窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

松山城(金亀城)

2013年04月07日 | 史跡めぐり


  更新に間が開いてしまいましたが、高松城を訪れた翌日、帰りがけに松山城まで足を延ばしてきました。典型的な連立式縄張りを持つ松山城もまた、子供の頃から訪れてみたかった城の一つです。ただ如何せん、帰りの飛行機の都合でじっくりと見ることができませんでした。



  松山城は「賤ヶ岳の七本槍」の一人であり、文禄・慶長の役(1592年~98年)で数々の武功を立てた加藤嘉明によって、関が原の戦い後の1602年に築城が開始されました。本丸までの標高が132mと、姫路城の約三倍の高さに築かれた平山城で、現存十二天守の中では最も高い位置にある城郭です。このため、本丸へは登山道のほか、ロープウェイとリフトが利用できます。

 

  嘉明自身が朝鮮出兵で安骨浦城(倭城のひとつ)を拠点としてした経験から、松山城は極めて実戦的に築かれた城でした。最高で20mある急勾配の石垣は、見る者を威圧します。しかし、その鋭さがまた美しさとしても感じられます(写真右は太鼓櫓)。



  戸無門。本丸の登城道に設けられた高麗門。創建当初から脇戸がないので、戸無門と呼ばれています。何のため扉のない門をわざわざ設けたのか定かではありません。一説には敵を油断させて次の筒井門と隠門で挟撃するというというのがありますが、それでも敢えて扉を設けない理由にはならず、無理があると思います。

 

  筒井門(写真左)と裏から見た隠門続櫓(写真右)。筒井門に到達した敵を右側背部にある隠門続櫓から攻撃できるようになっています。



  筒井門を抜けても、その先は太鼓櫓(左端)と太鼓門(右端)を続櫓で結んだ、大変堅固な造りになっています。

 

  太鼓門(写真左)とその右側背部に位置する巽櫓(写真右)。ここでも太鼓門に到達した敵は、門と巽櫓の二方面から攻撃を受けることになります。

 


  本丸に入ってからの第一、第二の防衛線を突破し、ようやく大天守と小天守、二つの隅櫓を続櫓で結んだ連立式縄張りの天守群(本壇)が見えてきました。連立式は日本城郭の縄張り形式としては最も堅固なもので、それだけ実戦的ということができます。最も有名なのは姫路城で、他に奈良県の高取城も連立式です。攻め寄せれば、正面と張り出した小天守の三方から攻撃を受けることになります。

  なお、切込みハギの石垣を見て分かるとおり、この本壇は1854年(安政元年)に松平勝善が再建したものです。

 

  一の門(写真左)と二の門(写真右)。一の門に到達した敵は、小天守、筋鉄門東塀、一の門南櫓、三の門南櫓とほぼ四方から攻撃されることになります。二の門は1784年(天保4年)に落雷で焼失し、1854年(安政元年)に再建された、高松城の水手御門と同じ薬医門様式の門です。二の門も、一の門南櫓、二の門南櫓、三の門南櫓の三方から攻撃を受ける、袋小路のような構えになっています。

 

  三の門。こちらも1784年(天保4年)に落雷で焼失し、1854年(安政元年)に再建された、戸無門と同じ高麗門です。高麗門は薬医門をより簡略化し、屋根を小さくすることで守備側の死角を減らす工夫がなされた門です。すぐ右隣は大天守であり、この門に到達した敵は大天守と正面の三の門南櫓から攻撃を受けることになります。  



  筋鉄門(すじがねもん)東塀と筋鉄門。筋鉄門東塀も1784年(天保4年)に落雷で焼失し、1854年(安政元年)に再建されました。小天守、一の門、一の門南櫓を防衛します。



  連立式の縄張りは、四方を天守・櫓などで取り囲んでいるため、必然的に中庭ができるのが特徴です。城にとっては最後の防衛線と言えます。上の写真で見えているのは、左端から北隅櫓、内門です。



  小天守(写真左端)。二層二階、黒塗り板塀の大天守に対して、小天守は純白の外壁をです。写真右端は南隅櫓で、乾門の防衛と麓の二の丸、三の丸を監視する役割を持つ二層の櫓です。その間をつなぐのが多聞櫓で、南隅櫓と紫竹門を防衛します。これらはいずれも1784年(天保4年)に落雷で焼失し、1854年(安政元年)に再建されました。

 

  内門(写真左)。1854年(安政元年)に再建されましたものが1933年(昭和8年)の放火により再び焼失、1968年(昭和43年)に再建されました。その奥の仕切り門(写真右)とは内塀により枡形に囲われており、乾門方面を防衛する構えとなっています。



  穀倉(別名米蔵)。現在は大天守入口として使われています。内部に防腐力の強い樟(くすのき)を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避ける構造になっていました。



  大天守。現存する三層四階(地下一階を含む)の天守は1854年(安政元年)の再建になるもので、日本で最後の本格的城郭建築です。中にも入ることができます。



  小天守から一の門を見下ろした写真です。松山城の堅固な造りが良く分かります。



  最後に、本丸の井戸。この井戸は深さが44mもあり、当時の土木技術では掘り下げることができないと考えられていたほどの深さです。しかもこの井戸は現在でもなお水が湧き出ており、松山城創建時の高い技術力を窺うことができます。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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