洗脳が原因となって、ある種のことがらに対して発作的に怒りを感じることがあるようです。「洗脳」されている人が、これは怒るべきであり洗脳ではない、と思うのが特徴です。
- ある組織Aでは、別の組織Bの名前を聞くだけで本能的に嫌悪感をもよおすように、洗脳教育が徹底しているとしましょう。実際にはAとBは対立していていないのに、Aでは部下の怠惰をなくし向上心を鼓舞する意図から、あえて競争心をあおり、Bに対抗するために、嫌悪感を利用しているのです。宗教組織や暴力団の対立でもそうだし、同業種間の企業でも、みられます。これは組織間の流通や風通しが悪い時に最大となるでしょう。
- 団体チーム間で頻繁(ひんぱん)に交流がある場合には、この洗脳はあまり強くはならないようです。国家間でも官民の交流がある程度以上ある場合には、起きにくいものです。
- 中国では、天安門事件〔1989〕でつぶれそうだった中国共産党の「存続作戦」を開始し、国内締め付けの一環として意図的な「反日」国是をあみだしましたが、これも立派な洗脳。
また他人のある言動によって侮辱(ぶじょく)を受け取ってしまい、過大な怒りに至ります。
- 似たような言葉としては、「汚辱」「陵辱」「恥辱」「屈辱」「侮蔑」などがあり、その国特有でしょうが、ある種の侮辱言葉については、これ以上はだめという1線をどこかで引いておかないと「そんな意図はなかった」「差別する気はなかった」と逃げる完全犯罪を許すことになります。
- サッカー2006WC決勝〔仏1(3-5)1伊〕で、ジダン(仏)がマテラッツィ(伊)への頭突きで退場となった事件がありましたが、これも侮辱と関連があります。もちろん頭突きのジダンに非があり退場処分は当然でしょうが、暴力を処分するだけでは「言葉による暴力」を野放しにすることにもなるでしょう。
真相は不明ですが、試合中にマテラッツィがジダンのシャツをしばしば引っ張るのでジダンが「そんなにシャツが欲しければ試合後に」というと、マテラッツィがジダンの出自や母親・姉に対する差別的な言葉を浴びせたため侮辱されたと受取り、ジダンはこの試合が最後だとわかっていたけれど頭突きを放って退場した、というのです。:事件に関する参考サイト
イタリアのマテラッツィのような
退場とはなりにくい小さな暴力を繰り返し、悪質な差別言葉でもって、暴力を誘発する連中
をルール上放置するのは、もうだめでしょう。何らかの手を打たねばなりません。
プロリーグ戦が世界的な商売道具になってしまったことに原因があるかも知れないと捉え、選手同士がぶつかり合いがちなサッカー界が、真剣に考え一刻も早くなくすよう努力しなければならない問題です。
これは、裏タイムカードで不法労働行為を隠蔽したり、裏工場での生産(*)で監査を逃れようとする中国の工場、さらには裏帳簿で脱税を繰り返す日本企業、をどう法律的に対処するかを考えないと、法が機能しなくなり国として深刻な問題に発展するであろうことと似ていますね。
(*)裏工場での生産とは、当局やバイヤーの監査を受け入れる表工場とは別に存在する、不法労働を黙認した別生産ラインをもつ工場のことで、アレクサンドラ・ハーニーによれば中国では当たり前の隠蔽工作だとのこと。
差別言葉を発しても証拠がないため退場処分にしにくく、頭突きなどの暴力行為ならば明確な証拠が残るため退場させやすい、という一面もあるでしょう。選手同士の接触が激しいサッカーでは、これはこの種の暴力事件は、八百長と共に、深刻な問題です。
MLBでは、かつて試合中の集団乱闘事件は日常茶飯であり、薬物汚染も含め、黒いうわさが絶えなかったようで、MLBが協力的でないことも加わり、オリンピックから野球が除外されることになりました。
侮辱されたと勝手に決めつけて暴力事件を起こすことがあります。
問題なのは、どういうことで「侮辱された」と感じるかです。
- たとえば韓国人が中国人から「話し方が日本語と似ている」などと言われたら、韓国人は「侮辱された」と思うのでしょう。なぜそう思うか、明らかに洗脳なのですが、洗脳などあり得ない、ごく自然な感情なのだ、とがんばり、「なぜか」を考える余裕は見られません。とにかく洗脳に満ち満ちた「反日」国是で育った韓国人としては、中国人が「話し方が日本語と似ている」という印象を述べるだけで怒らねばならないなのでした(笑)。
私は韓国人の話し方がとても速くて、日本語と似ていると感じたので、その気持ちを彼らに伝えてみた。すると彼らはいきなり激怒。私が言ったことは彼らにとって侮辱的な内容だったようだ。
私は韓国人が日本人をそんなに嫌っていることを初めて知った。でも、私と一緒に席に座っていた台湾の女の子は納得がいかないといった様子。彼女は私に「韓国人って建物の建て方から、生活スタイルまでなんでも日本人をまねするけど、似ても似つかないものになっている。“日本人嫌い”なんて、全部うそよ」と言った。 (編集翻訳 恩田有紀):XINHUA.JP :2014年10月22日(水)7時26分配信
- またかつて小平は、サッチャーに侮辱されたと思ったから、目の前で痰(タン)を吐(は)いたのでしょう。
1983年だったか、イギリスのサッチャー首相が小平の前で「香港の主権はイギリスのものだ」と主張したが、小平はペーッと痰を吐き「無理だ」と言った。その勢いに圧倒されて、イギリスは中国の外交路線に負けたというのである。ここまで来れば、中国の吐痰文化は西側を圧倒するほどの恐ろしさを持っていると断言してもいいかと思うが、いかがなものか。:金文学「日中韓 新・東洋三国事情」祥伝社黄金文庫 平成23年2月15日初版第1刷発行
もちろん暴力事件にまでは発展していませんが、侮辱されたと受け取るほどの内容ではないと思われることから、この種の首脳同士の会談では、暴力事件にも匹敵するかも。
これこそ小平の野蛮さ、レベルの低さを示すエピソードですが、中国人の本質を端的に示す例と言っていいでしょう。そして朝鮮半島人は、このような野蛮な中国を筆頭国として崇(あが)め、自らはその恩恵を受けた二等国と任じ、海の彼方にある日本・台湾・フィリピン・インドネシアなどは中華思想の恩恵を受けていない野蛮な三等国である、こう1000年以上も信仰してきたのでした。信仰は大切ですが、その内容によっては、世界中から揶揄されることでしょう(大笑)。
- 中国の作家だった魯迅の作品「阿Q正伝」では、主人公である阿Q(無知な農民という想定)には、粗野で未熟な病癖と、自分よりも弱い相手を徹底的に軽蔑する病癖、この両方が対比されて描かれています。この分裂気味の言動は、言うまでもなく、阿Qの心の中で起こるバランス保持の感覚でしょう。周辺からいつも軽蔑されている自分と、自分より弱いと見た相手にあびせる軽蔑は、阿Qの心の中ではちょうど打ち消しあっていて、人間として当然のことになっています。どんなひどい暴力団員にも、自分たちよりもっとひどいのがいる、という信仰があるようですが、これに似ていますか(笑)。
- そこでは、なぜ粗野にふるまうのか、とか、なぜ相手を軽蔑するかを、問いただしてはいません。あくまでも読者が考えるべきことなのです。
阿Qは中国の清末期を生きた無知な農民だ。彼は卑賎で狡猾(こうかつ)で、発作的に醜悪な蛮行に及んだりする無知蒙昧な人物である。このような性格の本性は、阿Q が他人に侮辱されたとき、それなりに応戦することができて、ときには自分より弱い相手を蔑視したりもした。いわば阿Qの行動パターンは屈辱を結果的には合理化させ、つまりは屈辱でさえも本人には勝ったことになる「精神勝利法」なのである。
:金文学著/蜂須賀光彦訳「中国人民に告ぐ!」祥伝社黄金文庫 平成22年(2010年)11月30日第10刷発行
まとめるまでもありませんが、
- 他人を言葉で差別する自由をも認めるべきか
- 自分の身を守るために銃を携行する自由を認めるべきか
- 言い換えると、「差別用語」を浴びせられた人が暴力に走って処罰され、無分別に銃を乱射して射殺されるか自殺しますが、堂々と差別・侮辱する人や社会を野放しにしておいていいのだろうか
そんな疑問を感じるのでした。
「差別する意識」の正当性、と「差別されたと受け取る感性」の正当さ、の問題でしょうか。
「人は、どんな時に差別したくなるのか」と、「人は、どんな時に差別されたと思いたくなるのか」は、解決困難な難問ですが、何としてでも緩和させるべき主題でしょう。