富岡総合公園。ここは旧日本海軍初の飛行艇隊である横浜海軍航空隊が置かれていた場所です。戦後はアメリカに接収されていましたが、1971年(昭和46年)に返還、現在の富岡総合公園と神奈川県警第一機動隊となりました。
昔はただの沼だったこの池で子供の頃、メダカやザリガニを釣った思い出があります(落ちた思い出も)。しかし、そのわずか10年足らず前までここが米軍の施設(ベトナム戦争時は通信基地としても使われました)だったとは、当時想像だにしませんでした。
横浜海軍航空隊の名残である、隊門跡。他に飛行艇大格納庫が第一機動隊の敷地内に残っています。
富岡総合公園から鳥見塚の交差点にかけての桜並木は、現在、お花見の名所として市民に親しまれていますが、この桜の樹も昭和11年の横浜海軍航空隊発足時に、隊員達の手によって植樹され、育てられたのが始まりだそうです。
年々歳々花変わらねど 征きて還らぬ戦友多かりき
戦前には九四式水上偵察機、零式小型水上偵察機、九九式艦上爆撃機などを生産し、戦後は国産初の旅客機YS-11を生産したことで知られる、日本飛行機が現在でも近くにありますが、その他にも、大日本航空の南洋航路の拠点となるなど、この一帯は戦前の一大航空拠点だったようです。
さて、その桜並木の麓にひっそりと佇む祠があります。海軍飛行艇隊の戦没者殉職者、約二千柱を合祀した浜空神社跡です。
日米開戦後、九七式大艇や当時世界最高性能を誇った二式大艇を擁する横浜海軍航空隊は、その航続力を活かし、ハワイ、インド、アリューシャン列島、オーストラリア、ソロモン諸島といった広大な範囲にわたる哨戒・偵察活動を行いました。しかし、1942年(昭和17年)、ガダルカナル諸島のカブツ島において、アメリカ軍の襲撃を受け全滅しました。
なお、浜空神社は2008年(平成20年)、横須賀の雷神社に移されています。
最後は鳥見塚です。日本最初の元号が大化であるのはご存知だと思いますが、二番目の元号は白雉(650年~654年)といいました。穴戸国(山口県)の国司、草壁醜経(くさかべのしこぶ)が、麻山(おのやま)で捕らえた白い雉を孝徳天皇に献上し、これは瑞祥であるとして元号を白雉と改めたというのが定説です。
ところが、ここ富岡には別の伝承が残っています。都築のある長者がこの地で白い雉を捕らえ、朝廷に献上しました。朝廷はこれを瑞祥であるとして、元号を白雉と改めました。長者は喜び、この地を「鳥見ケ岡」と名付け、雉の霊を慰めるための塚を作り、人々はそれを「鳥見塚」と呼びました。それからというもの、この村はだんだん豊かになり、やがて「富岡」と呼ばれるようになったというものです。
以上で今回の富岡史跡探訪は終了です。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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