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1本の白百合!

2017-08-17 01:10:39 | 日記


(公園の植栽の中に、なぜか1本だけ咲いていた白百合)

今、特になにも書くことはないのですが、白百合の花の写真を撮ったのを思い出したので、
アップさせていただきます。

今夕、涙雨のなかを散歩の途中、公園の植栽の中から一本だけピヨーンと飛び出ている
白百合を見つけました。テニスや散歩でいつも通る道でも、偶然、えっ!と気がついたの
です。当地の白百合はとっくに散ってしまったと思っていたので、まだ咲いているのかと遅
咲きの白百合に驚きながら、スマホで撮った1本の白百合です。

涙雨の意味が曖昧なので調べてみました。
なみだあめ【涙雨】
①悲しみの涙が化して降るという雨。 「虎御前の-」
②ほんの少し降る雨。
一 大辞林 第三版の解説一

一白百合について、ネットで少し調べてみたのですが一
①白百合の花言葉は、純潔、威厳、無垢だそうです。
②また、フランスの国花(アイリスとユリ)でもあるのだそうです。でも、諸説あるみたいです。 
③そして、キリスト教ではイエス・キリストの復活を象徴する花でもあるらしいのですが?
④「白百合学園」という学校名はカトリック系の幼稚園から大学まで、全国に幾つもあります。

また、1本の白百合は、“死者に捧げる花” という意味合いもあるそうです。 
 (しかし、百合の花などは本ではなく一輪と書くべきなのでしょうか?植物は本、花は輪と
 いう説もあるようですが、加藤登紀子さんで有名な『百万本のバラ』が「百万輪のバラ」だ
 となんだかイメージが違ってしまいそうです)

 ※余談ですが、この『100万本のバラ』の原曲は、ラトビア歴史の悲劇を歌った歌詞だそ
  うです。曲は同じでも歌詞は異なるのだそうです。
  でも、加藤さんの歌う『100万本のバラ』、いい曲ですね。日比谷の野外音楽堂で開か
  れていた加藤さんの「ほろ酔いコンサート」も、とうとう観る機会がなく終ってしまいました。
  京都でお父さんが創業した「レストラン キエフ」は加藤さんのお兄さんがが社長で、現在
  も盛業中のようです。佐藤優さんも昔から通っていた店のようで、いつの日にか機会が
  あったらば、と。しかし、久しぶりの京都に行ったら寄ってみたい所ばかりです。 

⑥新約聖書に書かれている「空の鳥、野の花」の「野の花」は何の花かについて、僕は百合
 なのだと信じてしまっていました。 でも、そうとばかりは言えないという新約学者の説がある
 みたいです。せっかくの検索結果なので、キリスト教に興味をもつ人以外には?だと思い
 ますが、記念として記録させていただきます。たまたま何かの因果でこの個所が検索結果
 でヒットして荒井先生の所説にまで興味を持たれる方がいるかもしれません。すみません。

第二章 聖書の自然観
一「野の花」はあざみ― イエスの自然観によせて

マタイ6・25―34およびルカ12・22―32のQ資料に言及される「空の鳥、野の花」の「野の
花」は何の花であったかを問いながら、イエスの教えの視点がどこにあったのかを、鮮明にす
る印象的一文。元来の百合説、アネモネ説を退けてあざみ説を提示し、その根拠を挙げる。
植物学的、地理的、色彩的、文化的、歴史的要素を挙げたあとで、ルカの記事が「烏のことを
考えてみなさい」と述べることに着目し、「神が人間の命を養ってくださるということの視点に、
鳥の中でも当時のユダヤ人の価値基準から見ると最も低い存在である烏を置いた」(115頁)
ことから、棘を持っている「あざみ」がマイナスイメージを与える野の花として、もっとも適
わしい
ことを、聖書での引用箇所を挙げながら検証していく。結論として次のように述べ
ている。


「このイメージは、イエスの厳しさに通ずるのではないか、……イエスの優しさは、極度の厳し
さに裏打ちされていますので。つまり、最も小さいもの、最も価値の低いものに対する評価と
は、最も小さいもの、最も低いものにとっては、正に優しさとして受け止められると思いますが、
そういう存在を踏み台として、経済や政治や支配していた人々にとっては、最も厳しい批判
になったはずです。そういう意味の厳しさです」(一一八頁)。イエスの自然に対する姿勢がど
のようであったかを直接的に語るものとは言えなくとも、イエスが自然に極めて近く生活して
いたことを察することのできる論考である。
(下記の赤字・リンクから書評の全文16頁が読めます。※pdfです。)

「成果と展望」 書評 絹川久子 
「荒井献著『聖書のなかの差別と共生』 岩波書店、1999年、329頁」についての書評

◆この記事は翌朝に書き足しました。万が一、朝方読まれた方には全く別の記事になっています。
追記が(どうでもいいことばかりなのですが、興味のある方以外には、またご存知の方にとっても)
多くなってしまいました。でも、久しぶりに「レストラン キエフ」にも立ち寄ることができました。加藤
さんの歌も久しぶりです。、『マーラが与えた人生』(百万本のバラの前身の曲、原・言語)もですけ
ど。しかしこの歌の歌詞は、間違ってもロシア語などではなく、ラトビア語だと思うのです。絶対に!
またまた、またの追記です。念のためユーチューブのコメントを見たら、何たることかロシア語だそ
うです!ラトビア語での歌を探す気力も失せてしまいました。でも、ソーニャも、ロシアの大地と民謡
も、お世話になったトルストイも、その他……ロシアも大好きなのです。 

昔、中沢民人さんは新婚旅行でロシアに行ったときに、赤の広場で声をかけられたと?この話、Kさ
んはご存知のはずですよね~。でもこのブログへのKさんのアクセスは一切ないと思うし……(涙)
でも、中沢さんの民人を逆にすると人民なのですね。父上の関係だと思いますけど、
人民はロシア語だとナロード?グーグルの翻訳だと人民・人々はлюди(発音はヌージェでナロードで
は無い」)それで、ウイキペディアを見たら、「ナロードとは農民に代表される一般民衆を意味し
[1]
ロシア語の表現"
Хождение в народ" (Hozhdenie v narod, 「人民のもとへ」)に由来する」
とあります。ここのnarodはグーグルの翻訳だと人々となってます。人民・人々などは複数の表現が
あるのでしょうか?
しかし、中沢民人さんがロシアに帰化したら、「Narod Наказаву」「人民 中沢」になるのでしょうか?
でも、帰化したって名前は変わらない。D・トランプが日本に帰化してもトランプでいいわけですから。
なんだか、気の利いたことを書こうと思ったのが、無駄な抵抗となってしまいました。
ところで、中沢さんいまどうしてますか。 そちらの世界はどうですか。こちらはご覧のとおりです……( )
しかし、そちらの世界にいくのも順番ですね。順序不同ですけど。またよろしくお願いしま~す! 

 


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