の主張が唯一正しいと思い込み、あきらかに間違っていたとわかっても決して謝罪せず、その反動として自分を被害者の立場に持ち込んで自己を正当化する
という悪い性癖があります。
自分は常に被害者の立場にあり、それ故に世界最高であるはずの真の姿がゆがめられてきた、というのです(笑)。
確かに
仏教は中国に入りましたが、広まることがなかったばかりか変質の兆候さえ見られなかったのは、仏教が中国人の本質とは相容れなかったためか、独裁の支配者がそれを許さなかったためか、どちらなんでしょうね。
いずれにしても
宗教が要求する「謙虚さ」などは、中国人には「ありえな~い!」のでした(笑)。
昔から中国では
周囲の人を敵とみなし、人をだまして自分の利益をはかる事が快感となるよう、洗脳されて生きてきたらしい。
だまされるほうが馬鹿であると思わなければ生存できない社会の仕組みに、そしてそれを育んできた歴史そのものに、諸悪の根源がありそうです。
この利益過信の思想は
欧米人にも見られますが、かろうじて宗教がその行き過ぎを抑えているようです。
しかし中国を支配する儒教という生活上の規範では、現状維持や冒険禁止を唱えはしても、「人をだましてはいけない」とか「謙虚さ」は要求していないようです。
文化大革命期には親をさえ密告して利益を得た子供がいたと聞きます。そんな国民をだます中国共産党を、いったい中国人が信用するでしょうか。何しろ現代の中国人には、政治に失敗した為政者を代える選択肢がないのですね。これを世間では「一党独裁」と呼んでいます。
そして、そんな程度の為政者が暴力でもってそんな程度の国民を育て上げたのは、間違いのないところでしょう。
確かに日本には
事件が起こった江戸時代から歌舞伎や浄瑠璃で人気があった「赤穂浪士の仇討ち物語」があります。ただしそれは江戸時代の話であり、現代では仮に身内が殺害されたとしても、遺族側に「犯人を殺害するという正当な権利」などはなく、すべては法による裁きに従います。これが法治主義。
しかし中国は
いまだに法治国家からはほど遠く、中国共産党が都合よく支配する人治国家のままです。
よって中国には、自分の加害者性を無視して「被害者には常に恨みをはらす権利がある」と考える人が多いのでした。いいかえると法治主義国家へ渡航しながら「法治主義」の意味を知らないらしい。これは生まれ育った中国という国の制度に潜む根本的な問題でしょう。
これが年間暴動件数が10万件とされ、香港騒動でも明らかに民主主義を否定する中国の未成熟さの根源であり、中国人が世界中で起こす犯罪が多いことの主たる要因なのかも知れません。
また
これを中国からそっくり取り入れた韓国だからこそ、セウォル号事故のその後に見られる通り、被害者なのだから何をしても許されると勘違いして暴力行為に至り、またそれが社会的に許される、と受け止められているようです。
ここで、冒頭で引用したブッダのことばを思い出します。中国では永遠に恨みが消えないように仕組まれた暗黙の通念があるのでしょう。中国共産党に対する恨みも、決して消えないように・・・・(笑)。
この国の「客観性のなさ」は、もう笑いでは済まないレベルに達しております。
言論統制が「客観性のなさ」の主たる要因かどうかさえ不明で、ほかに何か本質的な原因があるのかも知れません。
さぁ、これから中国人がどうなっていくか、今こそ注目したいことの一つです。